上 海 か ら 南 京 へ

 上海南京間は京滬鉄道の
粁程で三百十一粁余、平常
ならば八時間位の旅程であ
るが、上海北停車場を出て
第一の駅は無電台のあるの
で有名な真茹である。此の真茹無電台は過ぐる満洲事変の時も
さうであつたが、今度も御多分に洩れず荒唐無稽の逆宣伝の放
送を盛んにしてゐたが、その上この附近一帯が支那軍の作戦基
地になつてゐたため我が海軍機がさきに之を爆破して了つたこ
とは周知の通りである。真茹を出外れると、いよ/\江蘇の平
野で、到る所水があり又クリークを形づくつてゐて、遠くから
見ると畑の中を白帆が走つてゐるといつたやうな此土地独特の
珍しい風景が見られるのであるが、敵は今やこゝに堅固な陣地
をつくつてゐるのである。真茹から更に西に進むと鉄道沿線の
北に我が空軍のため爆撃された南翔飛行場又その西北に嘉定が
ある。嘉定は交通の要衝でこゝを中心として道路は四通発達し、
東は羅店鎮、西は外岡鎮、北は婁塘鎮又南は南翔に至る大道があ
り、上海の西北側地区に於ける戦略、戦術上の価値の極めて大き
い所で、支那の城としては珍しい図形の城廓を以つて囲まれて
ゐる人口五、六千の町である。此嘉定を右手に見つゝ西に進めば
崑山米で有名な崑山といふ小さな町を過ぎやがて蘇州に着く。

    水の都蘇州

 蘇州は古名を姑蘇とも平江とも言ひ太湖の東北岸に近く、大
運河と蘇州河の合流点に臨み壮大な城廓をめぐらした都市であ
るが、一方橋の多いのでも有名な水の都で姑蘇三千六百橋とい
ふ言葉さへある位である。人口は五十万と称せられ昔は江蘇の
首都であつた事もあり、越王勾践と呉王夫差とがこの地で輸贏
を争つたことは歴史上有名なことである。かやうに昔は重要な
土地で商業も仲々繁昌した所であるが、近年上海の為めに商業
を奪はれたり又南京が首都として栄えて来るに及び、昔の面目
を失つてはゐるが附近商業の中心地としては依然として重要性
を持つてゐる。こゝは下関条約によつて特に我国のため開市さ
れた所で我が領事館が置かれ我国の専管居留地もあつて、今回
の事変前迄は約八十人の居留民がゐたとの事である。こゝの主
な物産としては生糸絹織物を主としその他銀、銅、象牙等の細
工物や、漆器類の家内工業的生産が盛んで錦欄を名産とするが
その他米雑穀等も産出される。蘇州は昔は仲々重要で又賑やか
な土地であつた丈に名所や旧蹟の数多い土地であるが、北寺
の塔、道教の寺院である玄妙観、長さ約一キロの宝帝橋、霊
巌山、虎邱山と数へられる中でも特に昔からよく人に知られて
ゐるのは『月落鳥鳴霜満天』の古詩で有名な寒山寺である。寒
山寺は姑蘇城外を西に去る約五キロの地楓橋にあり、寺は梁代
の開基にかゝるものであるが、その後兵火に焼かれたりして現
在の堂宇は近頃再建されたものである。尚蘇州についてはこゝ
から滬杭甬線の嘉興迄蘇嘉鉄道といふ鉄道が通じてゐることは
注目さるべきことである。此の蘇嘉鉄道は延長僅かに七十五粁
の小鉄道に過ぎないが、前回の上海事変の経験によつて支那側
が完成を急ぎ、一昨年春起工昨年四月竣工、七月十五日から正
式に営業を開始したものである。

   無錫、江陰、鎮江

 蘇州から鉄道は太潮の近くを殆んど一直線に鎮江に通じてゐ
る大運河の北へ沿つて進むが、この辺り見渡す限り一面の水田
である。此の沿線の無錫は大運河の要津(ようしん)にあり人口は約十万と
言はれる都会であるが、此所は支那有数の工業地で就中製糸、
紡績、製粉等の大工場も少くなく近代的設備もよく整つた市街
である。無錫から西北の所、揚子江岸に我空軍によつて爆撃さ
れた江陰がある。
 無錫から京滬沿線の常州、丹陽を経て鎮江に達するが、鎮江
は一八六一年に開かれた開港場で京滬鉄道に沿ふと共に、揚子
江にも臨んでゐて水運陸運の便に恵まれてゐるため、貿易が盛
んで貿易上では上海、漢口、南京に次ぐ港である。人口は十五
万といはれ小麦、その他雑穀の集散地であり、製品としては綿
布、生糸、漆器等があり又名勝古跡も少くない土地であるが、
中でも金山寺、焦山寺等がよく知られてゐる.鎮江から揚子江
に沿ひ西に進むこと五十五粁許りで、いよ/\南京に着くので
ある。

 (十月二十四日放送)