時局下の鉄道 鉄道大臣 村田省蔵

 今日上bT竣七十年前、明治五年九月十二日、之は苛暦でふつて、
現在故人の用ひてゐる太脇腱に放つていへば、十月十出8である〇
七十年前のとの日に畏くも明治天嶽の蝕御む仰ぎ挙り−常時の新
橋押、現在の汐岡持から、横柄辞現在∽確木叩挿に売る、l手九粁の
#由の開通式が革行されたのである0
昔時に比べれば、現在我が河の錦盛及び日本人が直接揺管に普り、
または協力してゐる浦湘支那を含めて∽抽鎖は、全頻五華ハ千粁放で
ぁって狗に桶他の鳩なきを碍ないのであるq私爪この意考ある明8
の籍8紀念臼を迎へるに歯り、少しく我が駒の繰延について申上げた
いと恩ふ。
環在坪有線鵡竺再八千粁飴であるご」れに地方紙遇や軌甲称柏
−ヨ
汝革1或ひは疎林才意等で珂の裡誉してゐるもの等を加へると、内地
の繊延のぬ延長は≡亮軒飴となる。
 朝鮮に於いては田有頚革、私設繰延等を合せて、六千粁昏−竜洋に
ては二千粁飴、樺太に拾いては七首粁粥となつてゐて、日本の汝鵡を
袖卸すると、約四革軒となる。
 さらに帝浦洲鋳潰と同武が受託管理梓馨してゐる稲村閑繰延及び華
北変革、華中魚潜等の軽誉してゐる鞭鵡を合する時は、五彗ハ千粁近
くになるのである。
 瑚邁は或ひは文化の先海老であるとか、戎ひは票粥致の利辞であ
るとか、或ひは国防上の兵器であるとか、いろいろいはれてゐろが、
‡カ下軍顔や、革帯品の穐蓮を始めとし、種々の粘に於いて、軍の活
動に賛土Jゐるところを見ると、狗に錬鵡は訳野なる兵革であつて・
さらにまたこの怖何を措いてもやらなければならない、生竜力珊充の
積めにも、生活必弔品の配給なり、前野物資の使途等、一つとLて、
繰延の鋸先輸故に侯たないものはないのである小平時に在つては、世
界各由の経済文化の革凄が、なほ繊鵡に放るところ頼る多く、その耗
長の坪数と、図の鹿さとの比は、溝にその輿の文化の確度をトするに
足る軍要なる標準の一をなすものである。
 いふまでもなく、我等は今未曾有の大♯単に際卦し、拘を牢げて、
内は溢に彗岡なる均防拘家牲制を鞋備するとともに、外は大東弛共糞
昂の類設に懸命の琴刀を沸つてゐるのであるが、この間に乾いて簸並
の成金もまた態々苫嬰性を加へて衆たことを椛妨†るのである・
 現在励有繰延の穐逸費は、卒増刷に収べて、節々凶年憫に乗客に於
いて約九割、甥物に砕いて約八割仙激増を見たのである。而も貸客と
もに糖加の粗野は、俵然として止まないのであつて、一方叫輌や線路
(1)

等の輸逸施設は、これに封増するや′ワー出来るだけ増強に勉めてきた
が、何分にも時節柄資材や、労力山手湖山ため、限りなく増加する穐
逸を完全に行ふこと杜、頗る困難な状態であつて、馬めに各方面に勤
し不秒御迷惑をかけてゐることは、我々のよく款知してゐるところで
あつて、常に心苦しく感じてゐるしLころである。
 それで、何とかしてこの温杜を除きたいしし、いろいろ工夫を瀬らし
てゐるが−そのlつの方法として、甚だ滑編的ではあるが、時局下必
要なる愉速力は、何としても碓保しなければならない立場から、不急
不要と観められる検蓮は之を抑制する、また輸送にl暦計竜性を有た
せ、その敦革の向上を囲ることなぞの方法につき、折角善心をしてゐ
るのである。
 同時に、国有意道以外の陸上輪逸機舶の統制を巧施して、それぞれ
の施設の能率を絵ム品に、また最高度に藍押させるやりな飽制に等へ
たいと努力してゐる。
 先般、偲動員審講曾に於いて、可決せられた、陸難統制令の改正蓼
粥は、この顔昏に外ならないのである。
 同時に革耗や撫潟革、線路等の鹿怠的な埼独について、軍粘的に故
意甥現を計つてゐることは勿淘であつて、その外下幽門司問の海底曝
盈の如きも、日下極めて取調に工卒が進んでゐて、扱く来年の秋にほ
本州九州間に列早を直流せしむることが出来ろと凰ふ。また些県下胞
憫の現在特急で十入時間飴を要するところを、九時間で光るいはゆる
庚軌に上ろ新緑、即ち世間の押丸列革も、着々環現に向つて遊んでゐ
る次第である¢その他湘義終船の航賂をはじめとし、練由省で額誉
してゐる切掛板持の換金カを椅鎖すろため、新解を建造してゐろ東鶉
 せある●
 以上中城べた封策を以てしても、確り彗省のみ山力では、満足な
ろ隈決を望み得ない∽であつて、それには薬客なり、荷主なりはもち
ろん、融合一般の方々の御翔解と捌腕力を得なければ、この那常時ド
に於いて、陣上喩蓮の錮鴇を行ふことは、所箆ほ不可能し血げれろ。
この料理聯と御地刀を柑るためには、先般来和次で起つた組剋那故、
多数の死傷老を出した、あの申許なき災害に想ひ到る時、個令、原因
は何であつたにしても、私ほ今後事故の絶域を知するにあらざれば、
協力なわ翔僻なりを、一般批曾の方々に求めろことは、到低州糾であ
ることを思ひ、雨水≡十大寓の絆鵡全従業員は、自鮪自制一段とその
職務の・摘勒を曹つてゐる家筋である.   〃
 さらに御理解を得る上に、柴分御参考となろと息ふのは、盛盛の作
築についてである。練道の作業け御推崇を顔ひ得ろこししし」思ふが、非
常に危鞄を伴ふものであつて、国有撼道のみに例を採つても、今B一
島八千蝕粁の鍾増を窪曹すろ長めに、海8一人以上の食い殉削渚を出
Lてゐろことで、それが今日までその敷九千飴名に上つてゐるのであ
るごJの魯い殉難者の犠牲と、なほこの外に倣耕上から氷ろ多故山傷
病者、撥疾漕があるのであつて、一萬八千飴軒の飯盛は、これ専の忠
梵にして痛ましき犠牲に依て、日々提督されてゐるのである。
 如何なる事業にあつても、その渡歩茫民の藍には、常に無音の争い
頼牲者の存することは、免れないととろではあるが、我が鈎有痢意に
於いても、今日の鞋垂の蔭に、九千飴の尋き殉難著があり、また現在
日々の列革運鴨の事にチ】甘】人以上の殉難著が懸れてゐるのであ
る0私は各位が、戎蓮革実の使命の重要性を自兜し、身命を惜して、
日夜あふれるや′「な貸客の輸潰に、持拗いたLてゐろ我が糾適職均の
存在を放ひ起され、軽い確解と粗い叱正とを以て、斡屯の蔽々健全な
(2)
る軽壌仁その軍大なる俺命の速成を見るやう、御地力をお節ひして
我が駒鳥潰閑海山衆、七十年の冴出堆い記念臼を迎へたいと恩ふ0
                     ハ十月十三H故な)