青島の我権益と同胞の発展

青島の我権益芯汁b、
じ ば・)じ き てl
自暴自築的に衆後
ヾJ同胞の沓展
 .一 方
の足撒きを授けてゐる支那
  ばうれい    せいJミ)
倒は暴戻にも途に青鳥の我
(7)
hソ†くだフ
 「が紡績工場に対して菰奪、
はくわい
破壊を加へた後、九つの紡績工場を全部焼き彿つて了つたと傾
       き・1はラ    わた  えいえいしん′1  ちら  サ】hツよ′1
へられる.我が同胞が多年に立つて常々辛苦し、凡ゆる努力を
     女づ           けんえき          ・フ 血て)
傾けて築き上げた我が槽品が一朝忙して鳥有に辟して了つ′たこ
とは、返へす′ル1も壌念な事で、今更の事乍ら支那例の暴庚、
    lこ一】
不信は定に悼みても飴りあるものと首はなければならな小.
 脊鳥の地理的な稔明とか、脊鳥の我が紡頼については管て地
べた事があるので、辞しい事は省略するが、婆するに青鳥は山
       こ・)しめ、つわん
末年島の東南、膠州潜に面した郡合で、明治三十一年(一入九
        井−しやくも・
入年)に猫逸の租借地となつたものを、大正三年の口猫戦争の
結輿我囲の占領する朗とな少、その後大正十】年十二月にワシ


ントン条約及び山東懸案細目協定に基いて、支那に還付された
といふ歴史を持つ処で、青島に於ける我が同胞発展の基礎とい
ふものは実に我が領有時代に確立されたものである。
 そこで今回は青島に於ける我が同胞の経済的発展の状況とか
山東に保有する我が権益に就てあらましを述べることにする。
説明の順序として先づ山東に於ける我が権益から述べることに
する。
 大正十一年(一九二二年)の十二月に我国は青島を支那に還付
したのであるが、その際ワシントン条約及び北京に於ける山東
細目協定によつて、我国の得た権益は凡そ次のやうなものであ
つたのである。
 その第一は山東不割譲の取極めで、大正四年五月二十五日に
調印を見た彼の二十妄條として知られる口宅間の條約の巾、
          ふ いにい
山東に踊する部分の附碍として時の和がま郷駄剤公使と女邦の
外交絶艮との糊に、山来を他閥に刺繍しないといふ串を的氷し
た公文が交換されたのであづて、之によづて或那は…釆省内若
                き−、)しよ
くは滑海一珊の地、若くは鳥映を何符の瀦韻を以つてするに杓
     モ ょ     U?1よ
らす、外聞に租興したり、又は接興したりしないといふ事を約
                       bだ
来したのであづて、之によ少山米が他餞の手に委ねられるとい
ふ不資は除かれたわけである.
                かいはう
 その嬰議山東省内緒郡印の開放に紳する事で、支那に於て
   か_ふ も
は桝網糊埠地の外は、外聞人の居住は禁止されてゐるのである
        ていけつ
が、大正例年に締結された山東省に粥する條約の琴二條によつ
                             て」Fたヽ}
て、支那は外図人の居住辟易の埠−山米省収於ける通常な郡印
を剣す孟あ驚、その接定地として郎年齢a、紆轡
     はくきん し せん
脊州、張店、仰山、浦川・周柑の八ケ何が胡ばれてゐるが、東
郷側はまだ正式にその開放を後家せす今日に及んでゐる.
然るに北が同胞は既に以前から之埠の都市に多数在位し、い
ろいろの串紫に従新してゐるが・常に的資上の不鮮と経桝剣s
                                                            .   ●■ ヽ
                    ∫「 カー
便とにょつて、その義鳩柁増される串が少くなく豊弼閥の
綻湘的拙拙獲他のため造憾に埴へないとされてゐた何である.
        かうじよ   ういし抄ん       しゃくくわんゆラ.せんけん
 彗l柑綻は拭徐化迫と碑順蛾氾とに封する倍款使先椎で
ある8づまり犬氾七年九月戦が輿鋭、茶鈍、貯鋭の三鈍行から
                     こ1丁ヽ、い
成ろ和が椚款岡と文郷政府との撃ノ、膠済繊迫の滑線の潮解か
ら汁鮮胡の徐州に吏る耗徐織滋と、桝摘から河北省の順徐に至
る桝順蛾迫の雨蛾追(二つともその距離は脊鳥、桝絹憫と大立
    ふ せ→
ない)の敷設に拘しては、その資金を串ら上述の牝が鋭行固か
                         lへわたしさん
ら借入れることを約した預僻契約が調印され、同時に前渡金と
して二千萌風が支那に交付されたのであるが、その後ワシント
ン禽揃の結兆、閥際肘固の兆伺事共に開放され、そのまゝにな
つて今日に及んでゐるのである。
 第仰の棚拡は膠柄蛾追に拘するものである.日濁戦中の結頻
として大更一年十一円七日以来熊手に押したこの餓迫は、その
後パリ分捕・ワシント‥音謙を経て大正十二年一月古川に支那
政府に還付されたのであるが、還付に常つて城址肘は餓治肘佳
 良つもh・か かく
の払拭憎格川千萌凰を支那政府に婆求し、之に封して支那政府
は四千耶凰の図糀紆券を敢行して戦闘に交付したのである.
  この閥付和券は竺両利子を支納ひ、元金は引招から勉算して五

