天津と太沽
塘沽、永定河

 

 今回は二十九日早暁以来
我軍との間に最も激戦が伝
へられた天津を中心にして
説明して見よう。
 天津は北平の東南百三十
キロに位置し北平と共に河北平地を扼して居る。北寧鉄路つま
り北平と山海関をつなぐ鉄道の主要駅であると共に津浦鉄路即
ち天津と浦口(ほこう)〔南京の対岸にある都市〕をつなぐ津浦鉄路はこ
の天津を起点としてゐる。これから見ても河北交通の要点であ
る事が分る。北清事変後内城外城の城壁は撤去され坦々の道路
と化し電車が通じて居る。白河が市中を流れ天津市の総面積は
約一千三十余万坪、周囲延長約十五哩、之を大別して外国租界
及び支那市街となし、外国租界はその面積に於て支那街の約二
倍に越して居る。人口は支那人が約六十万、外国租界の人口は
約十二万その中我が居留民は、昭和十二年四月一日現在の調査
では一万一千四百余人である。

  外国租界は現在イギリス、フランス、イタリア、日本の四箇国であ
 つて、昔のドイツ、オーストリア、ロシア及びベルギーの租界は特別
 区と称されて居る。このやうに天津には外国の租界があり又随つて
 各国の利権が複雑して居るから取扱ひが極めて困難なわけである。


 天津日本租界の設定は明治廿九年十月の日本専管居留地設定
議定書第一條及び第三條第二項に基くものであり、現在の区画
卅八万四千坪が確定して以来大日本租界局の設定となり、次に
天津居留民団の確定となり、自治行政の基礎全く成つて今日に
至つた。居留民団では土地経営をはじめ、道路水道下水電気事
業衛生設備教育租界内の警備消防等日本居留民並に租界内居住
者の共存安全に関する一切の設備経営に当つて来た。この租界
即ち條約によつて認められた正常なる権益が不法暴戻な支那軍
によつて蹂躙され攻撃を受けるに至つては、敢然皇軍が之に対
して膺懲の一撃を加へたことは当然と言はねばならない。

  なほ天津の租界区域は何れも整然たる区画の下に大小の街路が通
 じ、その主な街には洋風の建物が列なつて居る。ここは天津におけ
 る目貫の商業区域であり、一方白河に面した河岸一帯は埠頭であつ
 て、税関倉庫船舶業者の店舗等があるが、埠頭には白河をさかのぼ
 つて優に二千トン扱の汽船が横付けになる事が出来る。まことに水
 と陸に相俟つての交通の要地と言はねはならない。


 次に二十九日朝支那軍の砲撃に対して遂に我が駆逐艦が応戦
し又陸軍も協力して攻撃を加へた太沽(タークー)といふのは天津から白河
を下ること約三十七浬、恰度白河が海に入る処に当つて居つて、
対岸の塘沽(タンクー)と共にいはゆる天津港の一部をなして居る。古くか
ら要塞地且つ商港として知られて居り、往年北清事変の際、聯
合軍の攻略する処となつたことは周知の事である。今はもう砲
台もなく、軍事上の意義は失はれ更に港湾としても只地の利を
占めるだけで殆ど価値を有して居ない。
 次に今度の事変によつて、しばしばニュースの中に現はれて
来た永定河は北平の西方約十キロをほぽ南に流れ、天津西北方
に於て白河に合して海に注いで居る。

  水浅く流れは急で舟の便利はなく、一旦降雨の場合は俄かに増水
 し忽ちにして下流に氾濫を起すのであるが、しかしそのやうな時で
 も十数時間にして一挙に二米も減水するといつた河であつて、河床
 は度々の泥土堆積によつて南側の平地より高くなり、蘆溝橋附近で
 は其の差二メートルに及んで居る。平水の場合でも徒渉は大体困難
 である。河幅は北平天津の中間附近以北では概して河床は幅七百メ
 ートルから一千メートル、水幅百メートルから百五十メートルであ
 り、以南は毎年氾濫するため一定しないが、水幅三十メートルから
 百メートルである。河の両岸には葦が繁茂し湿地をなしてゐる処が
 多い。今回の事変に当つて第二十九軍に対し我方から白河を境にし
 て撤退を要求したのであつた。

(七月二十九日放送)