苦悶する蒋政権 情報局第二部長 吉積正雄
仰、審の砺閥が.日木の公正粂常なる調停端に麒じ、欣然之を碇試
したことは、いづれの鮎より見るも、朋に腿別すへきことであります.
けれども、新政他はその〓讃郷に於いて既に大局を淋り、抗職凹ケ年、
その刷超勤連敗の度目封筒めながら、なほ〓つその迷夢より醒め得ざ
る現状にありまま.
×
鴇一に、災米鋪の竣郷行偶の現況を池へませう.榊承知の如く昨年
秋、炎米はそれぞれ、一千茶健一億兆の掛支佃款を行ひ、三周岡似を
抑指した日本を、牽制せんと企粗しましたのに到し.清介右もまた、
これを利用して自己保存、抗日強化を�鰍閧ツつありま†が、その盤質
的数」果を軋壊するとどうでありませうか.
元来この借款金の年賦は、法件の安矩資金に充てられ、確りの牛糊
は、飛行槻戦車火砲噂軍謂晶の購入に充つる約来でしたが、その後法
階安宅資金の巡何に湘し、種々面倒な條件を鵜川し、罷盛州を拘束す
るに至り、また節絹晶の鵬入も、蒲介石の欲する如く之に礫じません
でした.その瑚由は明瞭で、英樹は、いつドイツの英本土攻略を受け
るか舟らぎる今日、平価晶を詫顔側に輿ふる敵将等筈めみな包丁、
シンガポール万博軍備脚化の環め、米閥より購政桃に送られる武器等
をヲソ〆Iンに於いて和取せんと命捌しっつあり、米団もまた「血は
水上りも鴻し」の喩に鈍れず、解放械の援助よりも.英閉援助に大丑
で、辟近文郷に附し、若干の飛行槻を迭付しましたが、これ元より正
段側の帝#敗壇に比し、温かに柁少であり、且つ、その質また不良で、
環鰹側は盛んに泣訴しっつあります.
これに加へて、縦令柏常の物衆を英米より輿へる場合に於いても、
これを支那輿地に速るペき希輪逸路け、始んど我が粧の威力閏杓に晒
され、耽が海箪の拾津封鎖、ビルマ輸遠路に封する池口爆撃の拙窄
その喩迭が極限せられまして、また過般の杏詞糠遠路の遮断作戦.或
ひは現に行はれてゐる貯州、北海、陽汀増の璃支持梓詞沌の攻略作駁
等は、竣勝愉迭路を、この万両に於いて池併してゐるものといひ柑る
であ〜ませう.
一方、練塀はいはゆる西北放逸終により、探落物資を稔達してゐま
すが、揮聯と虻も目下箪僻の政綱、団力の充繋特に弥念してゐる今日、
多くを取出し碍ません。侶にこれを愉山すると†るも、この四北除政
略は、椀奴二千五宵粁に及び、途中沙流あり.峨々たる山岳地珊あり
て、月々の愉逸能力は位lや敗胃頓に過ぎません。
以上を掛合しますと.純一二閑の投雑行佗に封する資隈約数果ほ、大
なる期待をかけ得ないのを帰近の状態としてをります.
)(
第二に、碑介石軍駄の松伏を鶴へま†れば、挽他の長期化に件ひ、
(川)
その戦力及びm昭憩は、遠穴低下し、概郎職的気分が湘増しはじめまし
た.勒ち、鼓姓の予摘.煎北の咋晩に見ても、粗M粗染柁地紋派少し、
投降寒村加の傾向を辿りつつあり、革長江の加きは抗駄の無駄なるを
惰り、部下軟塔とともに振明にも江政梯に合流し来りました.また上
司の頼令あるにかかはらず、取払に家族む搬行するもの、戦線附近の
漣難民と勝手に線蛸すろもの、蚊ひほ叔近袈しく賄仰が流行して、そ
の旺揺巾に次が軍の改革む受け、大敗した例も抄くありません.また
物錠、特に先払、その他の生活必怖晶を、むりやりに代民上り放出す
る噂の串例は枚妙に温ありません.
かくのごとく軍隊が、仙勺なりにも班在の猥弊を仲指してゐる所以
のものは、賄介石山流の巧妙なる潰侍と.粂く佗戯粁剰なる際娯州蛙
と、頼職なる刑罰とによる外ありません.鵜介れは本年初拭山水、「日
米の切力は紬き兆てた、米年は支那の勝利を和る坤であるJと滅んに
抗馳糾…を捕るとともに、昨年十二月山水、耶川次娘訓の名の下に、�i
陳の訓練に労力し、総攻撃む敢行すると薮語してゐますが、我が閉力
と良恥とを州手として、果して穀何の成果中渉見ることができませう.
節三に、婿政柚治下の揖衆生活に胱いて溺へれば、中原の億も良い
地方はH水耶に占印され、加之、奥地への物攻快速が恵の如くならぬ
関係上、米、先験、鮒相称の生朽必幣品性到来せず、その上一部の努
人.諜硝埠の只榊め、貸り棚み.罪挽の徴宰琴の円め、物求の不足、
物他の既牡は、日増に迫りつつあります.満座では米丁右甘〓十圃、
邸ち職帆の的十二倍に山岡腑するに至りました.
また法幣軋碩の拙兆は、インフレーツタンを倍加するに役立ち、酉
硝三省の繹済閑頚も、全く鋪手形に終らんとし、車縛、甘甘南省方面
に於いては、伴民及び→部の班醸で.暴軌が時々穎生しっづあるのけ
帖i柑班であ巾ます.
なほ刷共関係に放き一宮しますれば.一月上旬、新田野に射し武力
を行」催した反山野が、音外に大であつて、印抑勃牽の感を杓外に舛へた
馬め、帯介石は盛んにこれが滑止め悠件をするとともに、種々捷衝を
耶ね、最汝椀非常能都聞には、一先づ奨協したかの感を輿へるに至り
ましたものの、根本的�倹ムは依然として挽されてゐるのみならす、現
地に於いてほ、生活間接、地継�戟v堵.等にM叩し、既に津刻なる桟橋申
にまで句担してゐるのをみましても、俵然として柏剋.摩換ほ掛扱せ
られ槻紋串柿くものと思考せられます.
以上の甥柏は、逐次授肺硝帆にも反映し、米常も、環近揆雑桝儲に
此き再松村を加ふるの必密封淘むるに至つたかに吼解せられ、卯ち駄
文米犬伐の定法、カリーの峰沢等は、この間の肺患を物語る一材料と
もな巾得るものでありま†。
いまや雑故地は、封外依杯に徹成することが出来なくなりまして.
革除は逐次鏑捜化し、繹済的にほ銭ミ窮境に陥り、抗日殺後の樟碩に
泊ひつめられつつありま†が、漢民族一批の執拗性と.仙攣l�l吼の隈妹
に締らされる雑介石が、慈辣なる政鱗を辞して現状を糊払しっつ、日
本の南泄開祖に開聯して、日本と英米との鮮換強化に依る飼怖情勢が
自己に有利な時の来るのを待つてゐると耗輸すべきではないかと吼察
せられます.
三月十一日放送
(17)