上海職凝の
抗日輝領蓬
 上海戦線の支那勒は四十
五荷乃至五十満といはれ、
ちん七い  こ モう礼ん ちやうはつけい り心う
陳誠、胡宗南、張教豊、劉
けんちよ
建緒などが指揮してゐると
         かんしゆく†ゐ
侍へられ叉さきには甘鰍按
柑宅任免紛良が、眩臥軒に代つて、上海地隈に放ける抗日戦
の滋高指揮を命ぜられたといはれるが以下之等上海戦線の抗日
牌餅について述べて見ることにする。
           あき札
 兜づ陳誠であるが彼字を修断と首ひ斬江生れで、簿介石と同
郷人であつて今年四十二歳、さき頃皇軍によつて占揺された保
              か!ほ
先の軍官畢校を卒業後庚東の米坤軍官拳校教官から、更に曹
長、組長等を勤め国民革命軍の、第一師副師長、次いで第一師
長、粥十川師長を経て第十八軍長に任ぜられたゃそして一九三
一年つまり、昭和六年以来江西で共産軍の討伐に碓つてゐた
                   いく▲壱
が、紋の向ふ桝敵なしと迄いはれた軍上手で、連戦連勝共産軍
                        ぷしやうかうえい
から非常に恐れられたものである。昭和十年には武昌行営主任
 に任ぜられ又昨年は山何に侵入した共産軍討伐のため中央軍を
率ゐて山西地方に乗り込んだが、昨年小水軍政部次長を命ぜられ
 た。今回の串攣に際しても始めは北立方而の支那軍の指坪に常
 つてゐたが今度いょいよ上海戦線に来り川して衆たわけであ
る。賭介石の秘絨つ兄ともいふべく頭のいい才子肌の人間で指
揮官としては一流に廃する。彼は又南京政府外交部の亜州司長
 かうモうぷ
高宗武とは親戚紺係に常つてゐるとの事である。
 胡宗南は陳誠と同じく斬江の生れで今年四十三歳、字を帝山
                           りゆ−つbレ
と呼び。米捕新宮畢校の第一期卒発生で早くから劉時に従ひ、
 →九三〇年裾玉群と、閣錫山とが聯合して反蒋軍をあげた時に
は第一師副師長として各地に挿戦し、同年劉時の後を承けて第
               せ士ゆうさん
一師長に昇進し、その懲年、石友三の反乱に首つては平漠線方
                    ほ こう
而に川勤して、之を平定し、その後捕口(南京の封岸)に駐屯
       ちん†−
し、その傍ら安徽省内の共産軍討伐に常り、功労む奉げたこと
もある。落介石の直系で陳誠と同じく、蒲の秘祓つ見であ少、
又陳誠と並んで支郷軍界少壮派の最も有力な賂領で、青年軍人
間の人気を博してゐる男である。彼の率ゐてゐる第一師は中央
軍の中で一番装備が康秀で、訓練も行き届いてゐて、滞介石直
系の最も精鋭といはれ叉藩介石の最も信頼してゐる軍隊であ
る。従つて兵教も外の師固よりは速かに多く、この第一師は五
碑位の兵力を持ち、その資力も北支の雑騨などにくらべればそ
 の三、四倍位の蜜力を持つといはれてゐる。今やこの第一師は
畠軍に最後の抵抗をなすべく抑長胡宗糾に率ゐられて、上梅戦

               †】 ェく
 絢の枢軸ともいふべき岡北方耐に出動して雑たと倖へられてゐ
 るのであるO
                        Gんh
  胡宗耐は叉蒋介石の弼裁梯確立を目指した鞋衣祀内の有力舶
 恍である弁哺同勢合の有力なメンバーであるが彼は眺鞭が才子
 肌の人間であるのに封して武人肌の人間である。
             ◇
  粥改まは字を向鞄といひ、流氷省の人で、今年川十三歳、武
           り 書いしん
 呂雄官耗校の出身で、挙済探に廃して累進し、一九二八年碓介
 石の北伐に従つて紳浦払方面に椚勤し、北伐庖丁後小火軍の祈
            りそうじん はくすう竜  かんしい
 四帥長となつたが、後、李采仁、白崇祓琴の鹿西派と結んで、
 反弥勒つまり(滞介石に反流する戟ひ)を起し、更に一九三〇
 年つまり昭和五年に去燻Rと礪玉押とが聯合して反蒋戦を起し
 た時にも之に合流したが大敗して麟也に退き、その黎年賦水団
 民政府が出水た時には節川央巨E、鮮四軍長となつて、庶来の
 准柵を撞つたこともあり、その後崗京と靡東との妥協成立後、
                        モ サワ
 秋米批娯の法に上り、昭和十年射的して昨年蘇新(江蘇、斬江)
 汝隙主任を命ぜられた。用兵作戦に長じて彼の率ゐる軍隊は、
 北伐時代、鍬罫と糾せられたとの斬である。二度進も反碍戦に
 参加した程で気骨のある男として知られて居り軍の指梯官とし
