津浦線の馬廠から滄州まで
津浦線の展厳
から拾州漣で
津浦線滑線の故に指攻撃
を加へてゐる由耶軍は、遽に
J しようが
馬廠河の北岸に進擬しいよ
いよ馬腋攻撃の牌勢を盤へ
るに至つたが、今回はこの
馬厳を中心とした沖州線滑線の各地について稔明して見よう。
卓りし一ツ
津棚線は天津から淘流鋸、静海、馬搬、青州、漁州を経て山
書い払ん あんたしやう かナ
堀筍の滴南を過ぎ更に托蘇省の徐州を総て安雄省の東北部を椋
川畑 こう
め叉江蘇省に入つて鵠子江梓の揃ロ(南京の封岸)に至る鋳造
†り
で、その延長は千飴粁、六百三十哩に及び、北半から溝口に至
る幣浅緑と弛んで、南北粥支那をつなぐ重宰な幹線拭造であ
る。そしてその湖天津から川節省の清南の北に凍る徳州造は、
すゐ 上うだい
今から約千三宮年の昔螢輩を誇つた飴の堤帝が、北支那と揚子
ひち
江岸をつなぐため掘り拓いた大在河(支那ではこの掛河のこと
▼よか
を皇帝の築いた運河だといふので卿河といつてゐる)の南の部
分研謂縞雀河に滑ひ、その東側を津浦線は立つてゐるのである。
扱て天紬を清に下つた列申は濁流鋪、静海、陳官屯、描官屯
を経て、い上いよ感廠へ着く。天浄からは五十二哩に常るが、
この馬腋は我団の昔の大きな蹴髄のゃうな桝で馬廠河の南に位
ほ てい
し、水滴に山東平野を掟へ、西は保定に通する変池の磐衝であ
り、叉昔かち軍事上の弊地とLて知られる桝であつて、ここを
失へば竹浄地方が危いとさへいはれる位である。そこで支郷の
ふく
内乱に箇つては度々戦場となつた朗で、過ぐる大空ハ年清朝復
へ食うんと一 々ん
締堪動を超した張動は、大軍むここに集中して平津に進んだ段
生 すせ lみ
滅瑞のため一敗地に準れ、復辟の夢遠く去つたのであつた。
次に馬廠河ほ上述の大運河の水によつて、天津を流れてゐる白河
ほフかい力ん
が泥で埋まるのを防ぐために、蓮河の水を充の方勃海浦に流し込む
U′り
ため、近年になつて切り拓いた浬河の一種のやうなもので、箕郷で
いんか
はかうした河のことを引河といつてゐる0鴇絨河もこの引河の}つ
で所謂絹運河の水を末の方勃海瀬に流してゐろ川であるが、その河
桶は約三、四十問許りである.敵ほこの馬飯村の朽に堅固な印地を
集いてゐるのである¢
馬厳から更に南へ下れば青洲、次いで姶州であるが、雨地と
】tげ
も就派な僻地が準えことに姶州は河北省南部の物黎集散の地と
して知られ、平淡線の稲釘椚に油する郁祁鍛造の起鮎に擬せら
立 てん r
れた桝である0
ナいこ でん
この漁州ほ水砕俸にも出て来る節で、桝発駅椀耶hの他の水砕件
一色 †一い
中の英堆糞便凌が洗押入として流されたとあり、そのせゐでもある
たつと
せ−いが、昔からこの漁州ほ武を伶び又人気の荒い朗といはれる桝
†・}†−よ と っ
で、支群各地に蟻居する土抵の符鱗殊にはこの漁州出身の人蹄が多
いといふ串である.ハ九月九日故迭)