第五号 目次   (昭和12年12月1日発行)

米と茶で有名な安徽省 11.16
国民政府遂に奥地に退却 11.17
汪兆銘と可応欽 11.18
張群、呉鼎昌と陳兄弟 11.19
大本営宮中に設置さる 11.20
米国の二大通信エーピー、ユーピー 11.21
通商条約とはどんな条約か 11.22 
太湖及び其の附近 11.23
世界通信界の覇者ロイテル 11.24
日独防共協定一周年を迎へて  11.25

 

米 ミ 茶 で
有名な安徽省
 安撤省は支那本部の相克部に
位置し、東は江蘇斬江のこ省と
頻し西は河南湖北の〓省に通り
北は江銀河南、叉南ほ斬江江西
の各省と夫人境を壊してゐる。
安緻といふ名は安慶、撤州二府
 バV】ny上「一r」く1‘′ ブI.′9 ●一hH一′一†▲1■−−・−†lF■■ノl一l▲可l一刀、■一.‘..ノー一、Y一−イl▼.一・−. −−
け省の形をとり民図に至つ七初めて完全な掬立の省となつたわである」
                ■,‖
 冊碩は十四萬三千飴平方粁で支那各省中斬江江株硝銀河北の各省に次
               巾いが
ぐ小さな省である。地勢は北方の准河の流域、中部地樹及揚子江以南の
三大地滞に分けられる。池河の流域は一甥はてしのない平坦な大平原で
地味住民言語等も北支郷と炎通したものを持つてゐる。中部地相と言は
れるのは搬河と揚子江とに狭まれた地域で西方に他山山脈があるが大部
分は沃野を形づくつてゐる。叉格子江以南の地は一般に山岳性でその間
の各地には盆地が散在してゐる。この間を本省の南部を流れる琴十江及
北部を流れる准河の二大河その他枇多の河川が流れて舟運の便を輿へる
          うlは
と炎に安緻の大平野を池し父大小数多くの湖沿が粘在してゐる。気候ほ
湛札で雨丑も埋欝な馬純物の生育に適し.従つで太省は農薬が盛んであ
る一大省の戸数は≡宵八十蕗飴戸、人口は〓千二石鹸誠人で.一平方粁
の人口碕琵は官五十三人飴となつてゐて、江献山東河北斬江河南湖北の
                    レレ人こ・ヽ・り、八つ
各省に次ぐ粁度を示してゐて.支部としてほ人口桐粁の部類に属すると
血首へよう♪
         ○
 次に本省の産業は揚子江、准河等の流域は一環千曳の大平野で坤味も
 よく肥え菊併も温和で、雨畳も潤浄なため農薬が非常に盛んである。農
 桝地の画材絹五千ノ▲壱五十蔑傲励二掛け覗か石八寸坪)で農民の敬ほ一
                                            臣U
 千四百瀬人に近く、つまり金人打の六刺飴が農薬に従卒してゐるのであ
 る。農産物∽種鞘は准河から南の地域と格子江流域では米を産しその及
                        ぶ こ
 は非常に鞋欝で本省の物産小首位を占めてゐて、燕瑚は資に支郷妨一の
 米穀め取引の市場をなしてゐるのである。然し准河から北では畑作物管
 桝作し弊朽高梁玉対策甘撃大豆等が宅に生産されるがこの外茶糞種落花
 生集恨事綿花等凡ゆる農産物が産出される.中でも茶は米と共に本省の
 生産物で全軍都の茶席祈の殆んど≡分のこを占めるといふ盛況である.
 併し牧畜林業漁業等は特記すペきものほない。
                        じ∫Åや・1はん
  錬成物には蛾石放銅鉛銀磁土明敏等があり、とりわけ繊が澱も誼要で
 ある一緒の咄成盤は約二千幣噸で支那各省中和常嬰富な部和に属するの
          ‡・つちゆ・) lマい叶ささ
 であつて各城山の申桃沖、釆石碗の〓増山が特に著名である.而して本
 省の純銀は殆ど全部が耽周に輸出される却は特記すべき都であらう。
  工策はまだ大した準達をしてをらず製粉製茶紡紡製仙製紙等の流工莱
 が喪げられるが.製茶染がやや盛んな外は何れも見るべきものはなく又
 之等の工薬も殆んど全部家内工策の域を出てゐないのである. 芸r
  本省の交通としては接遇は津浦扱が東北を通過する外離河の南岸m毅
 もん
 席から辣湖の野岸附近に至る全長約二宵十五粁の准南鋪道と.柄京淋湖
           々んか ふ
 問をつなぐ江東絨通が持家埠迄通じてゐるに過ぎないが、掲子江准河等
 各河川にほ水窪の便がある。
        ○   寸
                           ば†・小
  本省の首府は安鎧に懸かれ開稚頓にほ蘇湖、開市場には畔埠の各一節
 所がある許ケで、其他の焉な都市としては蹴州、鳳陽、叫輝呼の名が知
                              ●
 られてゐるに過ぎない.何本省は背から著名な政治家軍人唇音等む政多
              たい一、
 く出してをり、古くは明の大糾、近くは挙沌草段桝璃鵜玉畔等は何れも
                 せ’がくL叫■ \
 本省のH身であり、叉学者には宋代の碩攻究詫つまり火子を始めとして
 史上に傑出した人を樺山出してゐる。〔十叫月十六日放迭)
」園民政府潅に
奥地に退却
 我が皇軍の紳‥濁■果敢な猛攻撃
によつて、江南仙戦線に於て全面
的敗退を喫した開局政府ほ遂に
 じ紬・)けい
霊慶を臨時首都とし、大本管と
軍事機関だけを南京に残して政
府主席林森を始め司法立法行政
考河監察の五院と賓幕政育鋳造の三部は電碇へ、外交町政内政の三部は
 かんこう    ちよ・つ寺
沸口へ交通部ほ長沙へと夫々奥地に退却ナる事になつたと報道される.
.開局政府の組繊は組輸法第入條に基く立法司法行政考拭監察の五院の
集合捜であつて、この中行政院が開局政府の最高機舶で恰度内閣に和音
 し行政院長は内閣総理大臣に昔るのである。而して同氏政府ま席は野内
外に開局政府を代表する支部の元首であるから.この政府主席及五院の
重慶移持によつて軍慶が臨時の首都となるわけである.
 各同の内閣に普る行政院には内政外交軍政海軍財軌箕集散青交通域造
   れい●′ヽ
各部が嶽鹿し、其部長ほ各省の大臣と同じ様な稗限をもつてゐるのであ
るが、之等各部の内耳英数音域潰の三部は開局政府と鶉に軍慶へ移り、
外交財政内政の三部は漢口に移り交通部は長沙へ移るといふのである。・
 而して外交財政内政の三部が溝口に移らうとするのは溝口が支都本部
                          九ついん
 の中央部にあつて揚子江に臨んでゐる許りでなく、京漢、埠瑛雨域邁の
相壊し集る交通の蓼衝にあり、外開金融機関との壊触に非常に便利だと
 いふ理由によると俸へられ、叉交通部む長沙へ移指するのは同地が昏流
                               せつ
接遇の一要地として南は本接遇町よつて輝東、香沌等と適格され東ほ新
 かt
純増造によつて江西斬江の各省から更に江蘇棺建の籍省とも油絡するこ
 とが出来、又西は湖南の西部と費州省とに適格し得ると冨ふ理由に基く
 ものの様である¢
         ・…・==∧Y!・!!
 此の前の上海耕奨に於ては一圃民政‥肘は江府省の洛
 ゝユT■フ
陽に遷都したのであるが、今回は速く田川省の東成
に首都を透し、更に漢口冤慶長沙に政府の籍槻舶を
分散して移して了つたのであるが前速の如く外交財
政等の重蓼機関銀行等が漢口に移ることから見れば
漢口こそは敵の軍事的本墟である南京と共に開局政
府の一中心として非常な悪夢性を持つものと官ほな
ければならない。
 臨時首都となつた束慶は揚子江の河口から糖で約
              きかのま
二千五官粁即ち六古二十里傲り遡つた所にあり、春
        はこく
秋時代に於ける巴閑の背都で揚子江上流に於ける第
一の商工都市且四川省第一の大都合である。人口は
           かh′や・)こ・)
約六十萬.市街は揚子江と宗陵江とに跨り、西部支
那に於ける最も電要な物資の洩渦琴築上の嬰柚
である。此虞は一入七六年の芝宋條約により一入九
一年即ち明治二十四年に開沌場となり、モに明治三
十一年の馬関燦約によつて我閥に租界を許し.耳管
居留地もあるが.殆んど名前許りで.在留邦人の故
も今年四月一日現在に於いて二十九人を算したに過
ぎないが、我が封外貿易上蒐嬰な土地で我が領串館
も澄かれ日清汽船の揚子江上流航路の終粘となつて
 ゐる。
                   き・つていこ
 叉交通部が移る長沙は湖南省の首府で洞庭湖の南
     しよ・ウニJT
に富り湘江に臨み埠滞積道に沿つた人口約三十珊杓の
和合である。政治上教育上のみならず渦工業の交通
の山中心である。此底ほ一九〇三年即ち明治三十六

