中部職線と
正 太 職 造
戦史に桝く我軍の保定、
姶州攻略によつて、浮足立
つた敵は、中部戦線に於
て、我が峯陸相呼應しての
総攻撃に今や総崩れとなつ
てをり、叉連日に亘り北支の杢を縦横舛鵡に椚躍してゐる粥が
か かん けんけん ・かじやう
陸軍航察部隊は、二十六日河問、猷解から挽く阜城に迄遠征し
て敵の心臓部を爆撃し、多大の損寄を如へた。之等の土地は如
何いふ研か之について述べて見よう。
先づ乎湊線の滑挽から述べると我軍の総攻撃によつてもろく
も陥落した保先のことは飴りにも知られてゐるので省略するこ
ていけん
ととして、保先の西南忙ある、定願から述べること忙しやう。
定席は快定を西南に去る六十キロ故人口八千位の桝で、淀州
願城は隈の水方一キロ飴の桝にあり、附近一帯は苧鳩で小さな
河の流れが非常に多い朗である。この定席から五十飴キロ西南
せいていけん
の所にあるのが正定願でこの附近は、一望千男見渡す限り靡々
とした棉花畑である。正定城は瞬から二キロ許り東の方にある
が、この城廓は周囲川里、十六キロといふ可成り大きなもので
こ だ が
人口も五苅内外といはれる都合、その南を浄陀河が流れてゐ
る。物凍は裁物棉花等の外石浜、拭等の錆物、その他いろいろ
しん
の典賓を床山し商菜も、噺る繁昌してゐる。こヱは薬の昔から
知られた土地だけに名勝盲踏も多い所であるが、とりわけ城の
り】うこ一うレレ
東にある梯輿守は高さ七十三尺の大仰の立像があるので有名な
寺でこの一馬め大仰寺とも云はれてゐる.
===・…=◇…===…
t士か
この正定から平湊線を慰に南下すること二十キロ許りで石家
主スノ
許につく。ここは明治三十六年迄は荒れ典てた一寒村に過ぎな
かつたが、平淡線の開通に次いで、明治川十年にここを起鮎と
たいけん せいたい
し山西省の首府太原に漉する正太繊道が完成してから念に竣廃
した桝粥新開地である。碓つて支那の都合に特有な城舶はなく
桝謂近代的な都留である。平漢、正太雨繊道の相撲する所交流
たいけん
上極めて重嬰な地鮎であつて太瞭を始め虚太鋳造滑線一帯の物
資を吸集してここに集めて来ると共に、一方では綿糸布諸雑貨
その他の物資を学務線によつて、北は天津、南は漠口方涌から
ここに途つて米、ここから改めて正太線によつて山西省から速
く蒙古地方にまで迷ぶ大集散市場の地位をもつてゐるため、摘
発取引も非常に盛んで人口は、ニ拘飴といはれる。担に正太鋳
造は石家茫から山西省の首府太原に至る鋳造で正とは正定のこ
とであるが、事蜜は正定城の南にある石豪荘を起鮎とするもの
である。この繊道は元来、淡坑の関数を主な目的とし和めはロ
シアの資本によつて建設されたのであるが後フランス資本家の
▲T9
手に移されたもので、生長二糊三粁東郷の固有鋳造である。山
間の地を通するためレールの幅は支那には珍しい一米の狭軌鋳
造であるが、明治三十六年に起工し同四十年に閑洩したもので
ある。
・=・・=…=∧Y==:=・=・
正太治練の車な上撃ノついて戟c岬に述べれば、河北山西粥初
の墳に泣く榊偲とい、茄があるが、ここは河北竿円にあり内長
城の内側に在りて有家舵から五十紘キロ、附近一帯は井悸淡M
あんろく†)ん
といはれる米坑地である。叉安祓山の乳を始め背から度々戦場
となつた怖であるじ内長城線の誓言地弼朝鮮が也えれば山西
hいゆ
省に入るが、山婚省内の沿線の土地としては太原の東にある簿
堺が中次、紐埠の慧芸桝として有名である0次に半漢線と津
沌線とにはさまれた蹄粥中細戦線の土地であるがこの遽の地勢
は一聯に昭博地碍で冬の結氷拗のほかは交感上非常に不傾な悌
