幕末をめぐる
  圃際情勢
 現在我が日本を・そして叉東森をめぐる岡野情勢はただならねもの
があります0このことは皆様が毎日の新開やラジオのここ・スでよく
おわかりのこと1存じます・勿論日木と教しましてほ、我が萌扱、我
が聞及に基きまして一路輩湛あるのみであります。
 今日のこの情勢は、形は琴つてをりますが明治維新前、幕釆昔時の
我が詞をめぐる駒傑情勢と何威か似たところがありま†。とりわけ、
常時の私どもの父祀が・あの複雑な情勢の中にあつて飽く盗も外国の
力に崩せず、力強い信念と断じて物事を行ふ溌行力を似て荊の邁を切
り開かれたことにつきましてほ、今8私遠日本餅民の心桝へとして、
亨Jとに肝に銘じなければならぬものがあると存じます。
 御承知の寧り・徳川幕府は覿を鎖すことを似て徳川喜H年間の毒
大きな方針とし・外図に出ることも外国と交ることも禁止し、このた
め信長や空口時代に盛ん漂った大陸への進出や海外敢良の労ひほと
められてしまったのであ巾ます。
 ところが二万∵Jの間に歓榊では蒸気堵閲が教明されて海上の交通
槻粥が汲達し・敵米湘凶はこの新しい払上の変通拗恥によ勺ずして、
丈並の天地にどしどしと抵出して充たのであります。
(4声)
 そして篠末になりまナと、この勢力が周囲から我が珂に及んで衆た
のでありまして、この形勢を大槻みに申しま†と西からはイギリスむ
フランス、北からは;ア、文からはγメyカがそれぞれ我が珂に射
し、大きな野心を泡いてその夢力を伸ばし我が国をもイyrや支郷と
同じやうにその受取の下におかうとしたのであります・
     ×
 イギリスは常時故にポルトガルやスペインを打ち破り・欧米で一番
強い珂となつてゐましたが−このイギリスはアメリカのベルyが輔賀
に来た嘉埜ハ年上りも八†年も前に印度の安現にのりだし・安政五年
にほ既に安全に印度やセイーy、シンガポールを・その手の中に収め
てゐたのであります。
。しのイギリスの東洋に掛すろ進出に刺頓されたのはフヲyスであり
まLで、フランスは印庶の支線にはイギリスに負けましたが、その代
りに印度支那の支虎に袈り出して、安掩王南を占儲し、更に東の方を
うか∫ふに至りました。
     X
 その後、イギリスとフヲyスは手を携へて支那を彪迫し・支群の手
足をもいで支那を古文上の楷局地にし上うと工作Lてるたのでありま
ナ。その大きな契機は天保十1年即ちベルyの来た嘉永六年上むも十
三年前の年に始まった阿片政争であります。
 ところがかやうにイギリスとフランスが支郷にカを注いでゐる間に
ァメyカやロシアは我が国にカを入れて衆たのであります・
郎ちロシアは捻川青宗の時代にカムチーフカ年鳥かちベーリング海
峡に卓してをり、支那より黒憐江から北の土地を弔つたのほ安政の大
掛のあつた安政六年のことでありまして・;アはその勢ひに廉じて
                            ヨ一
北から我が例を櫛んで先づ千島列鳥み侵し、北海道女手仁入れようと
瀦ってゐたのであります。そして文久元年には掛烏に陸取除を上陸さ
せたのであります¢
−方丈から進んで爽た労力が丁メyカであつたことは申す迄もない
のでありまして、アメyカが東亜にやつて東たのほ決して姦永大年に
始まつたのでなく、既にその前からお坪の支部へ来てゐたのでありま
す。しかもアメリカが末亜に来たのは太平洋を乗りこえて衆たのでは
なく、先づミーヨークから、大西洋を鵡丁乙て、アフリカの南端をめ
ぐり、印度洋から安群海に出て衆たのでありましてやはり故抑藷園と
同じ経路で同じ8的を以て衆たと官へるのであります。
   ×
 その後太平洋で瓜をとる捕鯨事帝が盛んとなりまして、我が国が鎖
歯でとぢこもつてゐる偶に、アメリカ人に引続いてイギyス人もPy
T人もフランス人亀岡時にこれを始め太平洋を盛んにのりまはしまし