 牢の日清條的に上¢其翌年開裸与れた開璃場で我が侍事飴が浸かれてあ
 ・り、在留邦人も今年四月」日現在で入十七人を数へられたが今は余部引
 揚けて了つてゐる。ハ十一月十七日故造).
江  兆  銘
何  應  欽
 今阿閥氏政府が南京引上げを
 決定する迄には政府部内に意見
 の野立があり、引上決定後もか
 かろ意見の封立の現はれとして
 大本営と北へに南京に残る蓼人と
   かんこ・)じゆ・1けいち1こ)さ
 逸半く漢口篭慶長沙方南に紡げ
 込んだ葬人とがはつきり慌別されたとの寄で、之は今後の時局の動きに
 束嬰な榊係を持つものとして牲臼を惹いてゐる。而して淋介石と北へに南
          わ・)ち与)れい か 牢1’ん、−てい′ノ与7 ち,てヽぐん ちへりつぶ
 京に儀−サ留る要人としては江兆銘及び何應欽、輿糠良、張 群.仲立火
 ◆り人か・一
 陣果夫等郷介市両兼の粕牌が報道されてゐる。
    国民乗の元宅、荘兆銘
        叶いえい
  江兆銘は字を括衛といひ将来省番拐鞍の人で蒋介石より三つ年長の今
 年五十二歳レ我が法政大挙出身であるが、日本留撃中に亡命巾の夙郷の
 先輩孫文に近づき小閉同盟禽に人つたのが革命運動に携つた最初であつ
                         きいつ・つ
 たの一九一一年即ち明治四十預年には常時の清胡の欺澄構政王の暗殺を
 企てて失敗し.補はれて死刑の覚常を受けたが、鮨親王に奇才を惜まれ
 稚J等を滅ぜられて危く命拾ひをしたのであつた。
 第一l革命後繹放されるや同年上海に閃かれた南北妹和合誘に活躍し、
      ミ・つせ◆ヽ一F
 北方の全樺唐松俵を抱き込んで蓬に束枇凱と挿文中握手させることに成
 功したのであつた。一九二二年第∴革命失敗後はフランスに汲つて融合
 蓼と文蓼を研究して屏蹄し.爾来麟東政府に在つて挿文の輔佐に笛つて
ゐたが、完三蒜由ち大正志H年托文の死去後は琴射撃炎
に閥民衆の中心となり翌年にほ閥民政府政治委員長及び宣停滞長となつ
                     んつh>
た。戯し一九二大年には開民耗内の左右納涼の軋轢が激化して蓬に雑介
石は丸轟東に封してクーデターを行ふに至り、彼は之に快ずして購東を
去つて外遊したが一九二七平には珂民政府の武純准川絞漢Hに於ける中
央全絶禽窮の決議により迎へられて辞閉し「印共柄来飽く迄合作すべし」
     ちんぎくし沖・J
といふ辞明を陳粍秀と功名で茫寂し武深閑氏政府の首脳者となつたが研
民裁と炎琵光とが分離径外遊した。かくて一九二九年即ち昭和四年冬秘
             ●り上・1はつけいぐん
かに野間し香沌にあつて怖西塔と張守柴軍を指導して反騰運動に従耕し
                                                               ’一.
たが一九三〇年秋北方に於ける闘錫山、彗蒜一波の反終演と聯終し掛
 ぎ・dは
山流を加へて北平雀閥民朱巾央披大禽耗姦襲し、新に開局政府を紬械
し鮭臥灘波の大同周組む虚したが、悶鵜の聯合堆が敗れて北新政噂か瓦
     ′ ●
壊したためい時太煉、大津等に捕たが一九二二年額碑粧に赴いたG
 次いで郷介市と胡碓民とのmに軋轢が起つてその紡梨庶東印民政府が
成立するに又び、其七席となつて郷介石との杭坤をつづけたが、同年末
蒋介石が閥民政府♯席と陸海嬢箪絶司令を辞職したので耐京政府との問
仁愛協が出来て汚京輝東の納閥民政府が合性するに及び、一九三二年初
めには行政院長に什ぜられ.範却の方ほ箔介石に委ねて自分は政滞に留
り漸謂溶托合作政府を紐繊したのであつたが盤嬰良の北文に於ける杭H
政策に反料して下野外遊し統。然し伺な蒜.河取取の待張堺艮が下野すろ
                             ・d一′ふ
と北亡羊耗紆翔して行政院鼻に複職し常に外交部長を簸ね次長に帝都京
 r・1妙・)亡人
の鰐有千か虚いて日軍印変調革に努力キ沸つたが、一九三五年末六中条
禽の閃禽日刺客の岱め狙撃されて冤傷を負ひ岱めに下野を飴俵なくされ
た−」とは今佃雅人の記憶に新なる桝であらう。そして彼ほ悔いた心と肉
蛇とを塾葬に立つて現泡共他で袈つた後今年山几輝均し今日に繋つた
のであるが以上の様な挺艇が語る如く彼は接文り祀郁子として胡油民仲
 恨等と鶉に孫文の暇牡となつて常に頚を輿にし.胡津民死後の現花では
 岡垣耗籠りの元老と臼されてゐる。その政治的和雁は数瑞を秘め政治的
 節操を云々された頚もあつたが、その心境漸く定まつたかの観がある。
 出前は岬民鼓の売渡と栴せられなが今ではその河影はなく賂介討との合
 作も眈に六年に及んでゐる0口木を理解することが洗いと言はれ人格も
 高潔で国民来内の兜人といほれてゐるとの事である0
    存介石の懐刀、何應欽
  何臆欽は費州省興轟僻の人で今年四十入歳字を敬之と言つてゐる。我
 が陛箪士官弊接第十一期歩兵科を卒業したが、我偶に滞粧中江兆銘と同
 じゃぅに申開同盟禽に加盟して節「第二柄次の革命に参加し、第二革
 命央敗後ほ一時我閉に亡命したが、後故郷の賓州に野つて識武挙党を創
 立し、更に山九二四年に蒋介市を校長とする新城箪官撃接が設立された
 時はその教粥に演ばれて数等頗を組織したが、之がそもそも彼が絡介石
 の懐刀となつた始りである。
                     ちんけいめい
 一九二五年には蒋介石曜下の雛一師長として柑椚明討代に従ひ、翌年
 には蒋介石の後を承けて閥民革命箪新一箪長となり、北伐には東路線指
 揮として稲建斬江を攻略しで手柄を立て、一九二八年に簿介石が瞞京に
 貯つて、開民革命雫絶司令に復職するに及び絶司令部参謀長となり、北
 伐完成後は開民政府訓枚総監から武漢行驚、※任となつて、帯介石の代議
 として武漢棚方一帯の軍樺か箪り、更に一九三〇年林間錫山、凝議絆、
 江兆銘等が北平に新政府を樹てて反郷軍を起した時には.部下の箪験を
 率ゐて津浦払方如に樽戦し.徐州行皆滋什として蒋軍を勝利に専いた・
 その功によつて何年草鞋政部長に任ぜられたが整年ほ汀粥省輔占に本破
 を覆いて湖南湖北江準弼建各省の共産鞋討伐に従耕し、一次いで納品絆靖
 公害鼓砕から一九三二年数蟹律の同民政府にほ軍政部長に就任したが、