 ても和音の能力を持つてゐるやうである。陳誠胡宗鏑の二者の
 ゃづな郷介石の子飼ひの人湖とはちがひ、而も二度も救いた人
 汲ニして藩介石としては油断のならない人似であるが、抗日に
 朗る彼も今や昔の怨みを忘れて上海戟線忙現はれて鼻軍に方向
はうとしてゐるのである0
            けいこ
 叉、粥自中に代つて京混線司令に任ぜられたと侍へられてゐ
る朱純良は、縮趨省生れの今年四十入歳、字を一席と桝してゐ
るが、彼は我が陸軍士官単校節十糊砲兵科の卒菜で、】九二六
年郷介石の北伐に従ひ、囲民革命軍参謀長を勤めたじ藩介石系
の軍人で軍事費貝食費艮、軍政鹿長、師長等を経て、一九三一
年共産軍討伐に際.しては第三軍謝絶指坪として前段し、最妃迄
廿鮒絃特集任であつた。
 最後に劉填緒は湖南省の人今年四十八歳で字を挟光と榊し、
 か けん
何鍵の系統の人剛で第二十入軍長である。保先の軍官拳銃を卒
業後何鍵の下にあつて累進し、】九二七年に第十九師長忙又】
九こごこ年に規凄の第二十入師長に任ぜられた。ハ十月二日放盈)
北支上海商
戦線・の気候
 北交戦線方面の泉修は何
れも大陸性の気候で森暑の
轟が甚しく、丁度今頃は日
中と夜中とでは非常に況庇
の葺があるが北支各方面の
戦線の中では学務線方南の地域が食も北にあるだけに壊さは一
 たぴ         ・ヽ  いんきん
盾酪しいやうである。平経線は陰山山脈に滑つて西に走つてゐ
るが、この陰山山脈一帯には既に専を見てを少、而も日中は皇
だ朴常の著さになるといふ有様である。之等の地方に放ける気
                             化いとち−
温については正確な記録がないので判らないが、年輪組む大同
 からすI・つと繭に下つた析にある山西省の首府ポ耶での卍錐灯
 依ると十月中の脱皮は日沖に漑救離柿氏の二十七度、粥氏の約
 入十鹿に上るかと思へば、夜は敢低零下五度にも下る隊で、日
 中と夜中とでは平均して二十度も池度の塞があるのである。従
 って夜はすつかり各仕度をしてゐても榊簸いのに、日中はまだ
 戦が杓地の定時分の著さになるわけで、太原でさへこの位であ
 るから、之より為に北にあ少、和も砂漠地帯である平緯線方面
 埠の気組も大悼見常がつくわけである。従つて苧緯線平漠線方
                  たたか
 而の良質の郷土は穀は伶友の炎熱と開ひつつも、既に夜は非常
 に厳しい寒さと脚はなければならないのであつて、牌士の弊背
 の枠も想像以上のものがあるのである。
           ×     ×     ×
 付し砕浦線方面は之よりも少し糾の方に常つてゐるだけに平
 均鮎槻は平緯線方面などにくらべては大部温いやうで、山東省
  ▲Rいhん
 の斬新洩りの記録によると、来い時が梯氏の三度位、つまり華
 氏の三十七度飴りになつてゐるが、しかし一日中の東況の奨化
 が耕しいことは同様で、まだまだ日中は擁氏の三十度近く、華
 氏の入十六度泣くになることがある位である、叉北東の各地方
 では之から十叫月にかけては気温は急に下り、太原では平均し
 て八鹿又済鏑では平均して七度も下つて、急に袈くなり、忽ち
                  くわ
氷鮎下二十庇といふやうな酷寒に化して了ふのである。それか
ら今時分の北支の天気は秋から各への縛換期に常り、北支−帝
 に五つて不安定で、お天気であるかと思ふとすぐ岡が降るとい
 つた状態であるつ次に上海方南の気候について詮明すれば、上
 海は北丈よりはすつと柄に寄つてをり、叉姫川挿にあるので、北
文とはちがひ、海洋性の気候であつて、今頃の強度は大鰹に於
 て最高が梯氏の二十八鹿、つまり華氏の約入十二度から、最低
抑氏の八鹿、輩氏の抑十六度飴りでは中はまだ多少暑いわけで
 ある。袈舶に掛ける十月申の平均況度は棒氏の十六度、つま少
華氏の六十度放りであるが、上海の平均温度は十七度であるか
らまづ、東京にくらべて多少吸いと考へればょいわけである。
上梅方南の天気は矢張り北支と同様丁度各への捲穐糊にあつて
安立せヰ奨化が多い。ハ十月三8放送)
資 源 豊 富
な 山 東 省
   l
 山東省は地理的に官つて
も斉海と翻梅をへだて和が
朝鮮並に関東州と粕封して
ゐる許りでなく、北支各省
の中でも、政治上、軍事上、経済上、非常に重弊な所である。
            ろ
 山東省は別の名む魯とも又山左ともいひ、魯とはここが昔の
魯の囲の土地であつたためで、又山左とは山東といふのと同じ
く、本省の大部分が大行山山脈の東に位してゐるからである.
