起ち上る内蒙古

 内蒙古軍の最高首脳者徳
わつ   ひ†くれいベブ
王は十九日首筋廟から飛行



 今回日本軍の繰凄準撃により蒙古民族は多年に亘る支那軍閥の鹿追
 から解放され、内蕪音軍は失地回復の目的を毒することが出来た
と感謝の挨拶を述べたと二十日の三−スで倖へられた・今ヤ
過去教官年間に亙り歴迫された支那軍閥の手から解放されて、
復興の意気に燃える蒙古民族とは如何なる民族か又その盟主と
仰がれる徳王とは如何なる人か詮明して見よう.
                               し■ヽさよ,
 俗に蒙古と音つてゐるのは東は浦洲団に境を壊し、西は新担
省と境し、北はシべり7.南は竜郷本部で囲まれる虜大な地域
                           ▲TP
を指すのであつて、その面積は三宮五十苫平方粁に及ぶ非常に
席い土地である.蒙古は一帯に高壷で、海枚千米以上の高さを
持ち卜更にその上に輿安嶺、陰山・サヤン、アルタイ等の山脈
         こ、つ々んれい いん一▼ん

がその周囲を竜つてゐるが、此の蒙古高原の中央部をほゞ東西
に竜つてゐるのが有名なゴビの汐漠で、その面積は百克十満干
方粁を超えるといはれてゐる。従つて蒙古の約年分は此のゴビ
の沙漠によつて占められてわるわけであるが、此の汐漠の北を
」t′▼      一▼●■
外蒙古、南を内蒙古と構してゐる.而して内蒙古は常盤の長城
     ち†払 l †ゐえん 払いか
から北にある察吟南、綬遽、寧夏の三省に分れてゐて、兼は浦
     かんL叶く
洲図、西は甘新省、北は外蒙古、南は支部本部を以つて境せら
れる朗の地域でその面積は清洲固より一寸小さい位である.
             しh・ん、−ち bい          ヽ
之等の地域内の察略画省に錫林郭勒盟、察恰爾盟、線速省に伊
くじよラめい す lん抄†つさめい    もちLや人はうしつど ’
克昭盟、鳥蘭察布盟、寧夏省化阿稚著名碩特雄琴の盟や狭があ
る.放とは行政囁劃の単位で、一定の地域と住民とを持ち、此
の雄を敏雄合せたものを盟と呼ぶ.
 人口ははつきりした数字は判らないが、全豪古の人口は大約
盲人十常人から三宮常人内外と音はれ、その内内蒙古の人口は
三十苫から首萬位と計算されてとり、その大部分は簸盲人で故
く 7)