 再び南H崩に赴い七共覆笹の討伐に箇つた。
  その後北千雄藩分留j警山犬となり、一九三近年即ち昭利十年にはわ・か
 朽津丈那駅咤鞋司令打との問に彼の「桁汗付應欽協定しを結んだことは
 人のよく知る所である。次いで昨年二面軍政部長となり、更に購牢打誉
 先任、軍鶏委良禽常務委員となり、昨年末の例の西雀串件に際しては討
 逆絶司令に任ぜられた∪
 彼ほ粥のよいどちらかと言へば才十肌て廃する参謀型の人であるが広
 簡Hな性格といはれ、その譜味に於て箕郷の鍼界に於てほ蒋介むに次ぐ
 人環を持つてをり箔介石からも可成り信蛸されてゐるとの事で、彼の丹
 木飼壌ほ今では結い昔となつたが、今でも器別に日本語を試すさうであ
 る。(十山月十入口放送)
張群、奥鼎昌
ヾJ 陳 兄 弟
  張群と呉鼎昌
 tょ与ぐん
 張群は四川省華陽件の人で字
を岳軍といひ今年由十九哉.早
         ちん’ ぴ
くから開拭共に入り陳共実の下
にあつて落介石とほ同位として
 共に働いたものである.
 節∴革命が失枚に終つてから日本に亡命し陸軍士官準校第十期騎兵科
 を卒業し財閥後は眺其実の下にあつて印材してゐたが、昧の死後ほ閉民
            しんし叫んけん
 簸を触れて政塀禽に燕近し禅帝鮭の席末耶政府に剤官長として飽いたり
                         こ、}・小
 郷及川川の現立に参興したりしてゐたが、その後北京に赴いて黄乳の下
 に穀じ、】九二四年即ち大正十二重の新二攻韓拡散に際してほ禎立坪の
 クーデターに参#したこともあつたが、一九二五年に褐玉群が京津を知
 立してからほ併発に赴き、その律ずつと縛介石に侍つてゐるのである0

 そして一九二六年雑介石北伐軍の絶司令部絶参謀となつたが.翌年蒋介
 石が下野して来糾した時も終に従つて来朝した事がある。
 それからはどしどし地位を輿へられて閥民政府箪串委員禽委員、上海
 兵エ搬長となりい閉場政府代表として来朝したりしたが、北伐完了後軍
政部鹿瀬次長から一九二九年にほ上海市長に什ぜられた却もある。
 一九三一年には張撃艮に封する〓付役として北平に赴き、翌年には常
 北政務委員禽常琳委員となり次いで閑民政府符節委員分北半分禽委員と
 なつたが、次で一九三≡年に何臆欽が北苧軍事分節委員長として北支探
 樽の地位につくや、彼は長江流域の大日付役として湖北省主席に据ゑら
 れ、やがて昨年婿介石が江兆銘の後を製つて行政院長を兼ねるに及び、
 その女周役として外交部長として巾央に辟つたのであつたが、今年三月
 には中央政統合議秘事長の任につき今日に至つた。
 何臆欽が軍事方帖に於ける蒋介石の片腕となつてゐるのに対して彼は
 文科に於ける浴の片腕となりそのプレーントラストの一人として活躍し
 てゐるのであつて、箪人出身であるにも不拘その政治的組睦が語つてゐ
 るやうに政治的手腕に長け、よく日本を知る人と言はれ日本語も非常に
連語汀櫓。ふ−」とである。         三せん
 典雅昌は張群上岡じく四川省準陽琳の出身であるが、字を連鉄と言ひ
 今年五十四歳り
 前節翰林院瞼討から瀬京高等商業嬰校を卒業し、犀閥後は前清時代大
 浦銀行艦督その他に歴仕し、一九一九年即ち大正八年には北方代表とし
 て南北和讃交渉に常り天津造幣賊長に舵ぜられたが、翌年巾竺弼沃(つまり
−九→入年に段祓瑞によつて召典された所謂新開禽に於ける多数決を云
 ひ、純然たる段祓璃の私耗とも雷ふべきものである)が没落するに及び
 職を辞して下貯した。
  血灯しノ九二定年即ち大正十四年には興業銀行総理に返り嘆き爾爽銀行

 界に滞挿してゐたが、上海に四銀行油備碓が創設せられろに及びその級
 理をも兼ね一九三一年末加北政耕委鎖骨が描大されるに際してほその
 委員となつた。一昨年には支那質草界日本祀穀糾の剛長として瀬棚した
 革もあり、昨年閥民政府賓莱部長に仕ぜられ今日に至つたもので大枠大
 公報の出資着である。

