大本営宮中に設置さる


 今般支那事変に対処するため
二十日宮中に大本営が設置され
た。
 大本営は大詫の下に於ける最
高の統帥部で、過てる日滞日諾
雨助役に大本営が設澄された事
は周知の通りであるが今何の革攣に於いても二十日教義された大本営陸
海軍都営樹淡にもある通り、今次の事襲の推移に錐み長期作戦の覚悟を
以つて本格的に武力を行使するため統帥部を戦時態勢に移すのを適普と
 認められたため、大
 本営が設置されるに
 至つたのである.
 斬れば駄時大本管
 條例が我閥に始めて
 公布されたのは日清
 戦役の前年明治二十
・六年五月二十二日でこの條例
は四ケ焼から成るものであつ
た。そして大本営ほ明治二十七
年六月五日参雑木部内に設置さ
れたが、宜戦の詔幼換守後入月
五日には宮中に移され教局切進
 展に件つて九月十三日には更に成島に進められたのであつた.かくで頻
 々たる敬勝を‥椚めて翌二十八年四月二十七日には成島からb椰に、又五
月二十九日にぼ山最Wから東京に筏賭して明治二十九年の四什ノ日を以つ
 て開銀されたのであつた。
 而してこの明治二十六年の敬時大本営條例は明治三十六年に至つて改
 正され、その年の十二月二十入日に勅令第二盲九十三紙を以つて誠ケ鎌
 から成る戦時大本営條例が公布されたのであつた。この條例と明治二十
 六年の條例との問の背しい相澤は明治二十六年の條例によれば、大本営
 にあつて惟峻の機密に参興し、帝開陸海軍の大作戦を計葺すろ任に箇る
 のは参謀組長だけで、陸海軍からほ夫々幕僚を出して幕僚長の指挿を受
 けることになつてゐたのを、日詰の風雲急を告げるに及び明治三十六年
 の改正によつて、海軍軍令部長も参謀組長とともに幕僚長となることに
 改められたのである。そして日露敬役の大本営ほ、封羅覚敬の詔勅が換
 表された翌日即ち明治三十七年の二月十一日を以つて術中に設放され、
 平和克復ののち明治三十入年十二月二十日を以つて解散となつたのであ
 る0
         =……・◇・……=
 而してこの明治三十六年の勒時大本営條例が去る十入日の官報を以つ
 て公布された勅令第六石五十入兢を以つて殿止され、軍令前山光大本営
 令が公布されたのであつて、明治三十六年の條例ほ内牌絶排大臣と陸海
 軍の柄大臣の三大臣の副署があつたが、大本営は純然たる統帥碑舶であ
 る琴今度の改正に於いては之を軍令とし、陸海凝縮大田のみの刷堵と
 なつてゐるのである。元の戦時大本管條例はその名の示すやうに戦時に
 限られてゐたものであるが、今回改正jれた大本常令に於いては那一條
 により戦時又は革攣に燃し、必夢に應じ大本営を浸く事が川氷るやうに
 改められたのである。又明治三十六年の戦時大本管株例には那二折節四

 怖‥耶滋條に於て大本営の編制及勤務の火縄が示されてゐたが、今岡改正
 された大本営令に於いては之等を一括して第三條に於て大本営の編制及
 勤務は別に之を位むと改められてゐるJ而して大本営の編制及勤務は堪
 槻郎項に属するのでその杓容は讃表されないのである。鯛元の戦時大本
 常旅例には大本営に布瞭及各増刷の高野部を泣くと規定されてゐたが、
 この令槻舶とは鞘却槻渕を指†ものであつて行政機関等を指†ものでは
 なかつたのである。
 和して二十日設抵された大本営は大本営令に明示されてある通り大浣
 の下に於ける撒布の統帥部で、陸海納叫の統帥茶脆と附磁の清瀬舶を似
 つて蜘成され、惟峻の機務ビ奉仕し作戦を参宜し、陸海納軍の韓懸協同
 を拘ろことを以つて本務とし、陸海箪大出も亦笹政鏡理の馬め所婆の随
 員を従へて大本営に凍るものであるじ即ち大本営の設浸は寄ら統帥大柄
 の巧勅に兆き平時統帥邦と陸海斌省とに分掌せられる統帥関係移項の廃
 刊を∵光化することを本官とする純然たる統帥の肘であつて、その設澄
 に依J統帥と閑務との職域、茸仕の分舛に何等の攣化を先ずるものでほ
 ないのである。
 枇上往々大本螢は統伽と閥我とを統∧〓する肘であるとしたり、或は戦
 時杓閣の前身であるといふやうな臆測が行ほれてゐるやうであるが之は
 全く根嬢の糠い浮説であつて、今岡の大本管設澄の原意でないことは勿
 私刑である。
 咄現下のやうな状況の下に於いては政取柄略の一致を期するため、大
 本営と内閣との油終、協洞ほ特に緊照を必宰とするので睦海軍大臣が之
 に常る外、大本営布紋長と関係閣僚琴とは必単に鷹じ、随時身同して隔
 意のない意見の交換を行ひ、寵蓼案件に就ては御前に禽誘を行ほせられ
 るが如き前例も亦御採用に相成りますやに拝察せられる次第である。
  又二十8大本驚か置かれたことほ前述の大本営令弟一條の鋭定で明か
 な通り却欒に瞭しても必渉に憮じて之を粍き和ることとなつてゐるので
 大本常設櫨と宜批布岱とほ側係のないものである。
 今や虫堪ほ大木常の設維に快つて脳捕縄仙の仰鉾を鞋へられ、盤に吐
 瀬柄笹騎幣協同の態勢を以つて更に湛詳の小絶と統伽の山北輔とを和し、
 令髄の将兵も亦一投の拒気を加へて〓帥の〓的H徹に抽つて遭難せんと
 してゐるのである。ハ十山刀ニ†U放送)