張学良クーデターの意義

                      尾 崎 秀 実

 張学良部下による西安のクーデターはまさに青天の霹靂
の感を与へた。
 事件はなほ進行中に属し真相も不明な部分が少くない。
従つて事態の今後の推移については軽々に予断を許されざ
るものがある。
 我々はこの重大事件が支那に齎すべき打撃と、ひいて支
那に入り組んでゐる外部からの諸関係を通じて、世界に及
ぼすべき影響を思つて緊張を感ぜざるを得ない。何よりも
先づ深く感じる点ほ、この事件がいかにも支那式な唐突な
ものとして起つたには違ひないのであるが、これは単に
「発展途上にある」支那に起つた突発的な事件ではなくし
て、実に現代支那社会の持つ基本的な矛盾の端的な表現で
あるといふ点である。我々はかゝるものとしてこの事件の
発生を見る時、この事件の重要性を一層痛切に覚え、事件
の発展に特別な関心を覚えるのである。
 この事件は日支関係の全面的な行詰りの際に起り、役者
が支那社会の最大の人気者蒋介石を対象として起つたこと
のために、日本の新聞には一時に無数に支那からの報道が
入り、このためにかへつて読者の判断を昏迷せしめる位で
あつた。
 事の順序として事件の概略を述べると、
 蒋介石は綏遠問題に対する軍事会議のために大原に赴い
て、こゝで閻錫山等に指令を与へ、転じて済南で韓復と
会見し、十一月十九日洛陽に帰り綏遠善後問題に腐心しつ
つあつたが、その一段落とともに、十二月四日張学良等を
従へて洛陽より陝西省西安に入り、こゝに滞在して西北の
軍政上の重要問題の処理に当りつゝあつた。
 十二月十二日、兵変を起したのは西安常駐の旧東北軍万
福麟の麾下第五十七軍第三十二師常恩沢部であると伝へら
れ、張学良自身はこの計画に引づられたとの見方もあるが、
張学良の通電その他に見て、これは張学良自身の計画であ
ると見ていゝと思ふ。当時蒋介石とともに西安に在つた、
朱紹良、邵力子、朱家膵、(陳誠)、蒋鼎文、蒋方震、蒋
作賓で、銭大釣、(陳調元)、(楊虎城)等中央派の諸要人
もまた悉く逮捕監禁されたと伝へられた。(括弧は不確実)
 張学良は蒋介石を監禁するとともに通電を発し、八ケ条
の要求を南京政府につきつけたといはれ、通電の内容とし
て伝へられたところを要約すると、次の如くである。
「当軍はこゝ数年来中央の命に従ひ辺疆に赴いて専ら剿匪
事業に従事し中国の安寧、人民の福祉増進のため努力し来
つたが、この間蒋介石の南京政府は秕政百出し、まづ対外
的には華北を失ひ冀東、冀察の独立を見、更に綏遠もこれ
に倣はんとす、国民政府は須らく対日宣言を布告し以て外
侮を一掃すべきものなるに軟弱屈節し外交々渉に終始し国
家国民は今や危殆に瀕せんとし見るに忍びざるものあり、
我等はこの概に於て蒋介石の現国民政府を否認し国家の改
造を断行し、外敵を駆逐して東北四省その他失地を回復し、
国家国民の幸福の為め第一線に立たんとするものである」
(天津十三日発同盟)
 所謂八ケ条の要求はこれを詳かにし難いが、この通電が
真ならば国民政府を全然否定する立場をとつてゐるのであ
つて「要求」の余地は無ささうであるが、支那の場合には
後述するが如く要求の余地は存するのである。要求の中で
知られてゐるところは次の三点である。
 一、対日軍事宣戦
 一、満洲(東三省)の失地回復
 一、容共政策の回復
 国民政府は西安事件の報に狼狽措くところを知らず、南
京に於いて緊急中央常務委員会、中央政治会議を十二日夜
から朝にかけて、次々に開催、孫科、戴天仇、張群、張継、
何応欽、朱培徳、程潜其他存京の要人悉く出席し、次の如
き決議を行つた。
 「行政院は孔祥熙が責任を負ふ、軍事委員は五人より七人
に増加し何応欽、程潜、李烈釣、朱培徳、唐生智、陳紹寛
等六氏を常務委員会の責任者とし、軍隊の指揮に関しては
何応欽に一任する、張学良の本兼各職を褫奪し同軍隊は軍
事委員会の直接指揮下に置く」(『朝日』十三目上海特電)
 張学良の本兼各職の褫奪命令には次の如く記されてゐる。
 「十二日張学良の反国通電を発せられたるは甚だ痛恨の限
りである。察するに彼の奉職は無常にして中央は外侮頻り
に至り剿匪将に終らんとする際、軍隊統帥の地位にあり、
且剿匪の重責にありながら上長官に謀叛すること実に暴虐
無道である。張学良の本兼各職を免職してその軍隊は直接
軍事委員会の指揮下に置くものである」
 国民政府痛憤の状思ふべきである。
 かつて東北失地の責任者として鞭打たれた張学良は、今
蒋介石を、抗日戦を回避する漢奸として攻撃してゐるので
ある。


