日・蘇中立条約成立の反響 情報局第三部第一課長 岸偉一

 義る四月十三日モスコーに於いて調印せられました8・ソ中丸條約
は四月二十尤日柄餉浜に批准を了し、赦力を頭生するに至つたのであ
りますが、この膝的が帝関の外交政策卜極めて京大なる意義を有する
ものであることは、申すまでも無いことであると同時に、その成立が
各方面に及ほした反響は、胡薗に雄嫌‖深刻なるものがあるのであり
ぜして、今夕は諸外周の言論界等に、今日までに或はれた反♯を中心
として、解離申上げ庇いと存じます.
 第一に≡堵同開場化と云ふ見地からでありますが、抑18・掬・伊
三園が、世界新秩序建詔の馬め同じ目的を以て、緊密なる協力を環す
上に於いて、地球的にも政治的にも、之と叔も浬き関聯を有するソビ
エツト聯邦が、ドイツとほ不可侵協定を、また伊太利とも中立條的を
有しながら、日本との間には、何等この種の取極が無かつたのみで無
く.日・ソ南風観にほ外交上の懸案が末腑決のまま、山のやうに渦つ
てぬるといふ状態にありましたので、沸ニ…閥がこの間陽に乗じて、≡
周同盟に水をさし、同氾を鋪飴化しようとする策韻を行つたことも、
少くなかつたのでありますが、今岡の価約成立に依つて、この間齢を
和めることが出来、≡鎖共同挿督の恭礎が益上張朗になつたと云ふへ
(9筏)

「‖卜卜卜
珊州
きでありまして、この鮎は、摘・伊南硯が新聞紙初め繊渚−同も、革
つて木倹約の成立を祀帽し、心から幣滞む誠してゐる粘から見ても鮎
に明はであります.
 つぎに三周の新秋序建設工作に俵つて、影鞘穀被る第三閲側の動向
でありますが、全盟として見沸しまするに、第三朗側に於いて、木條約
の意義を川欠るだけ械穀し、域ひは何とかして、之にケチをつけんと
†る怒閲が、多分に鋭はれるのでありますが、之はその反面に於いて
これ等の閑々が、木條約の成立に依つて、如何に大きな衝聯を受けた
かを立稚するものと云ふペきであります.妨一にアメyカであります
が、ハル閉郵長官は、條的成立の砥ぐ翌日、木條約は日ソ間に既に存
在してをつたところの状態を成文化したものに泡ぎない。総てアメリ
カの政熊は之によつで艶更されることは拙い、といふ触昏の公式麒明
を琵衷致しました.ハル長官の狙ひどころが、木株約の低釘を出水る
だけ侍く見領り.従つてアメリカは之によつて、何等打撃を受けたも
のではないと云ふにあることは明白でありますが、アメリカの官静界
を題観放しまするに、木條約によづて日米は、北方からの脅皆除く
ことが出来た.その鈷果日本の太平洋万両に於ける立場が少くとも、
比僚的に強化されたといふ鮎については、各万両とも帖†】致して之
を淘めぎるを得ない状態であるやぅに恩ほれます。併しながら、日本
は之により、直に南方に武力澄州穀企てる、従て米俵的の成史は日・
米間に危樺の]到来を早めたとするには常らないと云ふ親方に於いても
また略i一致してゐるもののやうでありま「.節こに的洋方増に、瑞
も大きな判事と関心とを有する梨園でありますが、胡ハ闘の胃愉界の粗
券を見ぜするに、先づ氷解約ほ沌・ソ朔岬の関係激化の爛撲的炎現で
あるとし、威ひほまたソビエツト聯邦ほ之に依り、日本をして南方に
射する武力進出を行はしめて、戦軋を繍犬させようとの陽に出たもの
であるとし、何れにしてもこの條約について、日本は利鉱を受けるも
のではないといふやうに申してをりますが、第一の殉・ソ関係の厳に
ついてほ、種々の観察もありずせうが、これは触局、掬ソの間を離間
せんとする衆院の現はれと見られるのセありまして、扶育タイムス払
信貝として、ソビエツト聯邦に約十年も滞在し、ソビエツト間隠の槻
成讃であるウォルターエアユ■フソテイ氏が、今じのヰ態に於いて淘・
ソ開園の関係が最悪の寄態に至る−」とむ漁場する如きは、英米例の希
頚的弛渕、即ち英田でいほゆる 宅1算】E【EJ己コM でしかない.現在
拘ソ開園閑係が緊張してゐるかの照を為してゐるのほ、寧ろ雨園関係
がl屏緊軒化せらるべき前触れとも見られると、述へてゐることから
見ましても.ことの頻柑が推測せられ得ると信じます.鮪二の鮎につ
いては輌万閉院解決の時期.方法等は一に日米の意粗に上り決せられ
るべきこと勿鈴でありまして、環三園側の何等か掲にせんとする宜件
に乗ぜられて、−との五大閑海が左右せらるへきものでないことは骨鵡
の次柑”であります.
