英国製自由主義の正体

 表面由由とか卒弊とか鳴へなが
ら、英肖が如何にして世界を侍略
し、女乱しようとしたか、その一
例として茶園」黎自由重荷なるもの
を凍り上げて申し上げることに致
したいと存じ‡ナ.
 今日の英幽は二人め女王の時代
に作られたといはれますが、この
二人の女王はエリザベス女王とグ
イクトリア女弐であり、英拘はl
少ザべス女王の下に興りゲイクト
リア女王の代にモの捲頂に鎗した
のでありました●
 むち今から三宮五十年持前、†
六世紀のエリザベス女王の治世忙
く41)
 大丈亜頻眈の正者の例の閃くと
こる、香弛マレ1帯ち、シンガポ
ールを抜かれ、又ビルマを倒され
印度液洲のま配も勅柿し、かりて
捻世非中を托が稗頻に嫌行した英
聞も今やたゞ漁落の−途を辿る外
ない胱儲叫となりました0
 この英帝凶の没落は英槻の故首
年に互る自己本位の登狩なやり方
の報ひヤありまして、今や日出ゴ
る閑8本の光の鮒には、もはや如
何なる手段をめぐらレても、英輿
はその傾いた月の光を呼びかへナ
ことは川雑ないのであり士ナ.
捗浪費虚の噂舵に入り、アメリカ
に北米故郷の頼氏地を開拓し、エ
リザベス自らこれをグアージ;ヤ
上名付けたものセありました.
 そして英関は敗洲に湖を咽ふべ
く、さらにオランダ海軍上戟つて
これを破り、次いで長い偶の確ひ
の後、フランスのナポレオンにう

ち砂つたのやありました.
 併し海を癒えて歎洲を滋配する
といふことは、フランスやスペイ
ン、オランダを破つても、ドイツ
ハ潮時のプロンヤノありオースト
リアあり、ワシアありでたかく
帆雄なことを懸り、こ1に共闘は
海賊蹄鮒と海賊行飽にょり、梅に
披って執を哨へんとしたのであり
ました。そしてこの海鵜飼英幽に
狙はれたのがアフリカであり、亜
軒並でありました。
 丁胱この噴ゼームス・ワットに
よつて弗気♯帥が黎明され、海上
稚と確併した英国は、きかんに茶
鮨舶をつくつて七つの海をわが物
軌忙往来したのでありました。又
この舐錬城姐の教明は紡掛槻械の
澄明と相倹つて、尚内の施策を手
工架から潮力を用ひる碑械工業と
し、座薬革命を淋したのでありま
値段で共立に溌りりけたものであ
ります.かうして英幽は他の閲が
閑内のゴクんl・・−で産輩命をなし
とげるのが和くれたこと1、又英
幽が偉夢な海上夢カを占めてゐた
倦フから、世界の牙易を逸早く桝
ホナることが出水る敗耽にあつた
のであります。
 そこで老舟な美園は節時アラy
ス卒命を境に如こつた榊人の由由
を執粥ナる思想を利用し、圃と幽
との難済や貿易の上でも出由放任
とし、めいめい普中古せるべきで
いはゆる細粒をかけてほならない
といふB由貿易主義の今昔梨を唱
へたのでありました。常時共幽の
中でも多くのものが伴建細粒をと
ることを主張したのでありますが
併し海外を支配せんとする英国政
府ば永い伺か1つてこれを押鵬し
 て包由貿易制度をとつたのであり
 ました。これは唯今申し上げまし
 たやぅに批に繕光#命をなしとげ
 又沖山の舵を持つてゐた共駒は自
 分め者争相手となる困はないと伺
時忙、今まで良治自足であつた各
開の同い簸を打破つてその中忙吹
ひこむため忙ほ、どらしても各回
の湘秘を轍購きせ、自分の困の弛
んだエ菜による物をいはゆる舶来
品と移して自由に甘りこみ、これ
からだんくせ界を支配しょぅと
思つてゐたからでありました.