      二

 この種の非常手段は旧支那軍閥の間に於てはしばしば行
はれた常套手段であつた。張学良もまたその経験者である。
一九二九年、張作霧の死後、目の上の瘤であつた楊宇霆を
誘ふて常蔭槐とともに一挙に葬り去つたことは、人々の記
憶になほ残つてゐるところであらう。
 しかし蒋介石と張学良との過去の密接なる関係を回想す
る時、多少の感慨なきを得ない。張学良はかつて蒋介石を
信頼するところ厚く、一九二九年の暮各種の反対を押切つ
て東三省に青天白日旗を掲げ、進んで国民政府との妥協を
敢行せる時の如き、また一九三〇年閻錫山、馮玉祥等が反
蒋の軍を起し北平に拡大会議派の政権が成る時、張学良は
徐ろに形勢を観望した後、疾風迅雷的に武力調停に乗り出
して大勢を決せしめたのであつた。かくて蒋の陸海空軍総
司令に対して副司令をかち得、相携へて支那の統一の先頭
を切るかの如く見え、蒋張両者の関係は緊密なるものに見
えたのであつた。併しながら九・一八事件以後張は東三省
の地盤を失ひ、奉天から錦州へ、錦州から北京へと移り一
九三三年熱河戦後、塘沽協定成立後、蒋に因果を含められ、
一旦下野外遊の余儀なきに至つた。帰国後漢口に置かれ、
剿匪副司令として共産軍討伐に当り、昨年来更に西安に移
つて最も苦難な事業をあてがはれてゐた。東北軍十五万を
率ゐて東三省をあてがはれて以来その経済的地盤は次第に
失はれルンペン軍閥の悲哀を具さに嘗めさせられて来たの
である。西北の辺陲に転戦して、かつての華麗を誇つたそ
の軍の装備は無惨にも失はれ、最近に於ては共産革との戦
闘で兵力は減少し、飢餓と、寒気に悩まされる有様であつ
た。加ふるに将士は東北の故山を想ひ、失地回復の夢を描
くに対して、全国的に瀰漫する抗日意識はいちじるしく油
を注ぎかけたのであつた。この時に当つて共産軍の、内戦
をやめてともに日本軍に当るべしとの主張は軍の下層部を
動かし、張学良軍が次第に戦意を喪失しつゝあつたことは
事実であると思はれる。
 張学良軍の態度、怪しとの情報は既に今夏来しば/"\伝
へられたところであつて、蒋介石の今次の西安乗込みはこ
れに対して断乎たる手段を講ずることを目的としてゐたも
のと想像される。張学良麾下の赤化部隊の処分と、同時に
陜西の中央化がはかられ、中央系の蒋鼎文は西北剿匪前敵
司令に、衛立煌は山西、陝西、寧夏、綏遠四省辺区総指揮
に任命された。張学良軍の福建移駐も伝へられてゐた。か
つての東三省王の豪華な夢を回想しつゝ、ルンペン軍閥に
転落した張学良が乾坤一擲の大芝居を試みたことはまこと
にあり得ることである。彼及び彼の周囲の軍閥にとつては
抗日の旗印は単に人気のある題目を選んだに過ぎないであ
らう。それはかつての西南軍閥の場合と同様なのである。
 蒋介石の運命については、張学良が楊宇霆を解決した手
口から見て、既にこれを斃したであらうとの見方もあるが、
恐らくはこの絶大に有力な人質をめぐつてなほ南京との間
の取引が行はれるであらうと思はれるのでなほ生存せしめ
てゐると想像される。前掲の張学良の通電と南京の通電な
らびに決議を見ると、既に戦闘による解決以外に道なきが
如き観があるが、そこは支那流の取引である、なほ幾多の
曲折があるものと思はれる。


