国民学校制度実施に際して    文部大臣 橋田邦彦

 愈々四月一日から小学校令が改正されて、国民学校令が実施される
のでありますが、これはただ小学校が国民学校になるのではありませ
ん。いままであつた小学校を生かして、新しく国民学校を設けると云
つても差支へないほどの改新であります。明治以来の教育が、我が邦
の国運を如何に隆昌ならしめ、文化を如何に発展せしめたかに就いて
は、いまさらいふまでもなく、多大の功績を挙げたのでありますが、
それと同時に時勢の推移、思想の変転に伴つて起つた種々の弊風の影
響をうけて、教育の本旨が歪められてるところも尠くないのでありま
して、我が邦の将来に向つて、憂慮に堪へないものがあるのでありま
す。吾々は今や未曾有の世局に当つて、時艱を克服し、国家百年の大
計を樹立しなければならないのでありまして、これを機として教育の
制度及び内容が我が邦教学の本義に徹するやうに、改新されなければ
ならないと考へるのであります。この意味に於きまして国民学校制は
その第一着手でありまして、将来に於ける我が国学制の根基たるべき
ものであります。
 抑々我が邦の教育は、教育に関する 勅語の奉戴を根本とすること
は云ふまでもなく明らかなことであるにもかかはりませず、誠に遺憾
なことではありますが、この本旨はいまに至るまで決して透徹してゐ
るとは云ひ難いのであります。その理由は多々数へ挙げることができ
ませうが、先づ考へられることは、学校教育が抽象的概念的な知識の
授受注入を主としまして、真にこれを実践に於いて体得せしめること
が、忽にされたことであります。
 これは従来、これも時勢の上から已むを得なかつたことではありま
すが、政治の主流が欧米文化輸入に向けられましたが為めに、ややも
すれば我が邦の國體の本義、伝統の本質、文化の特質を顧みることを
怠り勝ちになつたのと、同時に欧米文化輸入に急であつたため、模倣
に堕して自主的な創造精神が没却され勝ちになり、他人の創造した、
または他人の獲得してゐる知能をそのまま受取ることが学問すること
であると考へ誤られた結果でありまして.これが為めに、凡てのもの
ごとを観念的に取扱ふ傾向が生じまして、甚だ畏れ多いことでありま
すが、教育に関する 勅語の奉戴を口にしながら、往々単なる儀礼的
形式を充たすに過ぎないやうに見られるやうな状態さへも醸してゐる
のであります。
 かやうな観念的傾向は、根本的に打破されなければならないことで
ありますが、かかる傾向が幼年者に一旦植ゑ付けられますと、年齢が
長じた後、それを是正することは決して容易なことではないのであり
ます。なほ進んで云へば真に教育を徹底せしめん為めに、幼少なるも
のに向つて、本格的な教育を施さなければ、その将来の真の錬成はな
かなか期し難いことになるのであります。茲に教育制度改革の第一着
手が初等教育に向けられた理由があるのであります。
 さて国民学校の目的は、「皇国の道に則り、初等教育を施して皇国民
を錬成する』といふのであります。文字の上からいへば、次が邦に於
ける教育の目的として、皇国の道に則るとか、皇国民の錬成とかいは
なければならないと云ふことは、をかしなことでありまして、そのや
うなことはいはずとも判つてゐることでなければならない筈でありま
す。然るになほこれをいはなければならないところに、教育の刷新さ
れなければならない所以が観られるのであります。
 この意味に於いて、国民学校制は新らしいといふよりは、寧ろ我が
邦教育の体制を本筋に戻したことに過ぎないと云へますが、同時にそ
れであるが故に、大なる改新であるといはれ得るのでありまして、前
述の如く従来ややもすれば抽象的概念を授け受取らしめることに終始
して、いはゆる偏知教育と名づけられる弊風に堕してゐるものを根本
的に刷新して、皇国の道に帰する知徳一如、身心一体の錬成を教育の
主旨とするものであります。従つてこの国民学校教育の根本主旨は、
我が邦学問教育の全般に向つて一貫すべきものでありまして、単に国
民学校に対してだけのことではありません。上は大学に至るまで、広
くは国民生活の全面に瓦つて透徹せしめらるべきものであります。
 また上の如き従来の教育の風潮は、あくまで自主的でなければなら
ない我が邦の文化の発展、国民増進の上に、多大なる支障を来すもの
であることは明らかなことであります。元来教育とは自らの働きを自
ら生み出す力を育成することでありまして、我が邦の教育は、国民の
各自が日本人としての真の働きを生み出す力を養ふことであります。
国民学校制の目指すところもまたここにあるのでありまして、学校に
