南京の南部地帯と城外



 去る十日午後一時牛を耶
して南京城組攻凝を開始し
た我が員軍は、虜猛典敢な
猛攻撃によつて著々と戦典
を横大し、南京の陥落は今
ゃ日前に迫つてゐる.南天の東部から北部にかけて敢在する、
主な建物等に就ては既に述べたので、今回は南部地帯その他に
ついて犯すことにしよう.
 我耶は十二日正午南京の城門中最も堅尉な中華門を攻略し、
引きつづき南側の城蟹を全部占瀕した.この中華円は南京の南
門であるが、ここから城内忙入ると中華路といふ道路がす−づ
と北に伸びてゐる。この中華路を北に進んで行くと、やがて憲
兵司令部、立洪院、訓練組監部、南京市政府、内政部、財政部
等の建物が散在してゐる.この内恵兵司令部は二階建の割合新
しい建物であるが、立法院と訓練絶鹿部(我囲山教育組監部に
常るもの)とは一つの古い建物を仲よく使つてゐるが、之等は
役朗としては支那第一といつてもいい位汚い建物である.叉南
京市政府も昔の墳物をそのまま使つてゐるのであつて、例の上
海市政府が薮華を浮つたのに比べると、誠に粂謝橿るものであ
る.それから内政部、財政部も何れも巧い建物であるが、この
連一帯は南京のいはゆるビジネス・センターであるが、術が狭く
汚くごみどみしてゐる朗である.中華路は北に伸びて中正路と
いふ滋路に通じ、やがて新術ロといふ康場で、中山門から西に
発つて釆た中山末路とぶつかり、更に中山路となつて城の西北、
抱江門へと伸びてゐる.
 それから先に脇坂部隊によつて、南京城山番乗りの晴れの舞
甚となつた光拳門の西に、適済門といふ門があるが、この門を
                しんわい
入つた研に古い辞に歌はれる有名な秦准がある.秦の始皇帝に
  かいきく         ぐわ比・)
ょって粥婁された運河の名で、有名な宴紡の浮ぶ散楽の地であ
               −†7ゐん    イブ
る。この欺柴の地秦准の直ぐそばに粛院と孔子の廟があるのも
               くわ†よ
皮肉である。斉院といふのは昔科拳つまり文官の讃枚試験の行
はれた朗で、非常に規模の庚犬なものであつたが、今はその誼
母が荒れ果てた偉環つてを少、この君院の臍りに孔子を祀つた
(11)

                        ゴIつたふ
孔子駒があり、この逢は市人行楽の巷となつて常に雅悶してゐ
る朗である.
 以上で大便南京城内の主な建物や場所等に就てあらましの詮
明を経つたわけであるが.女に城外のニ、三の朗について速ベ
つて、咋年八月中華門迄延長されたものである.
                     (十二月十三日故星)
ること忙しよえノ.
                  はくしうこ
 南京城の西南にある水西門を出ると、莫愁湖とい
くない池がある.侍故に富み蓮の花で有名な池で、
ふ飴り大き
  はミb・
その呼には