      三

 蒋介石が失はれることは何といつても南京政権にとつて
は重大なる打撃である。
 蒋介石の南京政権における独裁的地位は今更ら云ふ迄も
ない。彼は軍権と、党権と、金権とを一身において繋いで
ゐるのである。
 蒋介石が独裁化の道を進み得た根本的な理由として自分
はかつて次の四点を挙げた。
 一、蒋介石政権が支那の新興資産階級、特に上海を中心
  とする浙江財閥の全幅的支持を得来つたこと
 二、世界経済における支那の重要性はこれに働きかける
  列強をして、一応市場としての支那を安定せしめるた
  めに、支那における中央政権の樹立を希望したこと
 三、蒋介石が、その軍権を把握すると共に封建的支那社
  会に特有の勢力を有する秘密結社を利用助長し、一種
  の強力政治を強行したこと
 四、国民党部を把持しつゝ、民族運動の旗手であるかの
  外観をなほ一部民衆に示し来つたこと。(『日本国際年
  鑑』一九三六年版、カレントトピックス、拙稿「蒋介石政権
  最近の動向」)
 南京政権の外形的な国内統一は、この一両年来急速な進
展を見せ、一九三四年十一月の共産軍江西退出以来、これ
を追撃する貌に於て貴州、雲南、四川へ手を伸し土着軍閥
多年蟠踞の地盤をくつがへして中央の命令系統に入れ、こ
とに本年夏には多年一敵国の観があつた西南政権との抗争
に於て勝利を得、蒋介石の威令頗る行はれ、今や憲法の施
行によつて憲政期に入らんとする状態にあつた。一方南京
政権の経済的地盤たる支那の新興財閥は、全国的にその支
配網を拡大したのであるが、一九三四年来の全国的経済恐
慌の結果総体的な破綻に源した。その最大の理由は内債の
厖大なる負担の結果であつたが、結局に於いて従来の南京
政権に対する支配的地位を棄て、南京政権との縫合癒着の
域に入ることによつて自らの血路を開いたのである。この
結果として、支那の新興金融財閥に於ける蒋介石の現在の
地位は、最近の国際状勢、特に日本との関係の悪化を契機
として構築されつゝある人民戦線に対して、国民戦線の組
織者として、特に重要なる役割を演じつゝあつたのである。
 国民戦線に於ける指導者の役割の特別な重要性について
はドイツ、イタリーの例を引くまでもなく明瞭である。更
に蒋介石の重要性は、支那の半植民地的状態の一層の深化
とともに、列強に対する依存関係を深め行くに際しますま
す加はることゝなつて来たのである。最近においては英米
の南京政権に対する財政経済的援助は積極性を加へつゝあ
る。英米にとつて南京政府の代理人としての蒋介石の地位
は一層重んぜられねばならなくなり来つたのである。
 しかしながら、今日蒋介石政権の名によつて呼ばれるま
でに蒋介石個人の力量を重要なる主柱として存立してゐる
南京政権ではあるが、今突如として蒋介石を失ふことによ
つて直ちに南京政府の瓦壊を来すとは全然考へられない。
支那の新興金融財閥(こゝにいふ金融は、銀行、銭荘等を
綜合していふのであつて、高度資本主義社会における金融
資本と性質を異にすることはいふ迄もない。)は前述の如
く既に南京政府とは縫合されてゐるのであつて、今更これ
を見棄ることは不可能である。英米もまた、支部の「統
一」の破綻を極度に惧れ、南京政府に対する援助を今更ら
打切ることはなし得ないところである。否寧ろ南京政府と
しては、この大難に直面して益々自己の無力を悟るととも
に、英米に対する援助を求むることは一層切実なものがあ
るであらうから、(宋子文の懇請によつて開かれたイギリ
ス銀行代表会議は国民政府支持を決議したと伝へる。 ― 
十三日上海電報)この事件を通じて南京政権の英米に対する
依存関係は一層進むに違ひないのである。
 支那は今日半植民地であると同時に封建的関係を多分に
保持してゐることをその社会の特性とする。
 支那における軍権の問題は蒋介石を失ふことによつて南
京政権に投げかけられる最大の難問であらう。地方的権力
者は大むね封建的軍閥の性質を帯びてゐる。それらは自己
の経済的地盤を有し、かつては中央に対し露骨に一敵国を
形作り、一種の経済的内戦を南京政権の経済的地盤に対し
て行ひ来つたのである。湖南の何鍵、貴州の王家烈、雲南
の龍雲、四川の劉湘以下の弱少軍閥、広東の陳済裳、広西
の李宗仁、白崇禧の徒、山東の韓複、山西の閻錫山、綏
遠の傳作義、冀察の宋哲元、冀東の殷汝耕等その程度と勢
力の差こそあれ、一様に南京に対する経済的対立状態に立
つてゐたのである。南京政府の政治的統一によつてその多
くは対立状態を解消されたりとはいへ、なほ根本的には解
決を見てはゐなかつたのである。蒋介石の没落はこの点に
おいて恐らく最大の支障を受けるであらう、殊に今後はこ
れらの多くはその封建的関係を基礎としつゝ帝国主義との
結びつきを一層強めることによつて、南京政府との対立関
係を深刻にして行くことと思はれる。


