南口、居庸閲
明 の十三陵
 手繰線によつて張家口方
面から南下して木た蒋介石
直系の中央軍は、南口附紀
に於て我軍のため大打宰を
輿へられ南口は速に我軍の
占撼する鹿となつた。一帯中央軍は全部半壊線、津浦線等によ
つて甫支部及中部支郷の方から北上して凍るものとばかり息つ
てゐる人が多いやうで、今度北の方から中央軍折南下して木た
ために我軍との衝突を見るに至つたことについては、意外とさ
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れてゐる向きもあるやうである.元木山西省には閣錫山車が居
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り綬遽省には倖作義の軍があり又察恰衝省には張衆口を中心と
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して第二十九軍即ち采哲元を軍長とした第二十九軍の中、劉汝
聡が師長たる第声四十蒜がゐたのであるが、恰度昨年綬零間
礎か屯「ノて決卜鶴鄭⊥自に‖何
びんとする共産軍の魔
手に対流して嚇然蒙古
の徳王が超ち上り、之
に対して綬遺省政府主
席倖作義が兵を率ゐて
向つたのであつた.そ
の時蒋介石は侍作義應
凌のため直系の中央軍
を托西省から繰演省へ
廻したのであるが、そ
の中央軍が今日までそ
のまま駐屯して居て今
岡の北支事努を横倉に
手練線を利用して乗り
出して衆たものなのである.なほ支耶側はその後我輝紗後方を
斬配する戦略線として・賦醗省の那恥肘ら山西省の太原同じく
山西省の大同、チヤハル省の張家口、そして今度の戦場となつ
た河北省の南口を連ねる線に漸次兵力を集中してゐるのであ

 るが、十一日から十二日にかけて我宰と衝突し、大損宰を蒙つ
      た1ノ上・へはく
 た部隊は揚恩伯を軍長とする中央軍第十三軍の算入十九師で、
 その師長は王仲廉である。
  次にここで南口附辻に就て叫寸説明すれば南口といふのは北
 千から約二十五哩ニ「列革でこ時間牛位の虚にあり、人達嶺山
 脈の南の麓に位して居り、手繰線滑線の中では張家口に次いで
 の盈宰都市である.南口城の城壁はさして高いとは音はれない
 が北は山に嬢印増は渓谷に臨んだ尊宰の地であつて、山腹の各
 所には往時の蜂火壷が鮎々と散在してゐる.
  今度の南口における哉固のニュース中敵は居庸閲の要地に墟
 つて我軍に抵抗した事が侍へられて居るが、この屈庸翔といふ
 のは南口から北へ向つて約五哩の虚にあ少、二つの山が相迫つ
 てそこに細い確道を作り昔は天下九轟の一つであつた.一夫紺
 に留れば馬未も進む能はザとの天下の喩を以て稀されたのであ
 つて、この居庸摘むさること更に北三哩の虚にlつの小さい城
 があり、之を上紳と呼びこの上閲と上述の南口それに居庸紳を
 合せて居庸三瀾と栴して居るのである.このかつては難攻不落
 を浮つた天下の喩も果敢なる畠軍の攻撃の前には何等問題とな
 らザ、全く鹿史的存在にしか過ぎなかつたわけである.
    居庸槻をさる約六哩の地粘に和琴桝といふ名勝がある.昔山間を
   流れる滞列な水が岩に普つて、恰皮琴を弾いてゐるやうな響を彗し
   てゐたといふのでこの名が也つたのであるが、今は土砂が触れて勿
   辞そんな青は一関かれない.

  もう一つ南口から山路を筏くこと約入哩の虚に有名な駒の十三陵
 がある.十三陵とは明朝攣二代以下集十七代に至る畠帝の山陵の事
 である。まづ入口には精巧な彫刻を施した大理石造の大坪換ハ救助
 でいふ鳥居の】唾)があり、ここから大紅門を経て龍鳳門に壊する
 と門前に十この石人がある.郎ち四劫駐、四文臣、四武臣が之であ
 る.別に石畝二十四個、一野は立ち、一野は持つた戚のいろいろの
 動物の石で作つたのが置かれてある。ここから更に進むとやうやく
 陵門に逢するが、この旗門から仰いで見れば陵の建築が如何に宏牡
 ♯大なものであるかに繁ろかされるのである.之が即ち長陵であつ
 て明の成組を祀つたものであり、その他の各陵はみなこの長陵の同
 国に散在して構造は大同小兵、とに角外国人が必ず】虎は見物に赴
 く戚としてこの粥の十三陵は有名である.
 なほ居庸開から約六埋め虚に入達嶺があり山中塊塊たる城埠
は鷹に堆大である.之は高里の長城の中内凌長城の一部たる居
庸細入津嶺の城塞で、城壁の高さは十五尺から三十尺まで壁の
上知の膚さは十五尺から二十尺位に上り、壁上は一定の距榔む
濯いて蜂火嘉が作られてあり、ここから見た甫里の長城の批租
は青草に絶するものがあると官はれて居る.
                      ハ八月十二日放逸)