南京二千年の歴史を顧る



こうぐわい     しょ一丁えん
 神速果敢な注進宰によつ
    は、’も
て南京を包囲した我が皇軍
            ひ
は、いよいよ南京攻撃の火
ぶた
萱を切り、銃砲撃とときの
畢は附近の山野を座し、甫
京の郊外一帯は栢煙に包まれて、南京陥落も今や時間の同類と
なるに至つた.南京がどういふ研か、その地理等は之迄のべた
事もあり、周知の通りでぁるから、土地に就ての詮明は省略し
て、今回は南京が竜郷の歴史に放てどういふ地位を持つてゐる
研か、南京の歴史を主にして述べて見る事にしよう.
 歴史を顧みるに南京は賓に二千有飴年の歴史を持つてゐる土
     ぅこう†うし●, い■     々 ●んりよブい●フ
地で、省くは濁音揚州の域、哉囲時代の楚の金陵邑の地で、覿
           ▲lつ一りよ一フ
の代には金陵を改めて珠陵と育つてゐ尭.此虚が始めて郡とな
                      「− 々んけん
つたのは、今から千七官年許り前、三周の頃の事で、呉の孫格
          た    けんけふ                        きだ
がここに郡を建てて建発と言つたのが、南京が郡の地と食めら
         ミ・1しん ぷてい  らくでっ
れた最初である。その後東晋の武帝は郡を洛暢から此虞に移し
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 Mんか・)             tう せい
て墟騎と呼んだが、次いで絹北朝の末、朽、
          じ らいいくた へんせん
の碑郡となつてゐた.南米鶉多の埠速を経、
るや、明の太組は郡を此廃に定め、建康府と
り†、) ちん ≠’だい
染、陳と歴代絹籾
けん    入ん おこ
元に代つて明が輿
       お上ノ
いふ名を改めて鹿
てんふ                              えいらくてい
天府と稲し、非常に柴えたが、明の弟三世、永堆帝の時に至つ
    えんけい ・1つ    べさん
て郡を北の燕京に過し、之を北京と呼んだのに対して、此虚を
南京と稲したが、之が南京といふ名の掘りである.かうして郡
が北京に超されてからは昔税の紫柴は見られなくなつたものの
                           ▲レん
仰背郡としての紫頚を誇つたものであるが、明に代つて清が輿
        こ・1払いふ          †く
るや南求を改めて江率府と桝したが、兵火の厄に令ひ更に清朝
      ちよヽはつ●く
の求に起つた慮奨賊の乳に際しては賊徒の銭めに占領され、甘
 ▼†フしヤ1甘ん                                てんさん
魁沸秀仝の居域たること十一年に及び、その名も天京と改めら
れた程であつたり及柴賊の乳は西暦一入六凶年(元清元年)に漸
く治まつたものの、澱後起つた第一凝命忙際しては、南北弼軍
は此虚で兵を交へる事数十日に及び、その岱めに市術は兵火の
              し拝しは                      おごしい
巻と化し、域璧も歴々破壊されたが、遽に革命軍の陥れる研と
                 †んぷん
なつた。次いで民囲元年(大草冗年)に孫丈は此虚を郡と集め、
    甘いモ一つ卓}                うつ
ここで臨時大観統の任に就いたが、後太線銃府を北京に鵡すに
       も † ふ     こ、)こ・ツ
及んで、ここに留守府が置かれ、黄興が留守太線統としてここ
に居た事もあつた.
 その篠国民品命に際し、孫丈の死去によつて時代暴の兵植を
掘つた渚介石は、民囲十五年(昭和元年)七月囲民革命軍を率
  かん●←ん   ほく放つ
ゐて席末を出費北伐の途についたのであつたが、翌昭和二年三
                      ここ
月忙は上輝及び南京二野を占萌し、玄に長江以南の各省から北
耶を一崩して了つた山であつ力∵でして閲民革命が成立するや
                     ていけい
渚介石の一派は図尺菰の左派と共辟瀬とが提携して建てた武漠
   たいこ、)        たてこt
政府に封杭して、この南京に立侮り、正式に此虚を歯民政府の
                 せいき、) け
首郡としたのであつて、爾来十年の星霜を陶みして今日に至つ
たのである.
             くわいこ
 以上南京二千年の歴史を回顧し、之をかいつまんで述べたの
であるが、南京は民固元年に孫文が此虞に郡を粂めるに常つて
 南京ほ溌水、高山、平原三者兼僻、世界大都市に稀に見る佳境であ
 る.而も長江の下流最竪鋲地の中心に位し、将来の蟄達挙句べから
 ず.
              1             ちよ・)
と首つてゐるが、この官紫を侠つ進もなく、古来の歴史に徹し
ても南京を得る者は王者たり、之を失ふ者は天下を失ふとされ
てゐるのである.そして滑の代以来南京の攻防哉は十四度もく
り返へされてゐるが、鴻京を守つて故も庖い間持ちこたへたも
のは、太半天囲の洪秀仝で、紡後十一年に及んだが、国民政府
         てんミ
の首都たる南京も粂郡以来十年忙して、人Tや正に陥落の前夜に
あるのである.ハ十二月七日放選)
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