梅津、可応欽協定とは

 現在北支の事態は支那側が梅津、何応欽協定を蹂躙
して、続々中央軍の精鋭を北上させてゐる事によつて
一層の緊張が伝へられて居る。この梅津、可応欽協定とは
如何なるものか簡単に解説して見よう。
 去る昭和十年の春頃支那側の、満洲国内部に対する陰謀、長
城附近、支那義勇軍に対する支那官憲の援助、或は北平、天津を
中心として行はれた対日テロ等が続出し、之に対して我が天津
駐屯軍では北支の治安維持と、帝国の権益擁護のため断乎たる
態度に出る事となつて、当時北平軍事分会委員長であつた現国
民政府軍政部長可応欽に対して、厳重通告を発したのであつた。
茲に於て支那側は大いに驚き幾度か折衝を重ねた結果円満に時
局を収拾すると共に、今後再び北支にかかる事態を繰り返さな
いやう、当時の我が支那駐屯軍司令官たる現陸軍次官梅津美治
郎中将と、北平軍事分会委員長であつた何応欽との間に、協定
が成立し、その調印を見たのである。
 而してこの協定の骨子をなすものは『一切の中央軍の河北省
撤退及び反満抗日策動の禁絶』等を規定したものである。河北
省とはいふまでもなく、我が盟邦満洲国と境を接し、北平、天
津等、北支那の大都市はこの省にあるのである。今年四月一日
現在における我が居留民は、天津が一万一千余名、北平が四千
余名で、その他河北省内各地に居住する我が同胞の数は、相当多
く、我が北支権益の中心も又この河北省にあるのである。従つ
て帝国としては我が権益の擁護、居留民の安全其他のためにこ
の梅津、何応欽協定によつて北支の明朗化をはかつて来たので
あるが、十八日午後陸軍省の発表によれば、支那軍第三十二師
及び第五十八師は已に一部を以て保定に、主力を以て河北省南
部に進入し、第三十軍は正定に達したとの事であつて、正に明
らかなる梅津、何応欽協定の蹂躙である。絶対に中央軍を入れ
させないと約束した河北省に続々と中央軍を侵入させてゐる支
那側の態度は全く挑戦的と断ずるの他なく、之によつてもし重
大なる事態を惹き起すに至つても、その責任は挙げて一切支那
側にあること極めて明瞭なわけである。 (七月十九日放送)