 年間瀬姪、その後十年間に僕和することになつてゐるのであつて、
 我駒ほこの耗利を確保する積め、利息に常る金術を毎月接済正金銀
 行に預金させ、又光利金の償却が済まない閉は、日本人の粍斡ホ打
 と合計、弐什とを一人づ1批の嘩道に入れて、監督させることに定め
 られてゐるのであつて、箕質上に於てほ借款堵潰と何等典る所ほな
 いのであるり
                  ′ヽわち・フ
 膠済餓追が之迄耗庇かの動乱の渦中に拉ぜられ、幾多の同郷
 き●)ぐ、)
に通過し乍らも、まだ一度も護持を中止したことがなく、今口
東郷岡村械追中の模範蛾追といはれる状態にあるのは、一に之
           へ)一ご
迄我閲の直結間接の庇護によるものであるといはれてゐる。
  共他在佗外同人が青島の市政に参興する純利へ尤も之はまだ賓現
 されてはゐない)とか、青島、治口、掴方と我夙との問には和文電
 報の取扱ひが行はれるとか、有島の柚叫を大正十五年から向ふ十五簡
 年間最高三位五千常斤、最抵l倍萬斤我同へ輸出すろとか、青島税
 関と我が和人との問では日本語を使ふことが出来るとか、いろ〈
 の純益を持つてをり、又我伺は現在守島に放て土地建物等多くの不
 和転を持つてゐるのである。以上が山東並に青島に於ける我閥の純
 蒜であるが次に我が同胞の音為に於ける語壊蹴りについて記さう。
  苛島に於ける同胞の人口は和也時代には佳かに三石人に過ぎなか
 つたが、口掲取律牛歳た1山間に一哉人に檜加し、その径椅滅はあ
 つたが、昨年末現在に於ては守島の絶人口四十七呵飴人の巾、邦人
 は一萬六†飴人に注し、青島の外同人巾鮎倒的地佗を占めてゐるの
 である。邦人経営の工場も大小胃飴努教へ、青島の充北一冊と四方
 治口万両は、蹴やかな工場地相を形づくつてゐる。而して邦人の企
 策を大別して見ると
製油その他各種の工業で、工場の蚊は大小H故に適してゐろ。而し
て之等の投資材ほ紡蹄工場が約一倍掛、その他の工業が的一千五再
演嘩膠済鋳造治娘と靖偶の諸工業が亭満凰、膠滞絨活消挽Y鎚
莱に二千入胃鵡胤、之等を合計すると約一億五千三石鵜原内外の正
符に達し、この地方に於ける各掬人の絶施資縮の約八割に苗つてゐ
るのであるじその他我が居留尿は市内に胃数十満杯の官私有地、並
に千二胃荷風に上る鍵染物を所有し、その他却策への穀下資本を総
計すれば、健に二億充千延岡を突放するといふ状態である。
                 〔十二月lニT臥放迭)