北 平 城 と
附近の各地

 北平は言ふ迄もなく北支
の交通政治軍事あらゆる方
面から見てその中心地であ
り、現在続々と北上を伝へ
られてゐる中央軍の内平漢
線即ち保定内至漢口方
面からするものはこの
北平の西側なる前門が
到着地であり、又山西
の閻錫山軍或は山西省
内にある中央軍が北平
へ入らうとすればいは
ゆる平綏線を利用する
わけであつて、その到
着地点は西直門或は又
この間我軍との間に激
戦を交へた広安門の駅
となるわけである。天
津方面からの場合には
正陽門と、大体以上の
やうに北支を走る鉄道はすべてこの北平に於て相会して居るの
である。北平には内城、外城といふのがあつてその城廓の壮観
は蓋し人眼を驚かすものがある。城は明の時代につくられ清朝
になつて更に修理が加へられたのである。

  内城はその周囲約四十支里城壁の高さ三丈五尺五寸、九つの門を
 有して居る。南に面しては正陽門、崇文門、宜武門、北に面しては
 安定門、徳勝門、西に面しては阜成門、東に面しては東直門、朝陽
 門等がそれである。外城は内城の南面を抱擁して東西に長く南北に
 短い長方形をなし、その周南は約七十八支里城壁の高さは二丈で外
 城には七門即ち永定門、左安門、右安門、広梁門、東便門、広案門、
 西便門がある。城壁には大小無数の銃眼を穿つて、そこから相手を
 狙ひ打ちするやうに作られて居る。この城壁の上は楽に三台の車が
 通れるといふ位で以つてその堅固さを知る事が出来よう。

 次に交民巷と言ふのはいはゆる北平の公使館区域の地名であ
つて正陽門内東側一帯の地域である。此所には列国の大公使館、
兵営をはじめ郵便局、銀行、旅館、雑貨店といつたやうな西洋
風の建物が軒を連ねさながら租界のやうな観を呈して居る。か
つて団匪事件の際ここで外人多数が悲惨な眼に遭つた事があ
る。列国は重ねてかかる不祥事をひき起さないためここに兵営
を設けて駐屯の護衛兵を置くに至つたものである。
 北平の説明はこれ位にして、つぎに二十八日皇軍が勇戦奮
闘遂に占拠した南苑(なんえん)といふのは、北平の永定門外約七哩(マイル)の処
にあるので、要するに春は花見冬は狩りといふ目的の下に元の
時代に作られたのであつて、地域は従つて極めて広大で中には
行宮(あんぐう)が設けられてゐた。その昔の栄華の夢は今は何処にも見ら
れず、たゞその広大な地域を利用してこゝに二十九軍の一部が
駐屯してゐたのであつた。

  次にやはり二十九軍がゐて我方に向ひしばしば挑戦した万寿山は
 北平の西直門から約二哩の処で、清朝の離宮があつたところ、やは
 り景勝地の一つであつたがここにも遂に支那軍が入つて兵営を作つ
 たのである。又二十八日のニュースに出て来た湯山は北平の安定門
 を去る北方約十五哩大小二つの岩山から成つて居り、百余の民家が
 あつて温泉地として知られて居る。昔、歴代の皇帝はしばしばここ
 に赴いて温泉に浸つたのであつたが、今は昔時の行宮も大半は朽ち
 果てて居る。しかし温泉は昔と変らず湧き出でて四時浴客に賑はつ
 てゐた。
  最後に通州は北平の東方六哩、附近は茫々たる平原で人口は二万
 内外城内は人家稠密で商業が盛んである。我軍によつて二十八日攻
 撃された清河鎮は戸数約百余、北平西直門より六哩八分の地点にあ
 り、又沙河鎮は戸数約二万、清河鎮から更に六哩余半平綏線によつて
 北平から遠ざかつた処にある。
  長辛店は北平から漢口に向ふ平漢線に乗つて、杓十三哩の処、附
 近には鉄道車庫修理工場材料庫等があつて、平漢線の操業上、重要
 な一つの地点となつて居る。 (七月二十八日放送)