国共分裂の表面化
新 四 軍 の 解 散

 

 最近蒋介石政権と共産軍の対立が取沙汰されてゐたが、重慶
軍事委員会は遂に共産軍の新編第四軍を解散し、軍長葉挺を逮
捕した。
 現在支那に於ける共産軍の勢力については、観測がまちまち
であるが、大体北支那に於ては所謂第八路軍を主とするものが
甚詫から廿毒・中毒】妄て妄鮨雷軍つl苛新四軍を
主とする首のボ琴ハ帯・その他に放ける1のモ四丁五十革と見
て、合計入十萬程度と見られてゐる.
                           一つはく
 中毒妄ける新府羊革昭和九年中南蛮悪弊介石の歴追
払上写江窒の翌基下島へ撃た時、蓑霊雲約
毒鷺畳ま彗千・これに撃悪霊匪姦へ、葉准
がこれ姦して慧爪した申頼る∵これ芸介右傾と蓑賞の
合空よ写J支菩舞教委豪忙新田牢として生れでたもの
 である.
 今豊川讐れた甘蓑の悪芸、かつて能豊丁身の慧雫輝
雪雲悪霊些写の裏芸蛮の欝に音、苧四望
 を雛めた男セある.
蘇絹第四軍といふ名も・正妻業此芸かつての簸革帯四埠革の
                              ▲−く
欝も晶つて特柾名付けたと音はれてゐるが、この新四革の白
樺は・壷や南京忙近く揚子江滑岸地頓に軍事、政治、妾の
へ与
ソゲイ言地直を確立し、誓支慧婁繁としようといふ
ととろにあつた.
                      し)、†とウ ●ょく
 憶つて新四革は初めの境は、日本軍性争論蒋軍との轡笑も棲
加が盲貯けて・只管射撃手に入れょうと努力し、「戦はぎる革
晩」の名の下に、捻子江名物のポ財部のやう忙、いは与ミl
.ハー的な存在を操けて釆た.
 もとより尉肝も安登丁としてさへ.決し1倭雲方ではたく、
小銃も垂礁に行きわたらす・幾つかの軽槻閑銃と稀には迫撃砲
を有づてゐた忙過ぎなかつたが、思想や政治工作忙重誓おい
                           くん九人
て、政治部員忙は北嘉腕西省の中商共産薫本部で正規の訓練
を経た共窒貝患妄て、少年警婦人誓作つて、最誓
 は組敷入萬と稀してゐた.
ヽノ
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九1】






 かくて、ともかく共産牢として昭和十三年の春項砂ち徐州サ
の申かち軋桝a哲しめ、武華轟の蹴現役は・我が占撼地の後
方でがポた淡けてわたものである・
 ととろがこの新国手忙も大きな悔みが出て林たのだ.といふ
のは竺ほ皇革の相女ぐ那新舵とこれに上つて肝批肘言辞たれ
たととであわ、兵器や食塩に鮎恋した彼等は民衆から強制約に
解熱h行ひ・蹴貯の的となつたが、二万では帯介右‡との何に
しばJl食杜や礪葬を奪ひ合ふやうになつた.
             み_上            ち上与
 第二は民衆の間忙思想的た魅力を失つたことで、薪四羊の後
怒と砺粁は、民衆の怨みた男ふやうになつたで地方斉硬度政
    ′、わ人と
府の南京遺都は大きな影響を輿へた.

 昔時薪四軍参謀長の職にあつた葡家駒粁革までが、新四軍と

橡を絶つて南京政府に入つたが、参謀長が反旗をひるがへす程、

奇禍軍は最早や中箕郷少くとも上海甫京附紀に放ては、何等の
魅力も勢力もない存在忙まで舵軒すること忙なつた・
ヽノ
ー7
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かてゝ加へて第三には燕介右軍の攻撃があつたのであり、新
凶軍は名目上松第三取直司令官願疏同の轄下部隠となつてはゐ
たが・初のから義忙誓相軒れない両軍には何んの都糾もな
く、しかも帯介石軍として見れば、薪四軍は勅子身中の曲とも
いふべく、ことビ亡にとれと尊はなければならない運命忙あつ
たのである。
 果して両軍は昨年七月、蒋介石革の攻撃忙よつて、衝突した。
これは七月上旬忙重患則と共産景側で中央で蛮協が成り、卸く
収つたと見えたが、それは表面たけの括で、潮四軍は昨年十月
江藤省常部忙於て・中火傍系第∧十九革を現ひ、相首の打撃を
輿へたqとれに狼狽した重慶軍事委員倉では、新四軍に寮河以
北へ移動するやう忙命令を教したが、新四ヰはこれ忙臆じたい
のヤゐたものであり・帯介石はこれに封し、遼忙ク・妄−クー
鹿併行したものである・     ハ言十入是

(昭和十六年一月十八日放送)