    陳果夫、昧立夫
  陳果夫と陳立夫ほ兄弟で紫夫は本年四十五歳、立夫は三十八歳、斬江
 省奥興将の人で民閥革命の先達で一九一六年に上海で暗殺された桃井兼
                      一モJT}
 の塊に嘗つてゐる。兄の果夫は字を祀藷と云ひ南新陵髄小準を卒i後、
 叔父の陳其葵に従つて妨一革命に活躍してゐたが滞介右と柑知つてから
 ほその腹心の部下として今日に雫つてゐる。
 一九二四年に舵光に賛哺軍官嬰校が設北された時にはその数官となり
 次いで中央然部組織部長代理その他を経て一九二八年には糾糾部長とな
 り、北伐完了後は開民政府委員となつて乾然院刷舵長に什ぜられ、一九
 三三年には江林省政府鼓席となり常に丁九三光年には第末期小火軌打委
 員及び中央政治委員曾委員となつた。
          才−一へ人
  弟の立夫は字を組漉と言ひアメリカのビツツ.ハー〆大樫を平米して蹄
 開後閑民革命軍絶司令部抑番長、閥民政府訓練総監部政治訓練所長符を
 経て一九三一年には中央耗部組細部長となり、次いで堺田次巾央執行委
 員から粗栂部を改組した中央敷部組織委n身の刷主任となり、繋山九三
 二年にはその主任となつたが、一九三三年には閑民政府委n北に全開組
 済禽誘委員に任ぜられ、一昨年中央光部組純委員脅が又もや糾址叩部と改
 桝されるに及んでその尭任となつたものである。
  蒋介石はもとは陳其葉栗である筏その甥である触兄前を冤川Lてゐる
 のであつて、常に中央東部の第嬰な地位を興へてゐるため睨兄豹の労力
 は年を逐つて特大して行き、人もよく知る0・0加周といふ一流を形山道つ
 て昧立失が首領となり、蒋介石の腹心として絶大な勢力を持つてゐるの
 である。へ十一月十九日放迭)

米国の二大通
信融エーピー、
ユ ー ピ  ー
 ニュースの内、外団の〓水郷
 女体へる所謂外稲の中にはエー
 ビー、ユービI、タス等外閑浪何
 故の召が触々現はれる.冊性状
 が何刑池将批が枇界の出水珊を
 細大漏らさず我々の耳に滞らす
 と紫に、叉日本開内の出来鞘を他界に速つてH木を正しく理解させるた
 め日夜箔曜してゐると同様に之等の外開祖何批も大々日岡民のため仙閥
 のニュースを集め叉自閉のニュースを他閥へ淡つてゐるのである.
 現在仰界各圃到る所に沌信批があつて報道の舵尖朔に立つて却策を行
 つてゐるのであるが、その内特に芳名なものは我が同盟を始めとしイギ
 リスのPイテル、アメリカのエービー、ユービー、フランスのアプアガ
 ドイツのデイーエヌビー、Jクリアのステフアエ、ソグイエトのタス等
 であらう.之等は何れも枇舜的な洗場と組繊とを持つて枇界の報道戦線
 に日夜を分たぬ柄動をつづけてゐる大通信統であるが、今回はこの内ア
 メリカのエーゼー、ユービーについて蛙べることにしよう.
 今日アメリカには十数個の多種多様の通付紙が海兆してゐるがその内
最も歪輿なものはエ,ビー(A・P)即ちアソシエトテツド●プレス∋岩
 ト∽SO払え乳勺;芸)とユービーへV・P)山即ちユーナイテツド・プレス・アソ
  シち−ションス(]コ】〜冒h{a勺−・悪Sゝ∽ひOqhミ計B玩し並にハースト宗川のイソ
 ターナショナル二−ユース・サーヴイス(l已の⊇已訂コ已巧空く∽m巧エ完)及
 ユニヴアーサル・サーゲイスへqn山詔r汁已m巧エcの)等であるが、その中で
 もエービーこそほアメリカ最大の耐してユービーと炎にアメリカを代表
 する大迫何故である。
 エーピーはアソシエーテツド・プレスの略桝で肘入四入年に創立され
 た紐育エービーの後身で、一入九三年頃競轡柏手であつたシカゴのウエ
 スターソエービーと合併し、次いで一九〇〇年即ち明治三十三年に純育
 州法に基いて設立されたもので千ニ‥首を超える新開址代表(朝刊夕刊日
 曜新糊等を含む)を以つて組織する驚利を目的としない山犬組合である。
 エービーを組織してゐる組合員は新聞批でほなく新聞の所有者、経営
♯嘗者であるが、兜隙間超としては新聞社即ち組合員と首つていいであ
 らう.之等の組合員に勤してエービーはニュースを供給するのであるが
 之に対して組合員は維持費(最近では年耕入首萬苑に上つてゐる)を分
掩してゐるのである。組AH員の数は年々増加の地勢を辿つてゐるが、l
昨年三月の調査ドよれば組合員数はチ三宮四十九に達してをり、其内千
 二宵七十九はアメリカ合衆岡本土内の組合員で.本土外の組合員は七十
となつてをり、共分布は北はアラスカから南ほアルゼンチン叉東はボル
 トリコから西はフイリツビンに迄達してゐる.
 共の政治的色彩に就て見ればエービーの組合員である各新聞批は各政
治上経済上特殊の見解を持つものが多いが、組合としてはエービーは都
斑に湘する報道蒐集をH的とする非常利的な組織で共根本方針は中立的
な態庇を支持しようとするものであるが、時にはエービー漑政府の沼を
待つといふ非拙があり、叉エーピーの海外特派員もその閥の政府に好意
を持つといふ批評を聞く−」とがある。之に料してエーピー側でほ『政府
は澱も多くエさ−スを作るものであるから政船を放としてはニュースを
 集める事は出水ない、エービーは政府を締誠するのではない、単に之に
 対して公平友好の態度をとるに過ぎない』と締併してゐるさうである0
 然らばエービーはどI」いふ組繊を以つて枇界の三丁ス鉄線に活躍し
 てゐるかと言へば、エーピーは内掬通信、外開通信の納方南に於いて非
 常な華凄を′.げ.殊にその内閲通信については全開ヰ士盲飴の組A昇仙が
 各々受持宮城のニュースを抱供する外、アメリカ合衆駒内の主な都市に
 は殆ど其支局の存在しない所はないといふ有様である。又外同通信に就
 ては一九〇∩年頃からイギリスのPイテルと先してゐたが、其後併瑞
 伊蕗等各岡の首都に支局を設けることに成功し、一九〇四年頃になつて
 Pイテルから均立したのであつて今日では牝界の各地に支局、通信員を
 澄いてゐる外我が国盟_イツのデイーエヌビト、フランスのアプアス、
 イクリγのステフアI「ソグイエトのクス共他の各鞠通信敵と通信交換
 の特約を結んでをり、極東に於ては東京共他の主宰地に支局又は通信員
 を配澄してゐる。
 共の通信網は総延長二十五萬哩に達し之を通じて準信受信される通信
 簿牧は一R平均二十五萬語に上つてをり、更に最近は全開に亘る電決定
 度設備も完成し共布用電話線は一萬哩に達してゐるとの革である。
          ○ − ○
 ユービーはユーナイテツド・プレス・アソシエーションズの略稲で、一
 九〇七年六月二十一日の紐育州法によつて設立された株式組織の通信放
 で、イー・〆ブリユー・スクリップスの努力により常時存在してゐた三池
 信批の合同によつて設立したものである。其紬驚は純然たる管制的で鼓
 として夕刊新開に泡信を供給してゐるが、一方ではユーナイテツド・ニ
 ュースといふ名で朝刊新聞にも池信を伏治してゐる。その新関址の牧は
 所」謂スクリップスハワード系研糊を中心とし千二じ故に上つてゐるeエ
 ービーの通信紀和炎物は一般の興味と報道の迅速といふ却に鼓カを韓い

