神武天皇御創業の御辛苦を偲び奉りて

 明四月三日は畏くも 神武天皇
が永い矧苦心によつて.こわ円木
の瞬の兆をお開きになり、→dニ丁五
首二十五年前、大和の倍旧宮で紳
尖がました御8であります.
 私ども日本喀民は 紳武天皇の
御瑚想キ政界に摘め、眩の平和を
つくりますために、いま全力を革
げて放つてゐるのでありま†.
 昨年の〓月†一臼、紀一理一千六
百年の氾一施の托訊に冊り、泣くも
「今ヤ非常ノ世局三際シ、期ノ栂
元ノ仕節こ歯ル、雨臣民宜yク恩
ヲ抑武天員/創業三脚セ、患励ノ
以退こシテ畠族ノ桝雌ナルヲ念ヒ
和敢取力祖々均払ノ柿鞭ヲ塾抑シ
q一ナ即敬ノ克服ヲ致シ・以テ均硫
ノ博掲二郎メ、渦宗ノ紳渦T、難へ
ンTトヲ糊スベシJの大勅叫恕山鳩き
ました.ここに妬んで 紳拭天皇
御伽川架の仙叩辛苦を偲びポりまし
て、私共の教憎を附くし、掛率公
の誠を致す上すがとも致したいと
存じま†。
 抑武夫母ほ御年→正にして円嗣
の御子にお立ちになつたのであり
ますが、御年凶十五にして日向の
満干柑餌をわでましになり、棚兄
    ふ こ
労たちや幻子と御一報におカを併
せられまして、鑓はをお率ゐにな
り、W川へと・刷は九たのであります‘
これは 天照大紳の抑釧似むこの
日本条例におひろめ城址はされょう
とい∴大糾心に山たものでありま
して、崇帥は憶に 「天の下のまつ
ろは拍ものどもまっろはせろした
め揃服しないものを尉服させるた
め利用ひになつたものでありま
す.徒ひまして大義名分をわきま
へて心からまっろつてくる譜には
悍い剛めぐみを弛れさせ拾ひ、ま
つろつたヰ一どもも感渡致しまして
」鳩鵬に従つたのでありまナ.
 併しかうしたまつろは巾着ども
をお平げになる迄には岬すも恐れ
多いことでありまnが、あらゆる
糾平常む腎めさせられ、あらゆる
閃糾に御′柑へになつたのでありま
して、日向のH千糊付をお川まし
になつてから大和にお入りになる
までには、他年もの良い年月が流
れてゐるのでありまして、今8の
‥請兆で印しま†と、非常な戊柑駄
だつたのでありせ†。鞘帥に従つ
た私火の先糾も、この長州峨を俄
ひ抜いたのであります¢
 糸耶が九州む竣して湖戸内海を
      什旺は   Iハd斗
洩り、那批の岬を辿つて、今の泣
             しち▲山トりつ
川の口を上り、河内の摘の由稲作
に蒲〈までにも相伴良い年月を鮎
たのであqますが、渡川咤大和地方
       た止り【
には土蜘妹とか輿純などといふ袋
鋏たちが労力を媚つてゐたのであ
りまして、彼噂ほ峻しい仙勃を利
   て,】ほ
川して朗破く畠革に私向つたので
あります.
 天皇は燻初は正而から生駒山を
越えて大和こ入らうとなざいまし
たが、その時大和に勢力を娼つて
ゐた康雄藷といふものが、兵力を
            く 4】 ▲一
櫓して挿才ましたのご、孔舘殉/
嫉とい・ご桝で大きな取替となり・
御見破肺命が賊軍の流失空箋け
になるといふ位でありましたので
iを引いてお過‥になり、氾卜を
納に廻られて略酎に向はれたので
あります。その途中敵の流失をお
うけになつた五潮命は、御剣の椚
をしつかりお鈍り鵬枇ばされてT大
丈夫でありながら手色の愕生命を
             を ト◆・
試すとは残念至梅である」と郷珊州
              hVわ・女
びされましたが、澄に紀伊の柁山
        九h】
に到つて兆さりまLたのでありま
す。
 また熊野の海上では暴風のため
矧兄秋蹴命と夕刊舶那戯に別れ給
うたのでありまして、椙陳命は、
「ああわが肝弼は対那紺確は掛脈
であらせられるのに、さきには陸
上で、今また海上でわれを苦しめ
給うのはどういふ謂であらうか」
とお懐きになり、御朗々お捷ぎに
なつて海中仁入巾紛うたとありま
す。
 大栄の伽‖轡御化済たちに別れ
させ拾うた欄柑ごの柁ほ、拝察「
      ふしこ
るだに愁ききほ入でありまト1が、
天畠はこれに招し紛うことなく、
御子鵬純耶繋し些細に脱がの形
一亡小PJ
椛柑といふところに卜排し紛ひ.
ここから堪を大和の方にお進めに
なり.達に天の下のまつろはね老
どもを、ことごとくお平げになつ
たのであります.
       Aこと山M・
 そして詔を下されまして、
 「窮肘雅李警皆、畑地
を稚ひて宇と焔むこと、亦可から
ずや・大の協伐山の新鶴艦舵朝地
を悦れば、梵し例の軌跡かd胡郁
 け幻ペし
之」とのたまひ、大和の根煉の柏
に都をお簸めになつたのでありま
す.
 この語は、我が閥の理想.使命
が人斯の永逢の率礪お戚規し上う
とする入紘l宇の抑榊抑にあるこ
とをお一筋しになつたのでありまt
(31ノ

 翌る年の元H.橿原宮に勧印位
あらせられました、蝶に抱元元年
次が脚の瓢礎が全く成つた日であ
ります。その後天皇は長い間御位
にあらせられまして関内のまっり
ごとに力をお注ぎにな巾ました
が、今から二千五打二十五年前樋
原宮に崩矧遊ばされました、翌年
耶威の此感丁稚幣にお芦めまり
つたのでありますが 紳武天皇瑞
の行はれる拐月ニ…日はこの天皇の
崩御延ばされた日に営るのであり
ま†」
 このやうに 紳武天皇が都をお
褒めになるまでにはまことに久し
い年月に亙つたのでありまして灘
多の困難とお掃ひ遊ばされ、御兄
懲を架ひ紛うた御悲しみにも属せ
られず、天沖の御子としての亀い
        ひら
軌何念と大業をお挽きになる御梢
桝とに併つて、建にこの大業をお
時局は、その詑畔なことに於て、
帥武天u糾刷梁川架のものである
と言はれてゐるのでありまn。
 私ども一位閉民は、明日の、
内外の如何なる試鋏も如何なる粗
鋼も張り越えることを聞く音つ
て、この非常時に弓ち克たなけれ
ばなハません。(四月二日放送〕