昭和十五年度
陸軍の戦果

 東亜共栄圏の確立に向つて大きな歩みを続けた紀元二千六百
年もやうやくくれようとしてゐるが、今回は今年度に於ける陸
軍の戦果について述べよう。
 今年度に於ける陸軍の主なる作戦は次の通りである。
  第一は敵の冬季攻勢に対する撃滅戦、第二は南支那賓陽の
  殲滅戦、第三は宜昌作戦、第四はフランス領印度支那への
  進駐である。
 事変第四年の最初の戦闘は、敵の「冬季攻勢」を撃破したこ
とである。
 敵は冬季攻勢と称して、北支、中支、南支の各地に於て全面
的に攻撃を企てて来たが、我が軍は到るところに完全にこれを
撃破した。
(敵の損害) 敵の遺棄死体は 六三、〇〇〇
捕虜は 二、五〇〇
鹵獲品は 迫撃砲 三三
重機関銃 八三
軽機関銃 四五四
小銃 一四、四八九

 次いで一月の下旬から二月の上旬にかけて、南支那に於ける
賓陽の殲滅戦が展開された。賓陽は南寧の東北方にあるが、南
寧を奪ひ返そうとした敵は、尨大な兵力を以て攻勢に出て来た
のである。
 これに対し我が軍は殆ど殲滅的な打撃を与へたのである。

(敵の損害) 敵の遺棄死体は 四六、八〇〇
捕虜は 二、五〇〇
鹵獲品は 迫撃砲 六八
火砲 (大砲) 四一
重機関銃 一一〇
軽機関銃 五四四
小銃 六六〇
擲弾筒 一二五
戦車及装甲車 八八

 越えて五月から七月にかけて宜昌作戦が展開された。宜昌は
湖北省の揚子江沿岸に於ける要衝であり、この宜昌作戦は、今
年度に於ける最も大きな、然も最も重要な意義を持つものであ
り、我が軍は敵第五戦区の大軍を席捲して六月十一日に遂に宜
昌を占領した。

(敵の損害) 敵の遺棄死体 約九〇、〇〇〇
捕虜 約五、七〇〇
鹵獲品は火砲 (大砲) 二八
迫撃砲 五五
重機関銃 一四八
軽機関銃 五七七
小銃 六九一
擲弾筒 一〇九

 次は九月に行はれたフランス領印度支那に対する進駐である
が、我が軍は九月下旬、堂々仏印への進駐を開始し、援蒋公路
を遮断した。同時にこの仏印に基地を得た我が荒鷲は、ビルマ
方面からの援蒋公路を徹底的に爆撃し、蒋介石政権に痛烈極ま
る打撃を与へた。
 この外一方九月上旬には江北に於て、共産新四軍を殲滅、十
[三字不明]十一月にかけては、山西省附近に於て、共産第八路軍の
本拠を押しつぶしたが、これより先十月上旬からは、江南の平
原に於て、第三戦区の敵軍に対する補足殲滅戦が行はれ、続い
て十一月から十二月にかけては、湖北省の漢水を中心として、敵
第五戦区の大軍を包囲し李宗仁を主力とする敵軍を撃破した。
 かくて各地に於て蒋介石軍の殲滅戦が展開されたが、皇軍は
事変勃発以来、幾多の電撃戦と殲滅戦を行つてかくも輝かしい
戦果を収めて来たが、去る七月七日の事変記念日に陸軍当局が
発表したところによると、我が戦線の延長は約四千六百粁(一千
五十里)我が占拠地方の面積は約百六十万平方粁に上つてゐる
 実に我が国全体の約二倍半であり、我が作戦用兵の規模の大
なることはヨーロツパ戦争の比ではない。
 皇軍将士の活躍するところ、北は満ソ国境から南はフランス
領印度支那に及び、この間或は朔風ふきすさぶ極寒、或は灼け
つくやうな炎熱と闘ふその労苦だけでも並大抵ではない。皇軍
将士の健闘に対して感謝の意を捧げると共に、戦没将士の英霊
に対し、謹んで衷心より哀悼の意を表する次第である。

(十二月二十六日放送)

 (註) 昭和十五年度一月より十一月末迄に於て我が軍が敵に
与へた損害は次の通りである。

 敵の遺棄死体 五八九、八八八
捕虜 五五、一二七
鹵獲品
重、野、騎、山砲 一三四
機関速射、高射砲 五三
迫撃砲 五四一
重機関銃 七八〇
軽機関銃 三、七〇八
小銃 一三八、四四四
洋砲 一一、二三〇
戦車自動車等 七六七
装甲列車、機関車 [ママ]
客車、貨車 三三
舟艇等 一四七

事変勃発以来の敵の損害は遺棄死体が約百八十万に上つえ
ゐる。航空部隊の戦果は昭和十四年十二月二十五日から昭和十
五年十二月五日までに敵機の爆撃数は八二、爆破一六合計九八
に達してゐる。これに対し我が方の損害は九である。