 でゐるためこの粘については特徴かあるのであるが報温の正確といふ粘
         いつちゆ・)
 に於てはエーピーに一帯を輸するといはれてゐる。
 ユービー創立後五六年間は全くエーピーに郎倒されてゐたが一九山二
 年にPイ・ハワードが二十九哉の舶魁で敵兵となるに及び漸く活動を開
 始し.殊に仰界大戦に際してはハワード自身欧州に赴いて大活動をした
 椙めアメリカの識者に大歓迎を受けそれ以来ユービーの鞋憤は非常に晶
 まつたのである。
 井政治的色彩はユービーも亦エーピーと同様政治的に無色透明なこと
 を概梯してゐるが∵光来は営利冊批である馬め矯際に於ては時とtて或
 政北に好意を寄せたり.通信記和に色彩をつけることが無いでもないや
 うである。
 ユーピーは共免税と資質に於てエーピーに些の流色ほあるが、エービ
ーに次ぐ大池何放たる地位を持つてゐることは.アメリカの寅な都市に
 安局や油信員を持つてゐる許りでなく、枇界の主嬰都市に支局を祀き、
 又東鵡に於てもエーピーと同様準水非他の寅姿地に蕎通信員を配ほし
 てゐることや、総延長十四哉叫に及ぷ通信網を持つてゐることがよくそ
 の地位を物語つてゐる。ニ⊥月二十一日放法)
通商條約ミは
でんな條約か
 近く日本とイタリアの問に新
 しい通商燐約が結ばれようとし
 てゐるとか又先には英米柄例の
 問に通商條的締結の交渉が開か
れるといふニュースが停へられ
 てゐる.さてこの通商條約とは
どういふ條約であるか9・

    通商條約の景轟
 光づその意轟から述べれば、普繍は簡桝に璃拘條約と柄へられてゐる
 が、多くの場合に於ては通殉及航海に関する雄和の條約を・」=ふのであつ
 て、之ほ白川の臣民生産‖…及船舶に封する待遇に関して外川に作柁させ
 たり、又外閥の臣民生鮭‖伽船舶に封する待遇に関して作昭た糾へろ岬家
 問の約求を亨かのである。従つて通摘條約の杓裕ほ椚一人拭の待遇、彷
 二生産品に封する待遇、窮三船舶の待遇の三者に分けられるが、次に之
 等について説明すれば、
 第一、人民の待遇として普通に租定される勒は‖閥の入代の柏手閥に
於ける入団族行居住の自由とか殉莱役製法架に従耕する柳川、煎渠職範
を響む純利、動産及不動産の所有に関すろ純利、川訴へ裁判桝へ訴へ川
ること)の自由等の諸帯項でつまり之等り耶柄について作附を約叔しよ
 うといふものである。
 第二、生産品に野する待遇は夢するに課税の糾馳であつて.決枕の揺
冤は生産品の撃行に環大な影響を輿へるので、各川は何れも臼拘の蹄品
に射する辣税を軽くさせるやうに努力するのは尤ものことと・∵‥ほなけれ
ばならない。而して課税の中でも一番輸入nmに大きな影餅を輿へるのは
輸入関税で.各閥は出来る触り相手閥をして輸入関税を引下げさせたり
又は之を現在以上に引上げ適せないやうに努力をするのである。現花飲
料諸開聞の條約は何れを見て価多数の品目と税率を協定しじゐるが、之
は世界大喝後税率の協定といふことが欧州諸蜘の問に非常に流行したの
に因るものであつて、今倍盛んに行はれつつあるのである。湘枕率の協
定は現在では殆んど皆現耕的に條約偶の双方が夫々相手閥に封して椅ん
ど均等に行はれるのが常であるが、昔は鵜飼は強鞠の籍に触坤矢理に片
務的に輸入税率の協定を強ひられたものである。牽郷、ュヂプト、シヤ
 ム等は.極めて近年浪鳩片動的に秋山洲雄和蜘から関税率について拘束を受けて
 ゐたのであつて、我掬も明治三十三祥叫迄は欧米諸閃から我か輸人関税
 率を非常に低い率に拘災させられてゐたのである。何関税の外生産品に
 封する待遇に於て霜襲なものは輸人の焚止及制限に関する事柄で、之は
 常に通商條約の中に明かに親定されてゐる。
 約三、糖舶の待遇は人民と商品と析舶とは互に離すことの出来ない関
 係にある研から普通池商條約の中に之に関する親定が訓辞けられてゐるの
 であつて、この船舶の待遇には船舶〓馳に封する待遇つまり船舶の繋留
 貨物の積卸船舶に封する噸枕其他と、船舶の積んでゐる貨物及族客に封
 する待遇とに分けることが出来る。
    待遇の標準
 通商煉的ほ上越の如く人民生産品及粁舶の三者の待遇について規定す
 るものであるが、その待遇の標準つまり待遇の仕方には三通り、つまり
      ないこ、及んに‥.ぐ・)      きいけいこくたいぐ・)
 第一、内拘民待遇、第二、殺意閑待遇、第三、絶封待遇の三通りがある
 のである。
 弟一、内開局待遇は外閑の人民生産=…及船舶等に封して自閉の人民生
 産‖榊及船舶に輿へると同様の待遇を輿へるものである。
 節二.最穎閃待遇ほ悩りに甲閉が内閥に特別良い待遇を輿へてゐると
 したならば、この場合に於て乙閥に粒態閥待遇を輿へるといふことほ、
 乙鋼の人民生庄〓榊又は柵舶に対して粥閥の人民生産品又は椅舶に輿へて
 ゐると同様の待遇を輿へることを諾ふのであつて、換言すれば特別良い
 待池を受けてゐる閥と均等な待遇を受けることを指すのである。而して
 この棺漆閉待過を定めた條項を荊態川約款と普通構へてゐるのである。
                    たいγう
 付この駁滋弼待池に就てはいろいろ泣つた態様.つまり形がある。例へ
 ば、蛛件付と紙條件、布僻的と無償的、制限的と無制限、双動的と片鵜