 疎いてH・夢黎廼虞瑚の見地から見た反響について申上げますと.
第−に前庭の動向でありま†が、末座は常初ソビエツト聯邦の凍帯態
度は不欒であるとして、襲軌的態度を強いて維持し上うとしてをりま
Lたが、木條約の政治的款勾が意外に謂火であることに束づき、その
狼狙の色は丑ふことを得ずゃ四月十五・十六の両日に亙る首脱部来待
欄爵の結果、丑にソビエツト柳邦政府に暫し、掛胡を禁印するに重り
ょした.之に封するソビエツト政府の岡答ほ、椰槻†るところに依れ
ば、決して究塵を満足せしめるものではなかつた上帖へられてを〜ま
す.この悪慶に封して、輿へたる打撃と申しまナのは.ソビユツーの
(♀さ)
社屏壌助の蒋架が、期待薄であろと衷ふ搬、並にソビエツト政府が従
来執拗に掛けてをつた浦和眺不永馳の態乾を、急に研†に至つた〓齢
にある次第であります.筋】の粘は合鍵の椎野を見なければ判明しな
いことでありますが、帯〓の鮎については薮碇の失望は樹上り犬なる
ものがあり、日・y両隣が外幾古及び浦榊閑の領土の保全及び不可僅
を食詰する昏の共同#明は、罪巌の新開取手から例られ、この事賓を
安部民衆に封し、ひた醸しに醸してをつたやうな始末で、一方我が方
から見まするならば、手軽虚規上転めて堅繋なる前弛の一歩を踏み出
したものとl茶ふヾきであります.
 次に申開典箆光でありますが、同光としては、今周の條約に隠し、
y塀の瀞民を増陛し、支那民衆の封ソ恋洒を糊漬するに努めてゐる換
澱でありますが、前払の事情から見まナるに、中共内部の分裂または
国民光と共捷兼との相剋の増大と云ふ可餉性は†分に考へられるので
ありまして、これまたヰ艶鹿理上、帝組にとり好怖件の】と云ふこと
が出来ませう.申すまでもなく、文郡瑠鯉威推に槻し、今日鞭槻的に
過ぎる怒見を桝てることは、最も禁物であ巾ますが、併し、今申し上
げたやうに、米條約成立の詫慶側に興へた打撃が、柏常に傑刻なもの
であつたと云ふことだけは、明瞭であると信ずるのであります.
 以上は日・y中立條約成立に関し、今日まで外に現れた反♯に付て
申渡ヾたのでありまして、今後この條的の架質的な敗果乃至反軒が、
各樹の政旅に何ういふふうに規ほれて氷るかほ、賂衆の推移を見なけ
ればならないのでありますが、我々日本開局と致しましては、この條
的の博打を低め上うとするが如き、‖璽二図側の官設に耳を緒†ことな
く、飽くまでその欺果を十〓分に旗押せしめ、慈主長湖持久の態勢の
下に、拘熊の完添に演壇するの覚悟を尉めることが、必要であると信
ずる次卵であります.
ハ五月∧8∧K上申放彦)