          四

 張学良の今次の企図は果して成功するであらうかといふ
問題は、前述の点によつてほぼ明かであらう。即ち張学良
がそのクーデターによつて、直ちに南京政権を打ち倒し得
べしと考へたとすれば、その野望は到底実現し難いものと
思はれる。南京政府が多年一枚看板として来た統一国家建
設のスローガンは、列強の圧迫下に最近いちじるしく濃度
を加へ来つた国家意識、民族意識の昂揚と相まつて民衆の
間に南京のこの政策に対する支持をかなり多く繋ぎ得てゐ
るのである。勿論人民戦線派の如きは蒋介石のまづ内に隠
忍して、徐ろに抗日を準備すべしとの主張のごまかしであ
ることを主張してはゐるが(前漸江銀行副経理章乃器等の七月
中旬に発した宣言)、蒋介石政権の、西南問題の解決、幣制改
革の成功の如きは同政権が国内統一のために努力するもの
として、かなり広く支持せられてゐることは否定し難い。
従つて張学良の「抗日」が単に自己の軍閥的野望達成の手
段として掲げられた旗印である限り、彼が国内統一の破壊
者、一種の 「漢奸」として恨み憎まれることは当然である。
かつて西南派もまた抗日の大旆をかざしたが、蒋介石の国
内統一の主張の前に破れたのである。
 張学良のこの一挙は確かに支那における人民戦線を分裂
せしめる危険性を直接胎んでゐる。支那における人民戦線
運動は最近「抗日」を目標として急速に発展した。人民戦
線派は蒋介石が最も危険な敵であることを充分承知しつゝ
も、擡頭する民族意識の満潮に乗じて国内統一の問題をも
内に包摂しつゝ、国民党をも含めた広汎なる人民戦線を構
築しようと努力して来たのである。実際問題としても、今
日国民党の影響下に立つ民衆を除外しては強力なる民族運
動に発展せしむることは困難であらうと思はれる。この点
から見て張学良のクーデターは共産党と聯路ありと見られ
てゐるだけに、国民党の影響下に立つ民衆を左翼から分離
せしめる危険性を持つてゐるものといはざるを得ない。
 しかしながら共産軍の立場から見ればそれは成功だとい
ひ得るであらう。共産軍は一九三三年一月十四日宣言を発
して蒋介石が日本の攻撃に抵抗せずして却つてその軍隊を
挙げて同胞を殺傷することを難じ、三つの条件を挙げてこ
れを容れる如何なる軍隊とも協同する用意あることを発表
したが、一九三五年夏のコミンテルン第七回大会が植民地、
半植民地における反帝統一戦の重大性を強調したのを受け、
中共中央は『抗日救国のために全国同胞に告ぐる書』に於
て、国防政府の樹立を提議し、国民党軍隊に対して提携を
持ちかけた。今日軍閥張学良の意図がいづれにあるにせよ、
その軍隊内部にこの主張に共鳴するものを生じその下から
の圧力がクーデターの原動力となつたことは恐らく事実で
あらう。過去の経験に徴するも共産軍は従来支部の軍閥の