Mソ
であり、敵はこの地形を利して、必死の抵続を試み瀧のである
が、破竹の如き和が皇軍の進解の絹には赦すべくもなく南へ編
へと敗走しっつあるのである。臍でこの地帯に砕ける土地とし
て注目すべき桝は河湖で二十六日胡我が陸軍航峯鶉陽によつて
犠襲を加へられた析であるが、ここは、瀧棚c保定とを紬ぷほ
ぽ中偶にあつて交池上極めて重少な地鮎で、宏大な吸盤にかこ
まれ、人口、約八千と桝されてるる。河問の南にあるのが験爆
発にその南にあるのが阜城であるいへ九月廿六日放彗
ダリラ職術と
ダ ム ダ ム 弾
昔から支那の新野弘…の巾
には可成り勇敢な場面も払
えるが、それは全くT人の
将軍とか一人の豪快とか、
仙人に廃するものが多いの
であつて、軍隊として正々堂々と決戦をするといつた柁な粥桝
は飴り多く見受けられない。そこでよく支那畢を攻めるには一
方に逃じを作つておいて三方から包観すれば直ぐ逃げ出して了
ふといふ革も首はれて計る様に、大きな部隊と大きな部隊とが
長い間相封時して、輿故に戦ふなどと首ふことは、結局後方に
慣恥陳とか陣碍物等があつて逃げるに逃げられない場合に行は
れるのである・そして通常の場合に昭はれて衆る職の仕方は】
いく▲竜
方の軍隊が敵の後に祖つて不意に背面から攻撃をするといつた
ゃぅな職法か、或は敵の分散してゐるのに爽じて、その絹い一
部分を桝榔りでやつつけて了ふと言つた戦法が多く川ひられる
のである。共薦軍が盛ん忙中央軍又は甥瀧北軍を悔した戦法は
各くこの職汰である。その一例を述べれば昨年始め、張畢良罪
せんtい
が快西省の共産軍紺伐に出かけた時鴇隊を分散した環め、傾か
三回の職開で六倍聯隊が生滅したといふ事がある。尖は共躇弼
おuて
が分散してゐる拳良軍の小さい部隊を数倍の兵力で念に発つて
武鵜を僻険し、兵誰や弼築を全部奪つて了つたのであるが、之
笹の職汰は碍忙共産軍に止まらす中央軍でも同様に使つてゐ
る。一博文郷の民族性敵が似いと札れば髄へ上つて逃げて丁ふ
が、敵が瀦いと施ると非常に烙戊忙して雰緒鵜枚にやつて氷る
f……悶鮎…網棚f朋………耶…gbg
どく女】つ
方法で循幣するのであつて之が川千年氷行はれ今でも何柁な♯
投を川ひてゐるのである。つまり日本軍に職域的な打撃を卯へ
られると性う′1の態で箪服を舵ぎ武器を拍てて逃げ隠れて了
▲あと
ふが、ロ水軍が洩過した後僅か許・りの部隊が行勤したり守備し
と
たりしてゐるのを札つけると叫び銑を取つて少い日本軍に弊ひ
かかつて氷るのである。之が所謂ゲリラ戦術で支郷乾には持つ
いくlミ
て来いの職の方法である。
====・=人Y=・=・=・・・・
このゲリラ戦術とはスペイン語で、撹乱戦闘とか、苓袈職法
をするといふ方法を好んで探ることになり、その他或は大行李、
嘲重といつたやうな防護力の少いものを念に襲つて椙食、挿*
を奪ひ映るといふ革も考へられるのであつて、之がゲリラ戦術
といふものである。昔、ナポレオン一世がスペインに進撃した
時スペイン軍がこの戦術を探川して糾常フランス軍を悔した朝
がある.この頃からこのグリラ戦術といふ言葉が非常に流行b
出したのである。敢近イタリアがエチオピアを攻略した噛もエ
チオピアは盛んにこの職術を川ひたので新剛等にもこのけナがさ
つまり
かんに使はれるやうになつて氷たのである。要之このゲリラ馳
術は舶い軍隊が似い軍隊に封して川ひるものとは言ひ乍ら支那
tい
の閑民性に非常によく合つてゐる戦法であるため支那iはたと
へ優勢であつても、好んで此の北淡を川ひることと瓜はれるの
である0
======∧Y=…・・…=