面積は十桝仙些二千方キロ飴、人口は約三千四、五官碑人位であ
るが、人口過剰の結果、従釆省外に移住するものが年々数十鵜
人の多きに上つてゐるとの事である。地勢は東部は牛鳥胱をな

               †】 ェく
 絢の枢軸ともいふべき岡北方耐に出動して雑たと倖へられてゐ
 るのであるO
                        Gんh
  胡宗耐は叉蒋介石の弼裁梯確立を目指した鞋衣祀内の有力舶
 恍である弁哺同勢合の有力なメンバーであるが彼は眺鞭が才子
 肌の人間であるのに封して武人肌の人間である。
             ◇
  粥改まは字を向鞄といひ、流氷省の人で、今年川十三歳、武
           り 書いしん
 呂雄官耗校の出身で、挙済探に廃して累進し、一九二八年碓介
 石の北伐に従つて紳浦払方面に椚勤し、北伐庖丁後小火軍の祈
            りそうじん はくすう竜  かんしい
 四帥長となつたが、後、李采仁、白崇祓琴の鹿西派と結んで、
 反弥勒つまり(滞介石に反流する戟ひ)を起し、更に一九三〇
 年つまり昭和五年に去燻Rと礪玉押とが聯合して反蒋戦を起し
 た時にも之に合流したが大敗して麟也に退き、その黎年賦水団
 民政府が出水た時には節川央巨E、鮮四軍長となつて、庶来の
 准柵を撞つたこともあり、その後崗京と靡東との妥協成立後、
                        モ サワ
 秋米批娯の法に上り、昭和十年射的して昨年蘇新(江蘇、斬江)
 汝隙主任を命ぜられた。用兵作戦に長じて彼の率ゐる軍隊は、
 北伐時代、鍬罫と糾せられたとの斬である。二度進も反碍戦に
 参加した程で気骨のある男として知られて居り軍の指梯官とし
 ても和音の能力を持つてゐるやうである。陳誠胡宗鏑の二者の
 ゃづな郷介石の子飼ひの人湖とはちがひ、而も二度も救いた人
 汲ニして藩介石としては油断のならない人似であるが、抗日に
 朗る彼も今や昔の怨みを忘れて上海戟線忙現はれて鼻軍に方向
はうとしてゐるのである0
            けいこ
 叉、粥自中に代つて京混線司令に任ぜられたと侍へられてゐ
る朱純良は、縮趨省生れの今年四十入歳、字を一席と桝してゐ
るが、彼は我が陸軍士官単校節十糊砲兵科の卒菜で、】九二六
年郷介石の北伐に従ひ、囲民革命軍参謀長を勤めたじ藩介石系
の軍人で軍事費貝食費艮、軍政鹿長、師長等を経て、一九三一
年共産軍討伐に際.しては第三軍謝絶指坪として前段し、最妃迄
廿鮒絃特集任であつた。
 最後に劉填緒は湖南省の人今年四十八歳で字を挟光と榊し、
 か けん
何鍵の系統の人剛で第二十入軍長である。保先の軍官拳銃を卒
業後何鍵の下にあつて累進し、】九二七年に第十九師長忙又】
九こごこ年に規凄の第二十入師長に任ぜられた。ハ十月二日放盈)
北支上海商
戦線・の気候
 北交戦線方面の泉修は何
れも大陸性の気候で森暑の
轟が甚しく、丁度今頃は日
中と夜中とでは非常に況庇
の葺があるが北支各方面の
戦線の中では学務線方南の地域が食も北にあるだけに壊さは一
 たぴ         ・ヽ  いんきん
盾酪しいやうである。平経線は陰山山脈に滑つて西に走つてゐ
るが、この陰山山脈一帯には既に専を見てを少、而も日中は皇
だ朴常の著さになるといふ有様である。之等の地方に放ける気
                             化いとち−
温については正確な記録がないので判らないが、年輪組む大同
 からすI・つと繭に下つた析にある山西省の首府ポ耶での卍錐灯
 依ると十月中の脱皮は日沖に漑救離柿氏の二十七度、粥氏の約
 入十鹿に上るかと思へば、夜は敢低零下五度にも下る隊で、日
 中と夜中とでは平均して二十度も池度の塞があるのである。従
 って夜はすつかり各仕度をしてゐても榊簸いのに、日中はまだ
 戦が杓地の定時分の著さになるわけで、太原でさへこの位であ
 るから、之より為に北にあ少、和も砂漠地帯である平緯線方面
 埠の気組も大悼見常がつくわけである。従つて苧緯線平漠線方
