明治維新の心

 明治維新の日本と、今日の日本
は、国家の大きな躍進の境目であ
ること、国家が我が国本来の姿に
立ちかへつて、鉄石の団結をしな
ければならないことにおきまして
は、全く同じであると申すべきで
ありませう。
 先日この国民読本でお話しをし
たことがありますやうに、我が国
が徳川三百年の鎖国の中に、太平
の夢をむさぼつてゐると、イギリ
スや、アメリカ、フランス、ロシ
ヤといふ列強が、犇々と東洋に侵
略の魔の手を伸ばし、明治維新の
頃にはこれらの勢力が、我が日本
をもとりまくに至り、あはよくば
日本を占領し、少くとも支那のや
うに事実上の植民地にしてしまは
うと、うかゞひ狙つてゐたのであ
りまして、日本が興るか亡ぶかと
いふ瀬戸際に立つてゐたのであり
ました。
 これに対し、私たちの父祖は八
十年前どうした心構へでこれに臨
んだでありませうか。
 申すまでもなく、私たちの父祖
は、日本がこの外国の圧迫をしり
ぞけて堂々と世界に乗り出すため
には明治天皇の下に国民が一体
となり、政治も、経済済も、軍事も
その他すべてに亙り、古い封建制
度のやり方を脱ぎ棄てて国内の体
制を、国家の発展を中心として建
直し、国力の充実強化に向つて、
まつしぐらに進む外ないと考へた
のであります。
 そしてこの固い決心の下に、遂
に幾多の困難にうちかつて、今日
の世界の日本の基ゐを切り開いた
のであります。
 慶應三年十二月九日、皇政復古
の大号令が下され、畏くも
明治天皇には、政治を御親らした
まうこととなつたのであります。
ここに源頼朝が鎌倉幕府をひらき
武家が政権を握つてから約七百年
にして、我が国本来の姿に立ち帰
り天皇御親政の世となつたのであ
りまして、我が国では、国家の一
番大切なときには先づこの國體の
麗しさが輝くものであります。
 皇政復古の大号令が下されまし
た、慶應三年の翌年慶應四年、即
ち明治元年には、鳥羽伏見の戦ひ
がおこり、戦ひは東の方にも及ぼ
うとし、人心もまた落着かない状
態にあつたのであります。
 この際に当り畏くも明治天皇
に於かせれらましては、国是を天
地神明に誓はせられ、国民の嚮
ふべきところをしめし給うたので
あります。これ五箇条の御誓文で
ありまして、明治新政府の方針は
一、神武天皇御創業の大精神に基
いて行はれるものであることを、
はつきりとしめし給うたのであり
まして、
「我国未曾有ノ変革ヲ為ントシ、
朕躬ヲ以テ衆ニ先シ、天地神明ニ
誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万民保
全ノ道ヲ立テントス、衆亦此旨趣
ニ甚キ協心努力セヨ」と仰せられ
てをりますのは、まことに恐れ多
いきはみでござゐます。

        ×

 かうして明治の御代の政治は、
その緒についたのでありますが、
ここで最も大きな問題となつたの
は、未だそのままになつてゐる藩
大名といふ問題でありました。全
国の二百七十に上る諸藩諸大名は
相かはらず、土地と人民を支配し
てゐたのでありまして、このこと
は明治新政府の命令を、全国に徹
底するのにさまたげとなつてゐた
のであります。
 そこで長州の木戸孝允などは、
従来のやうに諸藩大名があつては
どうしても皇政復古の実を挙げる
ことは出来ないと考へまして、大
名は土地と人民を朝廷に還し奉る
やうにと、版籍奉還のことを図つ
たのであります。
 併し、これは申すまでもなく、
歴史的には曾てない大きな変革で
ありまして、長い間の人情から見
ましても、また多くの人の利害の
上から見ましても、全く不可能と
いつてよい程困難なことであつた
のは、容易に創造することが出来
ます。尊皇討幕といふことは考へ
てゐても、自分の藩がなくなつた
り、武士の地位を失つてしまふと
いふことは、多くの人は殆んど考
へつきもしなかつたことでせう。
従つて木戸孝允の説に対しては、
始めは同じ長州藩の中でさへ「木
戸を刺せ」といふ極端な議論さへ
おこつたのでありました。
 併し木戸孝允等は、薩摩の大久
保利通、土州の板桓退助らと図り
長州、薩摩、土州が中心となり、
後には佐賀藩がこれに加はつて話
を進め、つひに明治二年六月は至
つて、版籍奉還が実現されたので
あります。
 この版籍奉還によつて、我が国
内は新政府の下に統一されたので
あります。
 しかしその実、以前の大名は、
藩知事としてその領地に留まり、
藩知事と人民との関係は、恰も以
前の大名と家来のやうな関係にあ
り、長い間のしきたりとか情実が
なほ残されてをり、各藩は徒らに
藩を中心として立ち、中央政府の
命令は、なかなか行きわたるのが
難かしかつたのであります。
 そこでこの際、版籍奉還といふ
体制を一歩進めて、名実共に封建
の制度を一掃して、新しい体制を
一歩進めて、新しい体制を確立す
ることが、どうしても必要となつ
たのであります。ところが、頼朝
以来七百年に亙つて続いた封建の
制度を、全く廃するといふことは
固より一大事でありました。
        ×
 しかす、嘉永六年にペルリが浦
賀に来て以来、俄かに烈しくなつ
た海外列強の進出、圧迫といふ形
勢は、いまここで明治の新政府が
足踏みをし、ためらふことを許さ
なかつたのであります。日本がこ
の海外列強の圧迫を退け、逆にこ
れら列強の一員となつて躍進する
ためには、一日も早く、国内の新
しい体制をうちたて、政治、経済
軍事の力を中央政府の下に一纏め
にして、強力な陣営をつくり上げ
て挙国一致とならなければならな
かつたのであります。今日いはれ
る国防国家を作りあげることが、
何よりも必要であつたのでありま
して、この前には、一人一人の感
情や利益を超越しなければならぬ
ものがありました。
 私どもの父祖は、よくこの目標
を誤らなかつたのでありまして、
明治四年七月十四日、遂にさしも
困難と考へられた藩を廃し、県を
置く廃藩置県が断行されたのであ
りました。西郷隆盛が当時「お互
に数百年来の御鴻恩、私情に於い
て忍き難きことに候へども天下の
大勢かくの如く全く人力の及ばざ
ることゝ存じ候」と述べてゐるこ
ころは、よく私共の父祖の情と理
をつくしてゐるのであります。
        ×
 この廃藩置県の断行によつて、
名実共に皇政復古は全くなり、封
建の制度は廃されたのであります
が、これは全く当時の我が国を、
めぐるはげしい国際情勢の中にあ
つて、国民が等しく君民一体の國
體観念に徹し 明治天皇の下に、
火の団結を以て御奉公のまことを
捧げ、祖国日本の躍進を図らうと
いふまごころに、出たものと申す
べきでありませう。
 そしてこの廃藩置県以後、我が
国の進歩発展が、まことに目覚し
い勢ひで行はれ、我が国は名実共
東亜を背負つて立つ、大日本とな
つたことは、茲で申し上げるまで
もありません。
        ×
 今や我が国をめぐる国際情勢は
明治維新当時に劣らぬものがあり
ます。しかしまた私達の前途にあ
る大きな光は、更に/\輝かしい
ものがあります。私共一億国民は
今ぞ明治維新をなしとげた父祖の
心を心として一致団結、この重要
な時期を、我が国躍進のため、そ
して世界の正しい発展のための時
期としなければならぬと、固く固
く決意する次第であります。

        (十二月一日放送)