神嘗祭の御儀           神祇院副総裁 飯 紹 一 省

 十月十七日は、皆様御承知の神嘗祭である。
 神嘗祭は伊勢の神宮で執り行はれる、一年七度の大祭の中でも
殊に大切な御祭儀であつて、この日は畏くも 天照大神が神廷に
於いて本年の新穀を聞召させ給ふのである。
 謹んで神代史を拝するに 天照大神は稲・粟・稗・麦・豆など
の五穀類を以て
「是ノ物ハ那崩朝鮮ノ食ヒ蒜ク可キモ/也」
 即ち、これは天下罷民の生浦安料とすべきものであると仰せら
れまして1それそれお作らせになつた盛が、何れも点々と上く耳
つて立疾に成軒しましたので、御自らも清らかな新宮でそれを閲
余し、なほまた皇孫亀々押合が降段あそばされる時にほ、特に済
み清めて、御紳殿にお供へ申してあつた合い増穂をお授けになつ
て、之を豊永代の御料とせさせ拾ひ、また較に日本農産の源を
朗かせ給ふたのである。
今日我が国の農産年朝ほ、莫大なものであるが、串良の主食和
たる米を初め、重な豊物は皆、この時に沖から脇はつた監
が大本となつて−現在に箸つてゐるのであづて、現下の非常時に
於いても、国民の意くが必弊な限りの生活費料を供給されて、そ
れの立場で、−家替族を養って、打揃うて御奉公申上げることが
出来るのは、全く天限大紳の試き勧紳恩である。
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 古来秋の収唾の噂を期して行はれて丞つた紳嘗祭は、かや・つな
争い御由緒に基づいてゐるのであつて、普8伊努の絆宮では、大
御田の御相の初穂を以て謂理L奉つた、御飯・御節・勧酒その他
の大卸韓を衷・兵して、鹿そかに御祭儀を執り行はせられ、宮中か
らは、卸痛代何れも勅使を御変蓬になつて、市島を専らしめられ
た0
 その時 天貞は特に辞革の御輿束を召して、先づ恭しく紳宮を
邁斉あらせられ、勅使に「好く申して奉れ」との勅命を停へ替せ
拾ふ御例であつたと承つてゐる。
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 明治の御代から筆分か頚制を改められたが、只今伊野の畠大紳
宮では、群嘗祭前夜の亥刻から、御祭儀を鞘治せられた菌例に管
はせられ、†六日の午後十噂から由貿夕大勧竣供蛮の儀、常8午前
〓噂には、由費朝大御餞供並の儀を、何れも密時の裡に行はれる。
 純白の舛服を着けた教十人の紳官が、紳代の如き辞寂の紳竣を
静々と参慈して奉仕する有様は、軍に荘重森展の極みである●
大御既供遊の俵が終ると、正午には奉幣の儀があつて、勅使が奉
じて参られた帯吊を、紳宮埼宜が大約床に辛夷し、次いで勅使の
抑祭文舞上が行はれる。そして午後大喝からは、大御前で御紺碧
が奏せられる。群宮での紳昔祭の藷俵はこれで全く了るのであつ
て、大地は古傷に従はれてゐるのであるが、臭も皇室に於かせら
れては、明治の御代以衆、紳嘗の御祭壊につき、→層の御責を
加へさせられまして、押宮での御祭典に普り、奉幣使を御費頴あ
らせられます外、首日は 天皇陛下午前十噂を以て押義解の南施
         頭】一一】一−。一一一一。


に肘御、伊勢の方角に向って醐宮を濱邦あそばされる。その御横
が革わますと、皇族並に文武の官庶を率ゐさせ扮ひ、紳宮での御環
俵と性別に、朝建の大所革として宮中の賢斬に於いて 天皇陛下
紳決ら祭典を行はせられ、和食文を奏上あらせられるのである。
 十月十七日の紳嘗奈に引措いて、十一月二十三臥には新嘗祭が
行はれる。南方の抑祭儀が略ぽ同じ秋の季節に行ほれるのと、何
れも共に昔年の新宅に陶係する御祭である成から、飼民の中には
との〓つを混何して考へろ向きもあるやぅだが、帥嘗祭は前にも
申したやうに 天厩大紳がその年の新宅を踊こしめす抑祭儀、新
嘗祭は同じくその年の窮敢を 天皇陛下が初めて胴女†御領であ
つて、この時にも陛下御親ら天神地紋を葬らせ拾ひ、絆昧をお潜
めになろが、お祭の木或は自づから異つてゐるのである。
 併し、何れにしても、皇祀の御紳慮を奉戴して、立周の大本た