攻に支那軍が非人道的にも国際公法に背いて使つてゐeグム
†】ん▼)■やく
ダム押について鎚ペることにするが、支郷の民族は非常な惨虐
性を靖つてをり、この惨虐性が彼をして戦場でグ人グム椰を使
はせるのであつて、北支だけで慧串が分棚つたダムグム叩は嘗
竺丁教務懲に達してゐる0抑も此ダムグム撃と首ふものはかつ
てイギクスが印度の土人を討伐した時にグムダムといふ桝の工
場で始めて作つた小銃弾で、ダムダム弼といふ名前はこの工場
の名前から発てゐるのである。この印丸は人の身憫に常ると頭
▲
の先がこわれて瀕がり、丁度笠の閃いた松茸のやうになり、見
誉んこく
るに忍びない惨斬な傷を輿へるのである。イギリスが埠胡に之
を使つた時各固から人道上怪しからんと言つて抗議が〓たので
あつたが、之に封してイギリスは
いく一己
和漢の土人は普鵡の小銃坪に首つてもビクともせず平気で敬に従
卒するから、かやうな野番人は文明同人と同じやうに琴ふことは出
来ない。
とあつさり各図に回答したといふ事である。その後一入九九年
つまり明治ニ‥十二年の粥開平和禽試で文明囲の刷の戦闘には之
を位榊すべからすと決試されたのであつて、従つてこのダムダ
ム叩を使ふことによつて支那は自ら自分の圃が文明図でないと
官ふことを自発し、又之を公耽鼎の前に公表しょうとしてゐる
ものと晋はなければならない。ダムダム滞の稀類はいろいろあ
るが、多くのものは速く迄は届かないやうになつてゐる。それ
は普池の小銃挿と揺つて狩丸の頭の恰好が轟気の抵抗を多く受
けるやうな恰好になつてゐるため、速く迄は届かないのであつ
て、その馬殆んど紀鞭離戦法に使はれ従つて今述べたゲリラ戦
術忙は持つて来いといふ抑丸である。ハ九月廿七日放逮)
中南支の大動
脈、増漠職造
えりかん
埠横紙造は中部支那と柄
えウ
支那とをつなぐ繊滋で増は
かん⊥■ん かんこう
供東のこと、淡は漢口のこ
とであるが、賓際は拗子江
∫しやう
の漠口の封岸武呂から湖
北、湖鏑、臍東三省の沃野を南に耳いて廣火に至る鋳造で、そ
の仝延長は面白いことには、東京、下関制の距離と殆んど同じ
しんほ へいかん
の一千九十七キロ飴たのである。この繊造は、津浦、苧漢の粥
紛道にも世故すべき政治上、軍事上、重要な鋳造であるが、こ
とにその滑線の地域の経済的倍値はこの雨掛道を造かに凌駕す
るものがあると官はれる。殊に武円Hで拗チ江を隔てて封岸の・溝
口と連綿することが椚氷るので、卑洪、平漢の粥繊道は粕侠つ
て、支那本土を揃北に縦許する交泡の大動脈を形づくるものと
どんしん くわ・つちよ
音ふことが出来る。この鍛造は始め前清の光紺二十凶年(明治
【丁−ル
三十一年)に数名の支那資柴尖が一千鵡粥飴の資本を川して計
慈したもので、その後アメリカから川千碑抑の借款を待て建設
工事を進めるに至つた。このアメリカの債柵はやがてロシアと
フランスの新米汲ノよつて屑代りされ、更にその後全部支那財
閥の揺る朗となり、遽にこの絨道は支那人の管理の下に建設を
っつけたのであるが、図民政府が成∴止するに及び本拭道の眈
成、未成の各隈線を全部閑布としたのであつた。かくて一九〇
〇年ハ明治三十三年)起工されてから、錐多の迂飴肋折を耗、或
る畷糊等は十飴年もの間エ車中止を飴俵なくされてゐたのであ
しゆしゆう ちくしやう
ったが、最後まで未完成のまま雄さ舵てゐた株州と欒口Hの周が
昨年竣工し九月一日を以つて武呂、流水問に直油列串の逆挿を
見るに至つたのであつて、起工以来官に三十七年もかかつて、
漸く全線の悶絶を貼るに喪つたのである。
◇ ◇
次に本繊道の建設状況を簡輝に述べをと