 的、義務的相互主義に依る髭感痢待遇等の痩gな形をとつで現れるので
 ある。この滋藤岡約款は過去一代紐に亘つて通商條約の巾に…排出されで
 釆、通商條的の根幹をなして来たのであつて殊に桝界大赦前の通純白由
 の時代に於てはこの最凄周約款は非常に大きな敗北を讃挿したのであつ
 たが、世界大戦後に於てほ清閑ほ次第に通商自由の原則から触れて閉鎖
 主義をとるやうになり、殊に一九三一年つまり昭和六年の九月にイギリ
 スが金本位を離脱してからは各閥はその貿易政簾に極純な閥坑発轟をと
 るやうになつた結果、最恵岡約款ほ挑く解挿されるやうになり英数果は
 極めて諏錫となるに至つたのである。つまり各閥は剤常制度、馬格許可制
 皮r輸入許可制度等の手段をとつて擬態開約款に封する澤反行璃を放て
                                            ▲■●■フ
 してゐるのであるが、更に近年に於ける現象として特琵すべきものは求
 し†う
 償東鶉の竣生で、経済的に同家主轟をとる諸槻は川東るだけ仙珂の商品
 の自閉に入ることを阻止しようとするのであるが、同時に掛川い…の輸出
 も出来るだけ盛んならしめようとするのである。そこで他閉と條約を鈷
 ぷ場合に於て白岡の商品をいくらいくら買つて呉れれば柏手閑の商品の
 輸入をどの程噂迄許すといふやうな形式と内容とを採用するものが流出
 するに至つたのである。
 窮三、絶対待遇は別の閥の人民と均等の待遇であるとか、又は内閑人
 と均等の待遇であるとか言ふ風に待遇の標準を他閑の人民の受ける待遇
 衣りに標準を澄くのではなくて、畢に「何々の自由を有す」といふ風に
 定められてゐる待遇を言ふのである。
    通商條約の攣遷
 以上が通商條約の意義と内容で通商條的は購い意味では正式の泡硝柏
          やくぢやう     ぎ∧ていごりヽ・め
 約の外に協…単に同家間の約定を結んで桝謂暫定収槌も通渦條約と呼んで
 ゐるのであるが、位近二三十年の傾向としては通絢煉約は各嘩坤毎に柏

瓦的の約求とする方式をとつてゐるので、つまり国家は侶令大小娼錫の
琵はあつても封等であるとの執念に基いて泡商倹約を抽んでゐるのであ
 るが、明治三十年頃迄の條的中には随分不均等のものがあつたのであつ
 て現在でも支那ほ内地練税等に関して今何外開から條約を以つて封等で
ない耗務を許せられてゐる。何我閥に於てはl入五入年つまり管政五年
 に米、英.聯、俳、霹の有閑と結んだ所嬰政五簡岡焼約以来明治三十
 三年頃迄は全く不平等の條約を外開から押しっけれてゐたのであつたが
常時我が朝野を撃つての努力によつて遂に不平等條約の蹄絆から験する
 に至つたことはよく知られてゐる泡りである。(十一月二十二日准迭)
太 湖 及 び
其 の 肝 紀
 敵が南京防衛の第二陣地と持
     たいこ  こ・ついん
 んでゐた太湖かぢ江陰弊漉に至
 る防架線も我軍の果敢なる猛湛
 撃によつて迭に崩壊の已むなき
 に至り、敵の太湖作敬も迭に無
 馬に絶つて了つたと1−ユースほ
 伴へてゐる.
        々し・−Uしやく                      lたか
 太鰍ヘ蘇州無錫等の南にある江蘇斬江桝省に跨つた大きな湖である.
       し人たく
 せい事物には喪浮、五湖等の名で現はれてを畑、既に漢代の南牧に太湖
 といふ名前が見えてゐる位著名なものである。周囲ほ首三十飴盈五官飴
 粁で共市税は約二千二宵飴平方粁.流域地域は≡萬九千飴平方粁の面鋳
 を持ち両積から冨へば恰耗我が琵琶湖の三倍飴といふ大きな湖である。
 湖上には洞庭山を始め大小戟多の島かあるが住民は洞庭山以外には殆
 んどゐないといふ有様で、之等の住民は主に農家であるが大卒は上海に
 出て受に従事してゐるさうであるご】の外太湖には銀魚、増等の魚貝
 頑か#山控んでゐて相常多斬の産桝を夢げ.之に従耕する漁船も多数に
 上つて漁業が盛んである。また水運の便もあつて小舟は勿漁小型の汽船
 を油ずることが川来る.太湖は背から度々氾涯があつたことと断舵が出
 没するので有名な併で.最近では昭和六年の七月から八月にかけての洪
 水は被平面積約五官九十二舵飴畝に及び、馬めに約六宵据石の米と七十
 飴諮撤の棉を失つたと却である.水利施設の不備なことからひどい水雀
 を尖るかと思へば反封に革帯を輿へることもあつて、昭和九年の皐魅の
 際には一千四石鹸詰石の米と甘舐蝕糠の棉を失つたこともある.かやち
 に鞍水、草魅に悩まされることが多いため、背からこの太湖の利水エヰ
 といふことが非常に誼弊祓されて発たのであるが、南末政府も特に太湖
水利委員曾といふ委員禽を設けて太湖の流域の水運沌池等の水利施諾に
                           はん
力こぷを入れてゐる位である。何この附近に出漁する粥舵は俗に野と呼
ばれてゐる秘軒枯融である∵Jの附近の轡は管緻河南の郡と炎に大勢カ
 を持つてゐたが、澱近は替黙制度の揖充、交通の韓備等によつて其勢力
 は苛程ではなくなつたといほれる。
        ×  .×
 次に太湖の附近に就て述ペれば大潮附近には所々に小さな山があるが
 概して平坦で小さな湖が多く臥つ運河を始め大小の河川が蜘蛛の巣のや
う打紐つk妄り、背から怖漑が頗る教達し地味もよく肥え安郷に於ける
 開指の盤東地で蘇州無錫ほその尭な燕敬地として商工業が盛んである・
 開局政府の南京濯都以来この地域ほ政治経済乃至軍事的に亙宰性を紺び
るに至つてむるのであつて、粛に今回の革弊に際し赦はこの附近一冊に
 堅固な陣地を築き南京防衛の線としてゐたのであるが、畠笹の紳鵡糸敢
 な沌撃の前に脆くも崩れ去つて了つたのである.太湖附近の経済妨況ほ
                          おはむh叩
 附近一冊は農作物が璧富に産出される所であるが、農作物の大概は米で
其の年度材ほ三千萬乃至四千蒔石といほれてゐむ_米に次いでは棉花の
 戦増A盛んで年柄杓三田飴蒔確に適してをり牝外轟豆粕躾頓も篭が
り少くない.猿に鞋放棄は附紀各咽で盛んに行ほれ箕郷に於ける志綿菜の
珊″
、中心地をなしてゐる。この附近の窪物は大概は一旦無錫か蘇州に集り
そこで加工、精製されて山部が生産地で消費される外大部分は上海市場
に掲出されるのである。従つて無錫と蘇州とは附近の物資の亀故地とし
て京嬰な地払を占め、紡蹄工場、製紙工場をはじめ醸造場その他の工場
がある.ハ十一月二十lニ日放鼓)
世界通信界の
覇者、ロイテル
 爬界の報道戦線に活躍する各
国の洩信政の内アメリカのエー
 ビーとユービーに‥就ては既に速
 べたので今回ほイギリスのPイ
 テル通信故について述べること
 にしよう。英語の挙嘗でほルー
ターといはれ、又Pイター等とも呼ばれてゐるが、我閥ではPイテルと
官ひ供されてゐるやうであるからここでほPイテルと呼ぷことにする)
 Pイチル租借敵(出訂亡すユほ一入五−年にボウル・ユリウス・ド・Pイテ
ルに俵つて創立され】入六五年に株式粗輸となつたもの、フランス仰ア
グアスと並んで最も甘い腫史を持つてゐる洩信放で一入九九年Pイテル
の死去と共にその長男が菓を縫いだが、一九一五年に至りサー・Pデリ
ック・ジヨーソズが敵長となり、更に一九二五年には其の後株式中の五創
五分を、Pイテルと並んでイギリス一流の通信政でありイギリスの地方
新開通伊を供給してゐるプレス・アソシエーションに捉供し滋にこの雨
泡信批は資質上は一規のものとなり、今臼に至つてゐる。
 Pイテルが従来耽界泣付界に斬を唱へて来たことは飴りにもよく知ら
れてゐる所で土に改めて詑法する迄もない位であるが、黙らはPイテル
が血フかくの如き地位を占めるに至つたかと冨へば蓼するにPyドyが
 他界に於けるHユース集散の中碑であること、Fイチルがイ〆少スの一囲
 家的ニュース槻幽としてイギリス朝野から紹射的の支持を受けてゐるこ
 とに凶るものと言ふことが出来るのである。
.っまりイギリスの新聞界が拙速不正確な一−ユースよりも鞋貿で正確な
ニュースを忍んずる許りでなく、Pイテルの同家的一三−ス槻関として
 の立場をよく理解し之に非常な支持を輿へて米た外.一般イギリス朝野
 も亦新聞界と同じ楠紳の下に打イテルを支持し、威ほ無線波頴とか受信
 上の璃占的特梯をPイテルに輿へたり.或は靖骨に於て訴事の速報につ
 いて便宜を輿へる事により、打イテルに射して外閥沌信批の狙随を許さ
考い萌利な地位を輿へる等∵三−ス蒐集上忙直壊聞耗の便宜を輿へて
 ゐるのである。
 かやうにイギリスの閥家的ニュース槻湘としてイゼリろ朝野から絶大
な支持を受けてゐるPイテルが、その立場に盤みて今日イギサメの外交
政策を梵現する上に於て陰に陽に極めてま蓼な役割を演じてゐることは
 常然のことであるが、過去に於ても世界大戦中にPイチルがイギタスの
封牝界宜倖のために大童の活躍をしイギyスの封外政策に大きな貢献を
 したことは放りにもよく知られてゐる所である.
 Pイテルの現敵長サー・Pデリツク・ジヨーソズほ世界大戦中大正七年
 にイギリス政府情報部の鼓任となり、井野外宜倖に功労があつたためナ
 イトハ蹄士)に列せられたのである。
        ===・==・◆=…=…=
 Pイチルにほ別に政治的色彩ほなく、労働澱の左傾分子に反感せ持つ
 てゐる外は各政共に封して公平な態度をとつてゐるが、内外の政策特に
 外交政簾等に関してはタイムスと同じく大漁時の政府を支持するといふ
 立場をとり.閥際通信界に放けるその勢力と相保つてイギリス政府の外
                       ねl地
変政鮨途行上直鼓聞鼓に大きな讃厳をしてゐることほ普く諷められてゐ

