支那軍の不
信と無統制

 第二十九軍の撤退は我が
軍との約に背いて依然駐滞
して居るが、之は去る二十
三日に南京から参謀次長の
熊斌が南京政府の意を受け
て北平に乗り込んで来ていろいろ発動した結果と見られ、北平
市長の秦徳純、第三十七師の師長馮治安の態度が、二十四日以
来更に硬化して、宋哲元の威令はいよ/\行はれない感がある。
 殊にこれまで、日支両者の中間にあつて事態の拡大を防止す
るための工作に努力してゐた秦も、二十四日朝以来赤痢の
ため活動不能に陥つたので、今後三十七師の北平撤退も百三十
二師の北平侵入部隊の城外進出も、或は行はれないのではない
かと見られて居る。
 一方永定河西岸地置に於ける支那側の戦備は日と共に厳重と
なりつつあつて、十九日頃には新たに三家店より門頭溝を経て
長辛店に至る自動車通路を作つて長辛店附近に盛んに弾薬を送
つて居り、又南方より長辛店附近に到着した中央系の軍隊は軍
服の符号や徽章を二十九軍のものに改めつつあり、保定には二
十九軍の名儀で兵站総監部を設置中であつて同地の城壁には高
射砲を多数配置して居る。
 今二十六日朝以来度々ニュースで伝へられた通り郎妨に於て
支那側に切断された軍用電線の修理を掩護中であつた我が五ノ
井部隊に対し第三十八師の百十三旅の一部隊が突如不法射撃を
加へた結果遂に我が救援部隊と交戦状態に入り、我軍の地上及
び空中よりの攻撃によつて支那軍は郎妨を撤退、散り散り、バ
ラバラになつて退却したのであるが、之で今日まで我に対して
中立的態度をとつてゐた第三十八師の一部も遂に敵対する事と
なつた訳である。

  由来支那軍の統制力は非常に悪くて上の命令が仲々下に通じない
 のであつて、そのために上の者の意図に反して脱線的行為をする部
 隊が少くないのである。之は兵の素質が悪いのもその一つの原因で
 あるが元来支那人は兵隊になる事を非常に忌み嫌つて居て、一般の
 軍隊では文字の読める兵隊は十人に一人位しかゐないのである。近
 頃は政府の努力により多少字の読める者が増えたとは言ふものの智
 識の程度は相変らず低く、世界の大勢などは愚か日本と支那との関
 係すら弁へて居らず、唯教へられるがまゝに、抗日へ、抗日へと進
 んで居るのである。長官は部下に対して「倚らしむべし知らしむべ
 からず」といふ方針で臨み、自分に都合の好い事だけを教へて居る
 から、兵はそれだけを信じて居るのである。勿論新聞などは読む暇
 もなく、又その能力も無い。
             ×               ×
 一方軍隊の内には党部があつて、常に兵に対して国民党の宣
伝をやつて居る。
 その宣伝は「支那は非常に強くなつた」「列国はみんな支那を
助けてくれる」「日本は決して強くない、列国はみんな日本を憎
んでゐる」といつたやうな具合のものであるから、隊長の指導
と相まつて頑強な抗日振りを発揮するであらうことは、火を睹
るよりも明らかである。そこで隊長や長官が、日本と協定を結
んだ場合でも、決して自分の方が悪かつたとか、負けたとか、
或は不利だつたといふやうな事を部下の軍隊に言ふ筈が無い。
例へば宋哲元が香月司令官に陳謝の意を表したとしても、之を
部下の将校以下に何と言つて伝へたかはまことに疑問である。
又張自忠が日本との協定に調印したと言つても張自忠自身が部
下に向つて決して一方的に支那が責任を負担するのだといふや
うなことを謂ふ筈はないと思はれるのである。であるからこそ
張自忠の部下軍隊の中から我軍に対して不法射撃をするやうな
者が現はれ郎妨事件の発生となるのである。もしも宋哲元、張
自忠等が日本側に対して並べて居るやうな気持ちが部下軍隊に
徹底して居つて、そしてその軍隊が心から抗日でなかつたなら
ば北支事変は割合簡単に片付く筈であるが、上述のやうな軍隊
の内情であるから、上の者が何と考へて居つても下には徹底し
ないし又上の者が日本に対して言つた事と、その部下に対して
言つた事とは内容に於て相当の相違があるばかりでなく、部下
の軍隊は盲目的に抗日に徹底して居るので、日支両代表がいろ
いろの取極めをしても仲々実行に移されない次第である。この
やうな訳であるから支那を相手に北支事変を和平的の交渉だけ
で片付けて終ふことは非常に覚束ないことだといはなくてはな
らない。   (七月二十六日放送)