△北の方の武員か叡吸窟c攣株州に誉四芋七キロは・懲
時の北京政府の手によつて大正七年に完成し
とうくわん
△南の方の廣東から酎餉迄の問二宵二十叫キロほ埠萌頻道魯批なる曾
紅によつて大正五年に完成し、大正十二年掬民政府に賀収されて均
有となり
△相関から柴島に至る五十キロは横道邸で昭和四年起工 同入牢竣工
し.最後まで鳩されてあづた株州と弊良の間鳩胃六キロも鋳造部の
手で昭和入年に起工され岬十】年故エし
ここに金種長一千九十七キロ故の閑泡た見た次節で武呂、席東
問を督油列革は四十四時間で走り、叉特念は三十六時糊で走る
といふ事である。何との繊造の組建設資は約六千二日碑允とい
はれてゐるC攻に本繊湛の経済惰倍について一首すれば、この
しゆこう しようこう
絨造は抑北、湖南、腕東三省の沃野を縦甘し、珠江、湘江、械
子江などの大きな河の流域を連綿†るため、各地の物耗に洗他
の途をつけ甥物の集散を便利ならしめる許りでなく、その治線
の土地は農産物、鞭物等の晋座ともいはれる桝だからである。
湖北、湖南の粥省は気候が渦収で雨が多く土地も貴かな薦め盤
みの
産物特に米の庄川が多く背から術潮掛れほ天下足るといはれて
ゐる位である。叉、湘南、和江の流域は森林地帯であるため木
材の産出が多耕に上つてゐる。更に錦物については、湖北省の
がくじやう だいや しやラやう ちい●う
都城、大治、湖南省の郡似、雑陽舵東省の仁化凄陽の各地は歯
石求の産出で布名な朗であり、その他湖南省にはアンチモエー
†ンガン、鉛、タングステン等の埋織最が櫛めて態富に上つて
しようたん どうていこ
ゐる。殊に長沙の南にある洲浄や洞廃湖の凍にある岳陽等から
産出されるマンガンは全文郷のマンガン東新の牛ばを占めてを
bよ与ねい りんしよう
り又同省南部の常寧や、省の鏑部膚陽の架北の臨湘の鉛は年産
約五百トンに上りために湖南は賃南に次いで全文郊中郡二付を
ちんb上う ▼−しよ与 b上bよう し こう
占めてゐる。又、南部の柑城、怠黎の錫、汝城、▲費興のタン〆
ステンも叉在郷が多く、その他、鋼水銚箪の鴇物がこの湖南省
に非常に卦常に叶拭されてゐるとの輔であろ。
次にこの沿線の鼓な大地について詮明して兄ると、
こう一C
九月廿七日に戟が抗拭械のため排撃を毅つた黄沙併は本域道の払
凱騨であるが、抑は桝鮎・省城の西鵬珠汀に防んだ研にあり、ここよ
こ−りモん
り北上サると、珠江の支流にかかつてゐる大将橋を持つた何に江村
bけう♪
があり、その充北に従化がある。何れも田舎の小さな呵で従化に、
脚攣された飛行場がある外は特に鵡べる程のこともない土地であ
はこう
る。又我が海堰機のために爆撃された兵工機のある琶江は八十ニキ
は丁乙 †くこ・フ
ロ許巾北の研で琶水の北江に注ぐ併にあり、所謂琶江流域の咽囁を
サーつくわん
舵†る土地である。ここから常に北に行くこと宵三十飴キPで鞘
竺ヒニー二う
に逮するが、榊江賄の所在地であるため地何によつて仙打と丸山て
ゐる。ここは、餌東省北部の車娘として商築上非常な雷弊な地位を
ちと勺♯H川▲うれい
占めてをり人口的六舐の都合であるが、ここは又磨の文蒙、張力齢
の故地として昔から聴史上に有名な土地である。この耶欄から二十
■hく、し卜う
キロ北にある繁昌は戊東省北端の町で人口約七千、料簡省との仲鞭
貿易上宮野な桝であるりハ九月二十八日放送)
開通Lた許り
の 新教餓造
七つかん
新韓鋳造は新托省の杭州
tんとうこう
潜に妹ぐ鍔腑江の病岸にあ
こうへん
る江逝から斬江平野を西南
に下つて江西省に入り、先
≠んし上う