            」レん
の銭めに亡ばされてからは滑代、更に現固民政府と多年に五つ
て鮎迫されつゞけて爽たのであつたが、教官年に宜る鮎迫から
挿放されて今や敷石民族は往時の祭典を偲び、復興の意気に燃
えてゐるのであつて、その牛耳をとるものが箕に徳王であ少、
                    ’ しヽ
内敷石軍を率ゐて之を助けてゐるのが李守倖将軍である.
徳王は紛糾鮮軌跡、紅鮎軒の王族の出で今年三十七歳の著さ
乍ら現代の成育思汗と蒙古民族から官はれ、蒙古民族の釘一、
復興を金田しっ1ある内蒙古の中心人物で、特に内蒙青年の問
に非常な信望を捷ち得てゐる.幼時から北半天津に留畢し、世
界の大勢に通慣した内豪切つての新知識、若き時代の英雄であ
る.徳王を盟主とする蒙古軍政府にあつて穂王を助ける李守信
   しけつか
将軍も熱河の人蝕粋の蒙古人で今年桝十五硫穂王が政治外交上
の手腕に雰で1ゐるのに封して李守侶将軍は、軍事に牟越した
手腕を示し全軍の信望を一身に集めてゐる.大同元年即ち昭和
                 ヽ∨く性叩′ヽ
七年八月三千名の手兵を率ゐて朔北を平定したが、満洲図建囲
後は察東特別自治直の行政長官となつて治安の鰊持に努め、善
政を補いて民心を集めた.人となりは極めて渦厚紙貨であるが
                            てん
而も薮放、軍律を守ることは極めて固い人であるが、その反面惜
たん
紋で部下をよく可愛がる名め、部下の心服を持てゐる.ハ十月ニ】
「指順信.一郎‥…g謂詣ほ
蒙古を以つて固まれる地域で、面積は約三十南平方粁、清洲団
上り一寸大きい位であるが、現在はこ1に蒙古人民共和歯が放
てられてゐる.
     じんr† かん       秒ん
一代の英雄成育思汗に上つて蒙古民族は元の大帝国を歴史に
            ▲ん
誇つたのであつたが、元か明に亡ぽされてからは次第に衰へ、
        しん           ぐわいJん          れい●く
明に代つて清の時代にはその外藩となつて竜郷に隷属するとい
ったさぴれ方であつたが、一九一一年即ち明治四十四年の国民
         ▲ら れい
革命によつて清朝の威令が褒へたのに乗じて常時の帝政Pシア
から援助を受けて濁立を宣言したのであつた。その翌年ロシア
は外蒙古との問に路蒙協約を締結し、外蒙古忙掛けるロシアの
優越槽を確保したが、堪り衆ねた支那政府は一九〓ニ年即ち大
正二年に蕗支條約を結んで外蒙古が支部む領土であることをロ
シアをして認めさせ、鼓那は外蒙古の一撃止を取渦させる代りに
共自治を認めたので、之を一九一茄年即ち大正四年六月七日に
結ばれたロシア、支那、蒙古三図協定によつて確認したのであ
る.虞がかやうな協定も結局は巫女に等しくPシアは依然とし
                       しヤくくわん
て外蒙古に封する進出の手を絞めす外敷石との間に借款矢掛
′ $)
を椅ぶ等して昔々とその竣定計寒を途行して行つたのである.
その後叫九一七年即ち大正六年ロシアにソヴイエト革命が起つ
たが、ソヴイエト政権も帝政ロシアと同棲外蒙古への進出を企
ていよく本格的の外蒙古赤化連動に乗り出したのである.普
 l−や与●−
時恰度反革命流のサンゲルン将軍が部下を率ゐて外蒙古に入つ
たので、ソヴイエト政樺は之が討伐を名として赤軍を外蒙古に
                   てつべい
進め、反革命軍を掃滅した後も外蒙古から撤兵しょうとはせす
                    く・つろん
依然としてウラン.ハートル(帥ち以前の庫倫である)に兵を止
めて途に蒙古人民阜命政府を治り、一九二一年即ち大正十年に
之とソ蒙條約を結んでからはいよいよ外蒙古赤化に努め、大正
                 】W けん
十三年に常時外蒙古の元首であつた清俳の死去後はその後概者
を櫨かせす同年六月共和制を布かせ、同年十山月にはソゲイエ
ト悪法そのま1の新憲法を採用させたのである.かやうな経路
 たぎ
を辿つて現在の蒙古人民共和国は生れたのであるが、爾来ソヴ
イエトは政治、軍事、経済文化その他凡ゆる部門に放て外蒙古の
支配に乗出して釆之をソゲイエトの一聯邦化せしめることに努
めて衆たが、遽に昨年三月十二日に結ばれたソ蒙相互援助條約
によつて今や外蒙古は完全にソゲイエトの屠団の如きものにな
って了つたのである。ソゲイエトは外蒙古の−切の方面に顧問
を入れて指導に常つてをり、ソヴイエトの外蒙駐在代表が外蒙
古の事箕上の最大楢力者として威勢を輝つて居るのであつて、
外蒙古の総理大臣その他も此のソヴイエト代表の意思に上つて
行動してゐると倖へられてゐる.
 次に外蒙古即ち蒙古人民共和河の現状を述ペれば面疎は欧班
の如く約三十満干方粁で満洲固より一寸大きい位であるが、地
勢は一帯に海抜二千栄位の高原でその西北地方は峻険な山岳地
帯を形造つてゐるが、東南に進むに従つて次第に低くなつてゐ
る.気候は大陸的で塞暑の墓が甚だしく雨量が少いため夏多を
通じて乾燥してゐる.人口は約九十苫といはれるがその大部分
は蒙古人である.之等蒙古人の生発は牧畜と狩猟で主な物産は
畜産と狩猟品であるが北部、西部地方では小規漢乍ら鳥兼も行
はれ七ゐる.
 鋳物資瀕としてはまだ調査不十分な事とソゲイエトの外崇鎗
同政党に上つてはつきりした事は判らないが、昔から有名な金
の外石衆銀鉛石墨等が産出されてゐるやうである.又エ菜は混
年造は見るべきものは無かつたが、昭和九年頃からソゲイエト
           ▼ルコー・ル
の技術的援助に上つて酒精工業、横械工業、皮革エ栄、製紙エ
糞等が頚良してゐると倖へられてゐる.交通としては一九二掬
年のソ蒙條約によつて既に餓道建設計毒が出来、著エされたと
の詮もあるが、現在判つてゐる所では山本の横道もない様で、
陸路の交通は、馬革、自動革、賂舵等に上つてゐるが、外簸政
府は自動革網の建設に努力しつ1あると侍へられる.
 外蒙古の首府はウランバートルで、此虚は昔は座倫と呼ばれ
てゐたが、蒙古人民共和国となつてからウラン.ハートルと改め
られたもので、此虚には蒙古人民共和同政府が蟹かれ外安蘇軍
の本竣であ少、外蒙古の政治軍事経済の中心である許りでなく
(●)

所謂赤色勢力の前進根城地とも首ふべき、極東均際政治上の一
つの克嬰た地斯として注目すべき桝である.へ十月廿−日放蓮)

(10)

く11)


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