た。そしてその措果ハワイ群島と8本の小笠原、琉球の品々が常に大
切なものとなり、我が珂の知らない聞に眈に、これらの鳥々をめぐつ
てイギリスやアメyカ、Pyア、フ’yスの団々が、息づまるやうな
銃撃をはじめてゐたのであります。
 そしてアメガカが先づハワイ群島に足溜りを設けたのでありますが
これに引つ†きアメリカは日本を手に入れたい、でなければ少くとも
小金原と琉球をとりたいと考へ、イギ♪スやフラyスにさきがけて攻
が成に壊して禿たのであります。・」のときアメリカは耗府に世界の大
勢を敷いて、併せて支那の阿片戦轡の事情を話し、やがてイギリスと
フランスが日本に迫つてくることむ告げ、その時はアメリカは日本に
(4ア)

鳩〃サムl_Jlたのe几巾要した。肘…特約掴むかたく吋」てゐ小滝棚府
は珊心して・アメリカ穀水bせたのでありま†が、アメリカは遜に咋
州。畑中率いて非節に出い鳩蛙む以て日本に泊つて水たのピあります。こ
かが嘉水六年の・ヘルリの那榊とこれに引紛いて行はれた日米のJ父抄で
あ巾ます。
     ×
 かうしたところへ支那を大隠片づけてやつて水たのがイギリスとフ
ラyスであります。そのときイギリスは眈にアメリカとロシアが手を
打つてゐるのを見て樽きまして、敵腱や起州紬に味方し又アメリカや
ロシアに抗訊を申しこむなどしまして我が閑にとり入ることにつとめ
たのであ巾ます。そして或ほすかし、或ほおどか†といふやり方で戌
捜そのおくれたところを取崩さうとしたのであります。
 フランスはこ九と反封に梢極的に耗府をたすけることに乗り出し、
或は愈穀貸したり又は革串顧粥を布府に譲るといつたカの入れ方であ
りました。
     X
 かうして薙にほ、イギリスとフランスが日本をめぐつて激しい銃撃
をすることになり、常時の食※爛炎、開駒佐♯山閑杓の対立もかうし
た外硝の勢力に利用されやうとしたのでありまして、危く外凶のため
四論も又朗力も分剣しざうな形勢にあつたのであります。
 かうした外槻の様々の態艦は、叫す迄も行く列秋の水仙促嶋の延火
でありまして次が圃を除く常北の各蟻族、各領土を臼分の下において
これを完全な植民地とし、或は又支那を共同の頼民地としたやうに最
後に耗された耽が囲をもその糾食としようとしたのであ巾ます。かう
した列軌の革軋鎚略が、丈弛の今日の粥のもととなつてゐること打倒
釈加の洩りでありまして、私趨の父糾ほこのま■∵こ「耶大へ‥状筋にば
而したのであ山ま†。
 しかしながら、率ひなことには炊が閥は抑撃ナあります。
天皇陛下を唯一の中心と仰ぎ奉る有難い例であります。
     )ハ
 耗府の徳川膣宰公は畠政復古が日本本来の滋eあり、これによつて
日本は他界に乗りだしてゆかなければならないと信じ、フ一アンスの援
助小キッバリとことはつて大政女帝過したのであります。
 又掴郷商州翁も「巳木の故地の事は日本人だけで考へるペき間脳で
ある。外閥の竣けをうけるのは而目ない」といつて外幽の干渉を抑へ
たのであbずす。常時の団内の人々の立場は腑機端にありましたにも
拘らず、周縦の突破に箇つてほ均しく我が周地に立ち滑つてl致した
のであります。
 かうして私弗の父祀は各閥の色々の触軌中退け、日本のことは日本
人だけで考へるといふ強い信念を示し、明治維新といふ大きな事業を
全く外園の干渉なしになしとげたのでありまして、我が閥は堂々たる
態乾を以て由を開き、今日の盛んな例の勢ひの基をつくつたのであり
ます。
      ×
 今日我が閥をめぐる情勢は撼禾のときに劣らねものがあります。私
兆は今静かに入†年前に私趨の父糾がなめられた辛苦を似び、そして
亦父組の破かれた烈々たる愛閲の熱情をたぎらせて、l路蓋致しま
すならば。我が日本の前途はまことに明るくまた輝いものがあると借
じま†。               (十月十ヨ教義)