に爆撃岩れた南岸を総てと
えつシん ひや与缶やう
こから拍何に滋つて埠漢鋳造の拙線にある沖 郷に至る糾泣
かん
で、斬とは漸江術のこと韓とは打出省の別名で、この文字の示
す独り漸江、江何の粥省を桃に肌いてゐるものである。湖揃省
の株州(長沙の桝)で卑漠絨道と油紙する汁斉の下に、崗昌と沖
縄の糊のエ郎を憩いだ純兆、この路榊はつい先頃完成して去る
二十〓に砂漠、斬翰粥繊道の虹池辿綿が開始された許りであ
る。この粥紐滋の此通聯終によつて北が滅罪の支那沿岸航行紐
斯に射り切つた支那は、購求に喩入した軍縮品を上帖に喩迭し
ょうと拭みたのであつたが、和が帖軍機の弟枚横敏な察単によ
つて粥紛道の沿線各地は指爆撃を蒙り、大根宰を受けて途に逆
行不能に格つて了つたのである0かやうに軍部的に非常な重嬰
件を榔つこの漸椅繊道は梯子江以崗に於ける唯一の横断繊造と
して、又上淋と憐火とを聯格する幹線として綻済上その他に於
ても詑姿な鋳造であるが、その灸延鹿は九打入十飴キロに上り
梯畔仙帖の…小娘糾出である。次に兆の詳細であるが諒解に偲な
るやう沿線を三つの同間に分けて沌べること忙しよう。
○
兜づ杭州と弼u‖の問に就て、木繊泣の超勤は江適となつてゐる
が、江遽と杭州の糊はやがて絨埼でつながれることになつてゐるの
で背泡杭州 南掲刷といはれるが、此横間は延長六宵二十七キロ、斬
江市政府の手で計刺されて一九二叫○年つまり昭利五年の末に起工し
†一h人くナ一ん
昭利九年に玉山超榊通したのであるが、吏に立山から所員迄の問
は、建設努の一部をドイツの血フに仰いで、昭和九年起工昨年一月
開通し、かくて杭州、硝呂悶は全治を見たのである。次に朽〓円から
西の万、搾郷に要る線は二田六十≡キロ、南京政府の械屯建設五
倍年計劉の一部として、昨年の五月に起工され来年の春に完成の雅
定であつたのを工事を急いで九月〓十日に開通させたものである.
あんけん
最後の株州と押郷の氷の安沖との間は延長九十キロであるが、之は
鼓上して押郷演坑の石狭を輪超することをH的として明治二一十大年
に起工.同三十八年に竣工したもので、この≡つの弼刷を合せた本
給道の全延長は九入○キP飴となるのである。次に鋭堀江の稲梓に
ある杭州と江迎とを結ぷ銭堀江の鍼椅は箕郷資本に一部イギリスの
資本幣合せて碑設に着手されたもので、十月十日には完成の預延で
ある。延長−キロに及ぷ大増穂であるがこの銀媚江といふ河ほ川の
水が逆流するので有名な川である環め架橋工事も非常な鞭エ却とい
はれてゐる.
次に拍子江以南に於ける重嬰繊造の預定紬について簡単に偶
れることにする。東郷政府は最紀絨道建設五ケ年年計賽を樹
て、拭道の址設に力を注いでゐるが、その総延長は八千五汀キ
ロに上り全部竣成の上は現在の繊退廷長八千キロと合せて、一
純六千五宵キロの大鉄道を擁しやうとしてゐると伴へられる。
この鋳造縫紋五ケ年計賽に上された各辣定線の巾、梯子江以漑
しやう●】ん てん含ん
に於て最も重嬰な線とdて挙げられておるのは洲封鎖造、渦斯
けhかん
繊道、京輯繊道である戊湘斯絨道は湘は湖南省、斯は費州省の
ことでこの字の示す如く、湖病省と鉛州省とをつ二なぐ繊造で、
・王 ▲やスノ
卑漢線沿線の株州から、貿州の首府八人陽に越する一寸ロ敏の鋳
造で、ドイツから三千耗元の借款を仰いで、敢紀土木工事を的
始したと伸へられる.次に鳩斯繊遭は鳩は等南省艶は費州省・の
こん決りい
ことで、つまり、軍崗省の首府婆南(昆名とも首はれる)と費
暢とを結ぶ約一千キロの拭増であるが、この二つの織道が完成
された雌には湖舶、費州、軍南の三省が結ばれる許りでなく、