 従つてこれは弊圃のせ界支配の
大きな謀略でありまして、その折
果それまで自給潟足をしてゐた氷
点は、その嫡料を葬岡に迷ばれ、
これが目の玉の飛び川るやうな海
い使段の商品となつて、逆に光誠
に貸りつけられることになつたの
でありました。こ1に我国の水盤
伎略が行はれ、来意の大きな不孝
が始まつたむでありまして、その
 】番大きな犠牲ほ印庶であり、英
幽は始め氷川度合批なる紫易禽杜
を作つて、桝人の希板で抑故に入
りこみ、やがてこの梵易合址が兵
除をもち、行政械をもち、これが
 つひに英幽の完全な印度文配をな
 しとげたのでありまナ9この発明
の自由耳鼻主為が秩峨であつたこ
とは墟年8本の工費が進んヤ茶斡
の製品を次ぐに重りますと、英国
は手のひら空かへナやうにモの自
由貿易力耗をナて、日本商品の前
に塵い榊秘をかけ、その上卑劣に
も日本航の不†鶏動を各地でねこ
きせたことがはつきり帝明ナると
こるでありまナ.そしてかのオタ
ワ曾議に次ぐ日本印眈、日本渡洲
骨観でば、汝洲印度が日本の安い
粥品を又はうとしても芙本田は甘
に之を奉湘し、つひにこれを対日
経済那姐にまでかX立てたことは
甘棟御衆知のとこるでありまナ。
 婆するに英国はか1る老檜な手
段とその海賊締紳を似て舟々槻比
地を耕大し、礁桝、三AIジーラ
ンド、カナ〆、印・匪、南阿聯邦埠
と、いはゆる彼坤の太股の溌ナる
ことな故地い地域をその下にわ
き、租民地でないところへも台地
梵易滋鞋を以て池川し、紬鋳的に
世界を支乱しナベての竜製品む粕
鴇はワン「ンで立ち、_ンドンは
(42)
「袖派椚gりい絹g…=
た.かくてゲイクトyヤ女吏の時
代には英本納はその枚民地の小
心、世界耗済の中心とな妙、英凶
人は働かずして莫大な妬けを得中
世界の大地主となり、その財務や
牧人はふえる一方で野沖な生活を
ナることが川衆たのであり‡ナウ
 これが英拘の自由貿易東鶉のか
らくりであり‡ナが、この出由貿
易ま礁を瀬幻二面としまナとその
反面をなナものが、政治上思想上
の自由主務であると申きれるむで
ぁります.その頃欺洲紆飼は専制
野島の下にその槻民は奴隷の状態
にあつたのであy‡した。モこで
飲料では、「人胴は人格を持ち−人
間はどんな生れどんな頻汲のもの
でも人間として待汲きれなければ
ならない」として、寄倒君義や食
族の鹿利から解放きれることを叫
ぷ卑がおこつたのでありましたが
常時の炊洲としては尤もなことで
ぁりました.盤静な共闘はとの思
想を逆用し→人間は本務自由であ
る。自分で作つた射鼓、日分のも
つ椎在はこれをどうナるのも自分
の勝手である.政府はこれを干渉
してはならない。国家は個人の財
産の♯犬の役目丈をしてをればょ
い.閑良性畠分の率崩は自分で作
り由分で考へる」といふ白地壷我
デモクラシーの思憩をつくり上げ
て、英樹の貿易舶と一紆に海外に
遣り出したのでありました。
 この甘楽は表面一見尤もらしく
しかもその姦には英槻の大きな俸
りがあるのであり‡ナ.