る農業を雀上塀興せさせ紛ほんとの轟き思召から、紳欝祭・新嘗
祭と引絞いて行はれる〓大祭典を和親らあそばされ、親しく玉浄
を労せさせ拾ふ御革は、全〈御同様であつて、軒庶辣に良き極み
である0
 殊に新嘗祭の頃は時恰も晩秋霜凍る季節に首つて、身に泌み入
ろばかりの寒気をも抑廠ひあられず、長くも 天皇陛下に於かせ
られては沓を徹して、夕の御領、噴の御領・三面に亙る横そかな
大儀お行はせ給ふのである。開局もまたかやうな有難い思召を革
赦して、爾祭日共に阿を挙げて簡額奉仰の棄却を持げ、明治天長
がその日を休日と定めさせ給ふた教官に態へ奉るべきであろと存
ザろ。
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潮償餅の瑞〓には、竹幽肺仇比イ十佗加に卜る公明路地の紳此
でも付小北に納付の榊偶に悌ひ本つて、大祭を槻‖行ひ、群勺の
漸撃へ由祭糾に刺しホるのであるから、耽々も氏子として参耕し
報本反始の水滅を致すのは偶然山ことであるが、その前に布はれ
る紳首筋は、仰渉の榊滋と軒小焚何とで、準し執り行ほせられる
御然伐であつて、甘閲怖批以下の糾批でほお鉛がないのである。
 併し、滞日は総ての桝杜に於いて、私利式を執り行ひ、恰も御
餅依の行はれてんる仰渉山紳統の人前を迩に卸し奔乙ことになつ
てんる・きれば々図蛇このHは、特に心身を呼りかにして、桝然
俄の大切なる寧粥を十分に認誠し、酬思蟻謝の讃誠を舐めて払組
の大榊紳に造邦を捧ぐべきであつて、その時劉LJしては、曳くも
 天皇押下が御進郵のため桝榊あらせられるヤ前十時を以て、全
開一斉に焚行せられたいと存ナる。このことについてほ温椴余図
の地方鹿骨に油喋を致せられたのであるが、それは本年だけのこ
とではなく、咋府下の今日を堆として、向笹水延の恒例とせられ
るのであつて、幽托拳銃その他の準絞に於いてほ勿論、執行・合
杜●工場専に於いても、また町巾昏・珊渚骨替に於いても、十分
にこの趣旨め徹底を殉せられたいものである。
        ×
 漁網と申しても、ただ邦建ナることのみ了桝してはならねと息
ふ。邦漁を捧げて紳児感謝の東誠を披賦欽すと炎に報脚の心を拡
ひ起して、免租の大樹抑から此肪資料として賜はつた米穀その他
 め康成物を無駄にせ粒やう、滑救の方何に拭い注意を沸ひ節米・
欲井をするのば酎よりのことであるが、さらに遊んでは盤虎の接
充に朗代十舵が他力nるこ上が必輿で丸るL」巾ずる。
        )ハ
 次がH本は−朽木農港を比て、閑‥叱の人本む北ててんる閑であ
つて、御樅代の 人数は常に舵串を御心に懸けさせられ、叫吋の
祭儀も多くほ農産の難儀の析に深い榊休を持つてんるものであつ
たが、近代榊工架の著しい勃興に桝りて址染ほ多ヤての位役を稚
エし水てゐる憫何がある0これは井だ純<似せわばた、りぬ引象であ
つて、朗比企樺山」か、り槌ても、控鞋ほ∧・枚時代山赴渉と非に鉱
耗改良を加へて、その禰成を榊、り山ばた、しぬ山川いふまでもな
いことである・それについては、鰊赤なる舵桝伽瀧の仰浄、農発
券力∽捕光、肥料の分胤埠いろいろ細かな川畑T£りることと移す
るが、今日租本に於いて、叔も大切なのほ、渋策をただ中宮州の
仕事とばかり考へないで、閑代余地が企粗糖碓に協力し、それを
卒として絶ての鹿渡の興隆を榊ることであつて、かくあつてこそ
常に蛙単に叔慮を注が芸Tご六励む純分竺に報じ准り、また農
産の櫻儀について、糾沸を沌れさせ於ふ虫桃山人榊榊を榊勧め、
入宮前の紳たちの紳思に厳へ渉る仰山ヾあるL・1ホずる。
        )ハ
 十月十七日の跡嘗祭も†−月〓十■ニけ山所備祭も、たゞ姐扶を
軒現に掲打て職む休んでをればそれ亡抑止土・ゐるししいふやうな
撃つた考へは、この鱒二好すべきもりであつて、】億∵心彗敬
耐堵公の誠を現し、この南祭日の京大なろ閲家的潰我を、意志−
挿すろ上に、緒岩の御埠刀あらんことを、正ねて故に希具する次
筋である0           ハ十月十六日放拳)