ハノイ ハイフLrン
貰病に於ては南の方の俳領印度支那の河内、海防と連絡し、】
方水しては斬輯坪造との適格によつて、上海進もつながること
になり、梯子江以術に於ける南支部を横断する唯一の鉄道とし
て笹車上、経済上、非常な重資性を頚挿することになるわけで
ぁるから、南京政府建綬五ケ年計寒中の重要辣定線として之を
傘げ、而も斬韓鋳造の全通を急いだ虜意がどこにあるか推察に
難くない所である。次に新韓鋳造と開聯を持つ重要鋳潰として
さきに挙げた京蜂鏑邁は南京から繭に走つてゐる江南繊道の経
鮎畔である耶釘弼から新鞍鋳造の貿決に至る四普ロの繊造で
▲じ けい
之も五箇年計萩中の一つ、今年末には完成の橡定であるが、完
成の雌には南京と庚東とが結ばれる外、南京と廣東との撃ノ直
接聯締がつくのであるから、之も畑る重要性を持つ絨造と官は
なければならない。ハ九月二十日放送)
日章旗翻る
萬里の長城
ほつかい
溝皇の長城は東は勃海に
おこ
臨む山海閑に起つて、山を
超え、谷を渉り晩々長郎の
如く西に連なり遠く甘柵省
か tくくわん
の嘉幡牌に達して満洲団と
tんtいtん
支却との墳をなす許りでなく、チヤハルと内蒙古の墳、山西欧
せい ナゐえん
西粥省と経緯省の墳甘鮒と革質の塊等、各朝の場外を形づくつ
てゐる。之は普通に外長城といはれるものであるが、之に封し
て河北チヤハル雨省の境外をなしたり外長城練に拾つて山西省
の北部にあるものが杓長城と呼ばれる、内外長城線の総延長は
貰に〓舶二千飴支鬼、文字洩り滞累の長城であつて、之を和が
是政に正すと、一千八百飯盛に上り、之を地同によつて見ると
光雄市二十度から九十七度に達してゐる。この満足の長城は今
しんちとうえんモ
から二千二、三百年前文那の戦国時代に」常時の列国秦賠締楚
せい▼− きようと
軒軌などの閑々が北方の強敵勾奴フン族を防ぐために築辻した
ものを、その後秦の始皇礪が天下を統一してから大修築を加
りんとう
へ、更に西の方の臨挑から来の方遼東に至る大樹築を行つたも
ので、普泡一般に倖へられるやうに券の始皇帝が始めて築地し
】丁ゐとう
たものではないのである。案の滅亡後納北朝馳庸の各時代にも
修築されこの時にほぽ今日の長城の位避が定まつたのであつ
むん
て後に明の代にも大修築が加へられて現在ある長城はこの明代
に於ける修築の逝蹟である。
此の築地修築のため、二千年の長きに有つて使役された人間
は蛾百粥人なるかを知らす、又その工事費を今日の金に見積れ
ば少くともこ百五十億元に箇ると計算されてをり、今から約一
七すだい
千≡百年の昔、随の頼帝が築いた大道河と共に世界の二大工事
といはれるものである。峯に奪え、谷を攻めて塊々と走る城壁
の高さは、一丈五尺からニ‥丈、厚さは一丈五尺から二丈位もあ
内ろ、) だい
り、城班の上には一町佗の距離ををいて蜂火基や、術兵の語桝
せんぐわ
などがつくられてあh音域兜の材料は石と樽瓦つまり煉瓦で、
外部は碑北、内部は石でつき川められてをり、確瓦の大きさは
約二尺位、叉石は二尺から川、五八代のものを石衣でつき間め
萌曳長城にあがる仇秋 てあるQ長城の巾外の交泡の
くわんこう
要路に常る桝を、帥n等とい
ふが約は開門、天下節一関と
いはれる山海鵬、経鮎になつ
がんもん
てゐる嘉幡鞄熬キ破線の雁円
くわん
閑太原と石東萩の瀾にある娘
予約等が有名で一大舶に常れ
ば靖夫も開くなしといはれる
要事である。また口は〓人口
を意味しての字のつくものと
卓りこ こう
しては張衆口、殻戊口等が知
られてをり、之亦、嬰事の地
である0ハ九月三十日放逸)