要塞と化した南京城外の山



 目指す南京城を望んで意
気天を衝き勇みに弟む我が
皇軍は、入日早暁南京外周
    つつ     ウ
の山野を包む、朝妥を衝い
         ひ 一た
て南京城正面攻撃の火蓋を
切つて落した.南京は西の方に揚子虹を趣へてゐる外は、架か
潮凋憎叩1
   々んぶん   l
はれた孫女の漆を祀つる堂々たる中山陵があり、
            り.て)えん
園地帯になつてゐて、中山陵周といはれてゐる、
      せいか †ん ●・ラゴん しlんすん ▼叶うし小さん こ・)しゆん
ら南にかけては樽慢山、揚山、紫金山、牛首山等の高峻な山々
 つちな
が建つてゐるが、我が各部除は入日朝来或は湯山或は牛首山の
けんじん よ
…川糾閑戟c娯倹欠fb欠f…”b約岬
る事忙しよう.
 之等の山の中でも敢も人目を引くのは南京城外の衆方にある
            しょ・)ゴん     しん しくや)てい
紫金山である.この紫金山は産山とも首つて、音素の始皇帝が
            わ、フさ しづ     でんせつ
金銀財賓をこの山に埋めて、王気を銘めたといふ倖詮のある山
であるが、此山の氷の中腹にはよく知られた団代品命の父とい
、フ くわだい
雨花裏方面に艇迫してゐるとの事であるが、この雨衣壬といふ
のは南京城の南門の外の梅岡の上にあつて、この峯に登れば南
                   ヽ▲・)●’
京全市は一望の下にあるといふ審地で、高座寺等の古い専もあ
                           だつ
って、名勝の地であるが、甘から南京の攻防職には雨衣峯の奪
取が敦後の止めを刺すものといはれた尊書の地である.
ハ南庶城の正門興中門ノ
その附妃は公
叉中山陵の西
       −.、」フhりよ・、ノ
方には明の孝綾があり景色の非常にいい所である.然し対日戦
  −†ラはん                   めいぴ         竿っえい
備に狂奔する国民政府は、今やこの風光明媚な朗をも首都防衛
 ヽ■一丁」マい
の要塞と化して了つたのである.
 次に南京待避をひた押しに進む助川、大野の諸部隊が攻撃中
     がんもんすん
の湯山は、雁円山とも云つて、ここから温泉が湧くため湯山と
いふ名前が出たのだと侍へられる。叉この湯山の北には棲霞山
                      叶いLよ
といふ山があるが、此虞には南北朝の噴からの由緒を持つ棲霞
      めい台つ         けいだい   ヂゐ ぶんてい しヤり
奇といふ名刹があり、その境内には随の文帝の舎利を病めると
                      bで)にん  ひ
倖へられる、石造の高さ五十尺の合利塔があつて驚嘆の眼を煮
くものがある.
       てんけん
 山方株政閣の天瞼を衝いて北進した千黎、山村打諸部隊は、
         う▲川ろく
牛甘山の本陣地山鹿にとりつき、批烈な山岳識に移つて、敵を
 既に述べたやうに南京は二
千有飴年の舵史を持つれい郡
     、、 々んけん
で、三歯の時呉の孫槽がここ
       けんけふ
に郡して雄弁と糾してから、
鍵度か郡の地となつた桝であ
るが、硯耗ある南京城は明の
太糾の時代に修築されたもむ
で、域壁の周囲は四十四キト
つ至り十一男、十飴の立派な
城門があり、外は煉瓦で溌は
れてゐて、高さ十米から十茄
米つまり三丈飴から茄丈佗あ
り蟹の厚さは上の方で古米か
ら十米つまり二丈から三丈飴
く 6)
                           l ば
下の方は二十米から三十米つまり七丈から十丈もあつて、規模
の大きいことは北京に次ぐもので.さすがに北の北京に対する
南の郡としてふさわしいものである.ハ十二月八日水蓮)