於いて授けられるものは、凡てが実践に於いて生徒の働きとなり、智
慧になるやう、しかもその凡てを皇国民錬成の一途に帰一せしめまし
て、國體に対する確乎たる信念に燃ゆる、日本人の育成を企図してゐ
るのであります。それ故国民学校に於いても.教科並に科目の制があ
りまして、一見従来と相違がないやうに見えますけれども、それは専
門分科として存立してゐる学術の体系に基づいて組み上げられたもの
ではありません。
 皇国民錬成に向つて何が必要であるかといふ観点から、その必要な
ものを暫く学術体系に照し合せて教科を立て、さらにこれを科目に分
けたのでありまして、これ等の教科、科目が渾然たる一者として皇国
の道に帰一し、そして前途の如く凡てが実践に於いて、生徒の血とな
り、肉たらしめられなはればならないのであります。而して従来往々
考へ誤まられてゐる如く、一応「知識」として受取られたものが、実
践に移されるといふ建前では、真の学問を体得することは出来ないの
であります。寧ろ逆に実践に於いて知識が得られなければならないの
でありまして、国民学校制の企図する学問はかやうな学問であります。
それが故に、場合によつては実践を先にして、知識の体得を後にする
が如く見える場合が尠くないことになるであらうと考へます。併し、
これは必ずしも従来「行的訓練」と云はれて、知識の体得とは別なも
のとして行はれてゐる訓練のことを指すのではありません。知的訓練
を含まない行的訓練は価値の少ないものであります。それは元来真の
教育に於いては、知的訓練と行的訓練とは、一体不離であるべきであ
りまして、両者は決して区分すべきものではないからあります。実
践的に体得されないものを、知識と云ふことが誤りでありまして、具体
的に体得させられないものは、上述の抽象的知識でありまして、具体
的な働きとして動く真の知識ではないのであります。すなはち総じて
学校は物識りを養成するところでなく、働きある人物を育成するとこ
ろでなければならないのであります。
 かくして国民学校に於きましては、いはゆる教授するものの分量は
従来に比して減じたやうに見えることがあるかもしれませんが、上述
から明らかな通り、量に於いて少くなつても、その実質に於いては遙
かに増すことになるのであります。
 かく実践的訓練が、教育の根本方法として実行されるには、教ふる
者、すなはち教師が、単に口耳三寸の学の修得を以て終れりとするや
うなことがあつてはならないことはいふまでもありません。なほまた
国民学校教育の目的は、いはゆる個人の完成を目指すのではなく、皇
国民としての錬成を目的とするのでありますから、教師たるものは、
真に皇国の道を体得した日本人として、確乎たる自覚と信念との持主
でなければなりません。しかもこのことたる口にすること容易にして
実践の極めて難いものでありますから、国民学校制実施に伴つて、教
師諸君の絶大なる奮起を望まなければならないと思ふのであります。
 この点に関して、殊に注意すべきことは、従来我が邦の教育に於い
て、師道といふことが十分実現してゐないことであります。よく弟子
の弟子らしくないことがいはれまして、師弟の道すたれたことの責め
が、ややもすれば弟子にのみ課せられてゐる傾きがあるやうでありま
すが、私は師たるものは先づ反省してその根本は師たるものの道が頽
廃してゐるからではないかと、大に自省すべきであると考へます。前
述の如く教育が抽象的知識の授受に終始すれば、教育に於いて最も大
切である師弟の人格的融合が見られないのは当然のことでありまして
真に教育を徹底せしめんが為めには、先づ師たるものの自覚、自重、
自信に欠くるところあつてはならないのであります。師が師たらずし
て如何にして弟子の弟子たらざることを責めることが出来ませうか。
如何にして弟子を真に教へることが出来ませうか。単に知識を授ける
ことが師たる資格を充たすものと考へるならば、それは大なる誤りで
あることは明らかであります。殊に国民学校に於ける如く、教へられ
るものが幼き純真な児童であつて、先生の凡てをそのまま受け取る如
きものに対しましては、殊に師たるものは大に自省すべきであります。
単なる知識の授受は国民学校に於いては、いはば比較的容易なことで
ありませうけれども、幼きものに真の魂を植ゑつけるといふことは、
相手が純真無垢であるが故、容易であるが如くにして容易ではありま
せん。一度幼きときに誤まりて植ゑつけられたものは、将来その根を
絶つことの容易でないことに考へ及びますとき、児童の真の教育が如
何に困難であるかは明らかなことであります。
 国民学校制が実施されましても、その教職に任ぜられる人々は、差
