全滅した
支 那 海 軍


 支那事変発生以来支那海
軍は戦が海軍の威力に依り
完全に逼塞し鳴を鎮めてゐ
たが、自らの微力を弁へず
蠢動して我方に敵対行為を
敢てした為め、我が海軍の砲撃並に海軍航空隊の爆撃によつて
支那海軍は今や完膚なき迄に撃滅された。十日海軍省公表によ
れば沈没、擱座又は大破したもの巡洋艦七隻、砲艦八隻を始め
として合計十八隻に上り、支那海軍の主力は遂に全滅するに至
つた。支那海軍は巡洋艦九隻、砲撃八十余隻、駆逐艦四隻、水
雷艇二十八隻その他合計百数隻、約七万噸を擁してゐたが敵が
海軍の砲撃及び爆撃によつてその中心勢力である九隻の巡洋艦
の内七隻を始め合計十八隻を失ひ、こゝに支那海軍の主力は全
滅して了つたのである。次に我海軍の猛撃によつて沈没、大破、
又は擱座した支那軍艦に就いて簡単に説明して見よう。
 巡洋撼は九隻、二万五千余噸を擁してゐたが、その内七隻即
ち応瑞、通済、海容、海籌、寧海、平海、肇和の七隻、約一万再
八千噸を失ひ、残つてゐるのは海折、海深の二隻約七千余噸に
過ぎないから、先づ全滅といつていゝのである。去る九月二十
三日我が海軍航空隊のため江陰で爆撃され擱座した寧海は支那
海軍の旗艦として最新式を誇つたもので、排水量二千四百噸長
さ百十米幅十一米余、備砲十四糎六門、高角砲六門、発射管四
門、水上機二台搭載し、速力は二十二節(のつと)、乗員三百四十名で我
国の播磨造船所で起工され昭和六年十月進水、翌年竣工したも
ので、昭和九年六月東郷元帥国葬の際には支那海軍の代表を乗
せ儀礼艦として来訪したことがある。九月二十二日江陰で爆撃
され火災を起した平海は寧海と同型の軍艦で昭和七年上海の江
南造船所で進水し、途中工事中止の憂目に会つたりしたが昨年
末漸く竣工した許りのもので、この二隻は小型の軽巡洋艦では
あるが支那海軍唯一の最新鋭艦として第一艦隊に属し支那が誇
りとしてゐたものである。

  又九月二十日江陰で爆撃損傷した海籌と九月二十九日同じく江陰
 で爆撃大破した海容は排水量二千九百五十トンの同型の軍艦で、長
 さ百米幅十二米余主砲は十五糎三門速力は現在十二節といはれ乗員
 三百三十余名、両艦共に一八九八年即ち明治三十一年にドイツで竣
 成したもので、現在では装飾的な存在にしか過ぎず実際に軍艦とし
 ての価値は無いにも等しいものである。九月十四日以来数回の砲撃
 によつて虎門で大破した肇和は二千六百トン長さ百七米幅十二米十
 五・二糎二門、速力二十節、三百三十余名の乗員を来せ、明治四十五
 年イギリスのアームストロング会社で作られた又九月二十ニ、三両
 日の我が爆撃によつて大破した応瑞は二千七百五十トン長さ百五米
 幅十二米余り難解は肇和と同じで明治四十五年イギリスのヴィツカ
 ース会社によつて建造された。

 尚残つてゐる二隻の巡洋艦の中海折は排水量四千三百噸支那
海軍中最大のもので又二十糎砲を持つ唯一の軍艦であるが、明
治三十一年にイギリスのアームストロング会社で建造以来既に
艦齢も四十年に達する老朽艦である。又海は海容海籌と全く
同型で此の二艦と共にドイツで造られたものであるが之亦旧式
軍艦である。次に沈没、大破、擱座した八隻の砲艦中では九月
二十五日に爆撃されて火災を起し、擱座した逸仙が一千六百五
十噸、備砲十五糎砲一門、速力二十節、昭和九年に江南造船所
で進水した支那最大の砲艦であり。又八月中頃江陰で自沈した
らしい白強が千噸級であるのを除けばあとは何れも千噸、五百
噸にも満たない小軍艦である.(十月十一日放送)