ろ桝であつて、かやうにPイテルの通信が飴りにも洩くイギリス色を以
つて労られてゐることは之に扶するものをして深く注意を沸ふ必蓼があ
るといはれてゐる所以である9
 照らはPイテルはどういふ具合にして通信を滝めてゐるかと言へばイ
ギリスの関内ニュースはプレス・アソシエーショソからとつてゐるが、
イギリス帝開海外各似のニュースほ各地に散在するその支局で滝兆する
外、之等の地方の有力新聞政と繊定してニュースの捉供を受けてをり、
正に外閑のニュースは桝界の薮な土地に通信員を特泥又は契約して、P
イテルと捉兆してゐる各閥の大通信批例へば我が同盟を始めアメリカの
エービー、フランスのアグアス、ドイツのデイーエヌビー、イタリアの
ステフアニ、ソヴイエトのメス共他の泣信紅から入手する鞋富なニュー
スの中から演繹して打電させ又は和白の立場から打電させてゐるのであ
る。殊に近年は歌糾その他触界の生な土地の特流浪信貝網に大縄張を加
へ、アメリカの如きは一軒に石数十人の泡信員を位命する等その陣容の
接大強化に努めてゐる.
 従来Pイテルは外同通信放との問に所謂勢力鵜飼協定なるものをもつ
てゐて水年耽界通信界の王座を占めて楽たが、近年は時代の推移につれ
てこのPイテルの地位は漸く動推してゐると言はれる。元来Pイテルと
 フランスのアヴアスとはほほ時を同じうして讃達したものであるが、ア
プアスがその活動の範飼を専らフランスとラテン系の各閥に限つてゐた
のに反して、Pイテルは早くからイギリス帝開各領と其の他の他界各国
に武つて根を張り.地盤を確保して他界通信界に拘汐の地位を築いたた
め、共後に経朗勃興した各国の混信故に射して絶大な駈力を擬ひ、外図
迅何址に封してほ必ず自己にとり健越的な勢力範囲を設けさせた許りで
なく、外同通信批相互の契約にも必ずPイテルの仲介土祓鮮を経させる
とい」か政衆を固くとつて、惟界の通信界に最も有利な地位を占めて来た
 のであつた。然し外同通信事築の挙達と閥隙間に於ける政治的判事の鎗
祁してゐること、並にその聞に働く岡際的通信事業の数果に封して各閥
 の諷繊か大きくなつで来るにつれて、各国の通信批はPイテルの専制に
 射しで蛮に不濁を唱へるやヶになり.。イテルとの契約更新期が来る