 それは身分が海賊行悠によつて
成金になり、りれを触梓ナるため
にいひだしたことでありまして、
印庶などからはその物強や財産を
とり上げ、由的や事前を蓉つて如
きながら、この遊殊な柵民政紫を
胡鹿化ナために、表南東しい合甘
共を作り出したのであり士ナ.そ
してまた、か牲の措民地をもつて
おれば、英本国人壮美堵の中では
ゼイ坪瀬劫朽が出水るのは侍り前
で、これは自由主義や一′セクタシ
ーのせいでは毛頭なく、盆く世界
の符と糞滞を瀬零したからで、い
はゞ入漁棒が仕事をし上げてから
寄砦なことをいつてゐるのと同じ
でありまナ。
 かうして英拘はこの思想や政治
の上の持由浅瀬を、常時やはり英
国が狗占してゐた励信頼や首鯨鞭
朋を利用して牡非にまきちらした
のでありまナ0
 これは漸く、共闘公課略に日食
めて兵団に立ち向はうとナる粥の
枚一を窮め、剛締心を切り崩し、
民凍鴇有の文化を破攻し、特に氷
亜にあつてす焚剛健の泉凪を奪つ
て、革架の思想をはぴこらせたの
でありまナ。かうして各駒民を舟
炊きにし、これに1つて英幽の世
界支祝の日的をなしとげょうとし
たものでありまして、十五、六世
紀に世界に清濁したスペインやポ
ルトガルは貿易舶と一緒に宜教師
をたつたのでありまナが、十九潜
転の英幽は有るめかしい宜数榔よ
申もつと有力な式♯d由圭一々一旺
ら王いたのであり、,」れはま〓と
に巧妙なやり方でありましたが、
これが共囲曹由主義の¢¶ない
本班でありまナ.
 きれば口に由由、平♯を唱へる
英尚は、自分以外にはその正反射
の無為赦な⊂とをして些かも恥な
いのであり士して、モの】例を申
し上げまナと、海映一つを柏て▲
棚封ナる鵜朝アイルヲγドに封ナ
る冷敢な叔耗ひでありまナ.
 英閑が由山紫鼻をとつた頃、T
イルランドは美的の水い仰の稚収
に上つて荒野と北し、恐るYき火
飢渾に♯はれてゐたのでありまし
て、アイルランドは、外尚から繋
い食椅を男ひ入れるととを肝可し
てもらひたいと英田に併へたので
ありました。点るに良由主耗者英
国はこれに艮向から反射し、由分
たちがしたと同じことを行ほう上
したアイルランドには、自由焚旦
ほまかりならねと驚くべき憑庶を
示したのでありました.そして飢
(43)

ゑてゐ乙アイルヲyF人を榊にの
せて、カナダに温故したのであX
まして、これは美園の自由主萌の
流せ領空不すものでありまナ.
 英幽が相成に対してとつた意ま
ほこれにも飾るものであ野、叉同
様な行ひで、それ蓬自給出足して
ゐたま淋忙貿易きせろため、鮨挽
に阿片を繁りつけ阿片壌単数しか
けて、安部から香催を琴つたのは
御水郷のとこるでありまナ.常時
英凶の新閑デーツーエアレタラフ
は牡鮎として
 r我が国家的象徴忙侮辱を加へん
とする丈郷官吏を鞭にて打て。粗
以てわしまげ、英由人ひさりのた
めに犠牲忙してはゞからず、彼が
俊略した液民地金弊げて英国金種
生瀬の飽くなき抑坂の新堀とした
のでありました。而餅忙して英本
閲の一桝二倍、人口忙して九倍平
に竣する抵民地は、共闘魂自由主
義の名に土つて牡鹿的忙虐げられ
その他の囲もこのため少からね破
替を蒙つて爽たのであります¢
 併し今やこの英由の自由主義の
僻雨は、我が団の伍に白日幻下に
徹底的に暴帝きれたのでありま
す.僻同をはがれた美園の末路は
眈にこれを漁官した老があり王
ナ。それは誰あらう、外ならぬ英
国人自身で、英押入の停巷的性格
を咽破したカーヲイルはrきうで
ないのにきうらしく見せる行悠、
かゝる練絹な欺僻村悠はこれ盈行
ふもの1魂を破残するLと軒官し
たのであyます.改印ち正革と人
浩を失つた英国の漁汚は、きすが
老冷な英国人の如何なる努力を以
つてしても最早到底防ぎ得ないの
は、茶幽の池去め邦健畢に射する
常然の酬ひといふぺきでありま
ナウ
ハ五月十九8改名)