当り従来の小学校教職員でありますから、その職に当る人々が従来と
してもその責に任ずること厚きことは信じて疑はないところでありま
すが、制度の改革につれ、その責務の愈々重大を加へることに、重分
なる自覚を持つて貰はなければ、制度の改革も一片の空文に終ること
にならうかと思ひます。それでは国家百年の計に向つて実に由々しき
大事であります。国民学校の教職員の方々にはこの際大いに奮起して
貰ひたいと思ふのであります。
 目下国民学校教職員はその職責の重大なるに比して、その待遇は甚
だ軽きに失してゐると考へますが、それに向つては国家が将来これを
適正ならしめるに努むべきことは勿論でありますが、それと同時にこ
の重大なる職務に携はる国民学校教職員に対し、児童の父兄はもちろ
ん、国民一般は十分の信頼と尊敬を払はなければならない。例へば制
度の上からは高位高官のものであつても、その官位は別として、教育
者の聖業に対して十分なる尊敬を払ふ意味に於いて国民学校教職員
に対して決して自己の配下にあろ小役人に過ぎないといふやうな態度
を以てこれに接するが如きことは、この際全然改められなければな
らないと考へます。.もちろんこれに対して国民学校の職員諸君も、そ
の尊敬に値するだけの襟度と自重がなければならないことは、いふま
でもないことであります。
 従来久しきに瓦つて小学校教員の社会的地位に対する誤つた考へか
ら、小学校教育そのものが如何にむしばまれたかを想ひ起しますとき
吾々は大いに改めるところがなければ、教育の実は挙らないと考へる
のであります。教師を信頼し尊敬し、また信頼され尊敬される教師あ
つて、はじめて教育の実の挙ることはいふまでもないことであるにも
かかはらず、この自明の理が従来蔽はれ勝ちであつたため、教育が如
何に歪められたことかを考へますとき、それに向つては社会一般は十
分その責めを負ふべきですが、同時に教員諸君の方にも全然罪がない
とはいはれないやうに見受けられるのは、甚だ遺憾のことであります。
要するにお互ひに他を責むることをやめて、自ら省みてその誤りを正
し、その責めを負うて教育を本然の姿に立帰らすべきであります。
ではなく、学校一般に就いてのことではあるが、幼年の者を相手とす
る国民学校に於いて殊に大切なことてあります。  [ママ]
 従来ややもすれば教育は学校任せと云ふふうがあります。のみなら
ず学校の教育方針と家庭の教育とがしつくりしないところが尠くない
かに見受けられます。これでは教育はその効果を発揮することは難し
いことであります。学校と家庭との隔てなき協調協力に於いて、教育
はその目的を達成することの出来るものであることは、誰も知つてゐ
ることでありますが、その実現がなかなか困難なのであります。殊に
皇国民錬成を目指し、大国民たるの資質を啓培せんとすることが、教
育の目的とされますとき、学校と家庭とが、この目的に向つて一丸と
なつて、その遂行に力を致さなければ、教育を国家目的に即応せしむ
ることは出来ないのであります。生徒の父兄、保護者の方々は、十分
この点に注意されて、単に児童個人の成績といふことだけを問題とせ
ず、 陛下の赤子を育成するといふ重大なる責負[ママ]に鑑みて、健全有為
なる子女の薫育が御奉公の大事であることを十分自覚され、家庭に於
いて学校の教育方針に協調して、殊に皇国民たるの信念を深くせしめ
るやう、薫育に留意せられんことを希望するのであります。従つてま
た父兄の方々も自分を教育して修養を怠らず、子女と倶に向上進歩す
るやう精進して貰ひ度いと考へます。
 また社会で起る各種の事柄が、直接間接に教育に対し多大な影響あ
るものであることは、これまた明らかなことでありまして、或ひは学
校教育を助け、或ひはこれを阻げるのであります。学校に於いて如何
に教育に努力しても、社会に於ける出来事、殊に成人の行動等が我が
邦教育の本義に合致しないやうなことでは、教育の効果の発揮は決し
て期し難いと考へるのであります。それ故学校教育の実を挙げんが為
めには、国民全般が教育に対する関心を十分に持つて、単に教育の効
果を批判に止まらしめず、実践に於いて教育を十分助成されんことを
切望してやまないのであります。すなはち全国の皆さんが我が邦教育
の本旨が那辺にあるかをよく理解体得されて、学校教育の効果に助長
的影響を及ぼすやう行動せられると同時に、国民の風尚向上に努力せ
られんことを希望して已みません。このことは殊に社会的地位の高き
人々に対して望ましいことで、国家への御奉公として実践に於いて範
例を示されんことを希望する次第であります。

                 (三月三十一日放送)