                  たたか
 而の良質の郷土は穀は伶友の炎熱と開ひつつも、既に夜は非常
 に厳しい寒さと脚はなければならないのであつて、牌士の弊背
 の枠も想像以上のものがあるのである。
           ×     ×     ×
 付し砕浦線方面は之よりも少し糾の方に常つてゐるだけに平
 均鮎槻は平緯線方面などにくらべては大部温いやうで、山東省
  ▲Rいhん
 の斬新洩りの記録によると、来い時が梯氏の三度位、つまり華
 氏の三十七度飴りになつてゐるが、しかし一日中の東況の奨化
 が耕しいことは同様で、まだまだ日中は擁氏の三十度近く、華
 氏の入十六度泣くになることがある位である、叉北東の各地方
 では之から十叫月にかけては気温は急に下り、太原では平均し
 て八鹿又済鏑では平均して七度も下つて、急に袈くなり、忽ち
                  くわ
氷鮎下二十庇といふやうな酷寒に化して了ふのである。それか
ら今時分の北支の天気は秋から各への縛換期に常り、北支−帝
 に五つて不安定で、お天気であるかと思ふとすぐ岡が降るとい
 つた状態であるつ次に上海方南の気候について詮明すれば、上
 海は北丈よりはすつと柄に寄つてをり、叉姫川挿にあるので、北
文とはちがひ、海洋性の気候であつて、今頃の強度は大鰹に於
 て最高が梯氏の二十八鹿、つまり華氏の約入十二度から、最低
抑氏の八鹿、輩氏の抑十六度飴りでは中はまだ多少暑いわけで
 ある。袈舶に掛ける十月申の平均況度は棒氏の十六度、つま少
華氏の六十度放りであるが、上海の平均温度は十七度であるか
らまづ、東京にくらべて多少吸いと考へればょいわけである。
上梅方南の天気は矢張り北支と同様丁度各への捲穐糊にあつて
安立せヰ奨化が多い。ハ十月三8放送)
資 源 豊 富
な 山 東 省
   l
 山東省は地理的に官つて
も斉海と翻梅をへだて和が
朝鮮並に関東州と粕封して
ゐる許りでなく、北支各省
の中でも、政治上、軍事上、経済上、非常に重弊な所である。
            ろ
 山東省は別の名む魯とも又山左ともいひ、魯とはここが昔の
魯の囲の土地であつたためで、又山左とは山東といふのと同じ
く、本省の大部分が大行山山脈の東に位してゐるからである.
面積は十桝仙些二千方キロ飴、人口は約三千四、五官碑人位であ
るが、人口過剰の結果、従釆省外に移住するものが年々数十鵜
人の多きに上つてゐるとの事である。地勢は東部は牛鳥胱をな

 ある0
  水上撥は水上から滑走して出敬し、叉水上に着水するのであ
 るから、天候によつて・は波が高くて水面の滑走が川氷ないこと
 が度々起り、又時とすると峯中に椚覆した後風が出て発て着水
 椚衆なくな5こともあるが、かういふ場合には母艦や基地の人
 人の労苦は一洩りではない0
  又峯繋中知らぬ瀾にフロートが抑丸に甘かれてゐたため、抑
 つて氷て着水すると使水して横憎が沈汲に頻†るといふやうな
 ことは珍しくなく、かかる場合に於ける海上の救助懸念作糞は
 到底陸上では想像出来ない青菜である.
  叉峯興部隊が凱旋して来ると水上横椅鮭ならば糾い艦内に収
 容して故障や破損した榊桝を調べ、直ちに修理や謝黎にかから
 なければならない。叉水上横の基地ならば水上や水中でこの作
 菜をするのであるが、暫くすると次の攻撃命令が氷るといふ布
 樺で、之等作菜貝は徹夜しても迫ひつかぬ寄が多いのである.
  現在支郷治岸各地は勿論南京等に対して巫襲を待つてゐる部
 隊の内には有力な水上横隊も参加してゐて華々しい偉動をたて
 てゐるが、kの背後にはかやうな必死の努力が称はれつつある
 のである0ハ十月五日放送)
            ′l蔓lく一.−J一lヽ′‡i‡〉、 ヽt,ノr主l一−〉ヽ一一r享〉一I 、 く
 後記」この第二辟時増刊ほ月本款速協合が入月〓十入口から十月五8
  笠且り放逸した一一ユース解務を牧錬縞纂した滝のである。佃七月十九
  日ニュース解読故迭開始以来入月二十七日迄の分は第一臨時桁刊とし
 て木儀上同時に車行づ加た.