毎にこの取柾めを欒更させるやうに努め、一九二五年にクスがPイテル
の拘潔から解放されることに成功して以来各撃フ通信批は川次いで桝政
                         はしい土l
契約を紬ぷに至り、過滋牛枇批の剛に式つてPイテルが班にし〔氷た
勢力沌闊の繊則ほ次第に崩塊して行き.外開通付批のmに舵接柑九の適
格を見るやうになつて来てゐるのである。〔十一月二十四日政道)
日濁防共協定
一週年な迎へて
 渋川日本と新興粍通が肪火の
 仁いはい
大旅を掲げて問い協定を結んで
から二十滋H中くも一週咋を迎
 へた。今は之に盟邦イタリアも
参加してH捌伊三粥の附い故事
を桝界に誇りつつ、歓舶を出く
 防炎塔陣強化の喜びは知新にベルリソにP−マに糾蚊されてゐるのであ
 る。この永遠に記憶すべきH杓防炎協定柑締約一年の記念Hを迎へて叫
 過年を迎へた日和防炎焔定を桝和すると北に、H札付三閥肌氷塊定の持
 つ京大な意義の使命等について述べて見たいと似ふ。
 抑々昨年十一月二十五日日均防共協定が坪指された所以は.和拘政府
 が萬盲不動の閥捜を撰述し閑家の安全を確付し、遊んで光雄水速の平和
 を維持する拓ぎなき閲兵の下に、内は閑地を汲墟しようとする熊政府立
 裁と共産主単に料して断乎として之を排撃し弼貼すろ方策を定めると兆
 に、外は東誠の平和を持軋も、駒邦支那の赤化を企てるコミソテルソの
勢力が東方に進出するのを陣過すべき確乎たる方針を堅くとつてゐたの
 に封して、一男拘逸はヴエ几サイユ柄和膀約の志郎の下にあり乍ら、几
 ゆる内外の困難を克服しっつ}路復興へと邁進して来たにも拘らず.そ
 の間に於て常にコミソテルソの陰謀hため畢閥一致を椚軋された胡蝶に
 錐み共産鼓轟の排撃を珠印としたナチスが一九二妄一年即ち昭和八年に政
 樺を捷得するや閥家主轟を晶場して撤廃的に炎蛮撒をk昭鮎しコ・、、ソテル
 ソの策動を閥外に髄捲したのであつたが、かくの如き日輪.柄L粥政府のh札
朋輩Llパンチ几ソ輩工作ほコミソテルソの赤化工作が間際的に
欄油叫大な転をh持つ苫るのに弛み屯1閥際的協力を以甥て之に酋るので、
なければ到席其の数糸を全からしめ、ることが困批であるこ′を諷めて立
に日掬南開ほ防共の輿同故線を創るに至つたのである。
 この防鶉協定はコ、、、ソテルソの兇暴槌る破壊工作に封する輿同防街を
目的とし、井手段として共産光り活動に野する情報を交換し之が防術の
措泣について協粥することが親定されてをり、ベルリソに設放されて居
る日均炎同委員禽は粛々として種々の方南に亘つて敗果む翠げてゐる。
然し防共協定の最も注目すべき鮨はその桁紳的数梨であつて、日和縮図
民山狩つ所の巣高な犠牲的精紳と盛んな国家執念こそはこの日和柄岡山
結合をして単に事務的な防共工作以上に強力な閑民的協力に迄劫揚させ
たのであつて、南開ほ凡ゆわ内外の難局を克服しっつ世界に於ける反コ
、ミソテルンの」戦士として防炎・陣の第一線に立つたのである。
 而してこの日掬防共協定成立以後に於ては岡瞭情勢は非常な波瀾と欒
化を生じ、東誠に於てほ支那姦の勃準を見るに至り、而もそれがコ、、,
 ソテルソの指導に基く断の抗日の激化によつて惹起されたものであり国
民政府がコミソテルソの魔手に操られてその勢力の下に動かされつつあ
る串甥に鍍みれば、防共の重黎性は今更強調を要しない程であるが、帝
同政府は今岡の事欒に先立りて昨年来開民政府に封して日支粥図の赤化
及共同防衛を堤讃したのであつたが、箔介石以下抗日に狂つた開民政府
指堵者の容れる断とならず、遽に今回の串牽の勃讃を見るに至つたので
ある。若し昔時開民政府がB支の防共に應じてゐたならば今日の霧太番
態は戎ほ濃けることが出来たのではなかつたかと雷はれてゐる。寄態か
くの如くなつて漸く今日に於て日粍防炎協定の尿意轟が理解され共重大
な位命は認識されるに至つたのである。
 されば也に一週年を迎へるに首つて日和防共協定に封する信焔と感謝
 とは全H本む翠げての感激となつて爆竣し正に白熱化しっつあるのであ
る。更に去る六日イタリアが新たにこの払鶉協定に加盟して滋にH拭伊
三周肪共協定の成立を見るに至り、防炎協定の威力は更に拭大強化され
欺地む斑く肪北の噂仰が出現するに至つたことは他界人額の平和の維持
 と文化の進捗のために誠に慶賀すべきことといはなければならない。
 節して日掛伊三岡防共協定の出硯ほ京大な影守を世界に輿へだもので
為って徒つてその三周梯定が特定靖々目標としたものでは解く.又郷仙Z
一的領土的な内容を持つものではなくして、世界の平和と株序の鎗抒を自・
的としたものであることが明かであるにも拘らず、欧米の一部には邪推
 した批評も現はれ、或はソゲイエト政府はイタリア政府に非友誼的であ
るとの抗埼を捉出したとも鮮へられてゐるが、勿論かやうな批評や抗議
 は成立すべき筋合のものでほない.
 叉日和伊三園の立場に射して殉趨とイタリアは〆ニューヴ問磁で、日
本と均趨、日本とイタリアは夫々経済関係で封立しその調整か困難な脱
 係にあるとして、日和伊三開の結合に本質的の錫鮎があるやうに考へ批
評した粥諭も見受けるのであるが、之は欧米流の唯物的末柵的な和解で
 日袖伊三園防共協定はかやうな観察を許さない精紳的の基礎に立ち、三
 岡同民の友情を具睦化した鮎に娼さがあるのである。同家鼓戟の取念に
於て、反共産東亜の思想に於て鵜通なものを持ちJ而も単なる政策を超
趨した所の8掲伊二山面閥民の拷紳的な結合が如何に強力なものであるか
 は粁来に於て事焚か之を詑明するであらう。
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 今回の三同協定が和也を恐れるフランス、和也及びイタリアに封じて
徹底的な態度をとることを藤措してゐるイギリス、或は日本ドイツに正
 大な関心を持つソゲイエト等に勤して非常な衝撃を輿へた串は之等各国
 に於ける反響から想像する事が出来るのであるか、その反響の大きいと
 冨ふことは取りも直さず日掲伊三岡協定の威力の大きいことを蒸啓する
 もので、それだけにコミソテルソに封して肪共の数架を竣揮†るもので
 あると音Hふ革が出来るのである。
 かうした強力な日拘伊三⊥閥の防共陣が軟絶を式き、東京・P−マ・ベル
 リンの三大都市を結んセ結成されたことは基に近代外交史を飽る一大停
 戦で三大都市をつなぐ太い一線こそ世界を赤化の魔手から防ぎ人郊の遊
 歩と桝界の平和とを維らうとする反北へ産毛凝の肘式敬の大陣営であつて、
今や口持伊三周は強固な構紳的結合と眼力な柑イ椚八川とを以つて、枇a
 文明に射するコミソテルソの兇暴験瞼な破壊工作を未然に防ぎ中和と秩
 序とを緋汚する馬めの聖教に何つて山挿しようとするのである。
                      ハ十−月二十滋日放送)