抗争の爆発毎にその勢力を拡大してゐる。今次の事件によ
つて朔北にちゞまつたその勢力が拡大することは必然の帰
結であらう。
 もしも張学良がその宣言の如き性質の権力を樹立するな
らば共産軍はかつて一九三三年十二月江西時代に福建人民
政府との間に結んだ如き協定を結んで提携を辞せないであ
らう。
 南京政府と日本との関係は、日支交渉の行詰りも、綏遠
問題も一挙このクーデターによつて吹き飛んだ観がある。
新聞は早くも内蒙軍が無抵抗に百霊廟を奪回したと伝へて
ゐる。北支の地方的実力者は欲すると欲せざるとにかゝは
らず南京からの圧力の減殺と反比例して日本に接近するこ
とゝなるであらう。
 而して南京政府自体と日本との関係は、一方において南
京政府はます/\英米依存の度を加へつゝも政府自体の一
層の無力化のために、日本に対しても勢ひ聴従せざるを得
なくなることゝ思はれる。
 以上の如き解釈は一見日本にとつて総べて好都合である
と予断する如くとられるおそれがあるが、決してさうでは
ない。真の問題はそれよりも更に一層広く、かつ一層深い
処に横はつてゐるのである。今日支那に於ける抗日意識の
深刻なることはかつての東北の大軍閥、張学良をすらその
戦線の内に捲き込む程に及んでゐることを思ふべきである。
支那に於ける戦線を截然二つに分つとともに、日本自らそ
の一つ、人民戦線と対峙することゝなるであらう。「防共
協定」の意義はこゝにはつきりと具体性を帯び来るのであ
る。


         五

 国民政府はこの事件に直面してあたかも、支那の統一と
建設とがこの突発的事件のために挫折したかの如くに深い
怨恨をこめて述べ立てる。しかしながらそれは決して偶然
でもなければ、突然でもないのである。それは実にたまた
ま支那社会に内在する矛盾の一端が爆発したに過ぎないの
である。
 今日国民政府の代弁者たちは
 「十年前には支那は八千キロの鉄道しかなかつた。然るに
今日は一万三千キロの鉄道がある。一九三〇年における貨
物輸送は二千五十万屯であつたが今日(一九三五年度)で
は三千二百七十万屯である。
 自動車路は今日九六、三四五粁で目下開設中のものは一
六、○○○粁である。
 支那の航空会社は一九三五年に一万人の旅客を運んでゐ
る。
 農村に於ける施設も行ひつゝある、農村における合作社
の数は二万六千で内一万二千は過去一年に作られた。」と
語り、
 その他、幣制改革における「完全なる成功」、政治上に
おける国内統一の完成、等々が述べられてゐる。それはし
きりに欧米に於て放送宣伝されてゐる。ひとり支那人によ
つてのみならず、ヴァンデルヴェルデ、ライヒマン、ソル
ターの徒によつてしきりに宣伝されてゐるのである。
 ところで一支那人は次のように云つてゐる。
 「全中国の主要なる経済動脈(財政、金融、水陸交通等)
は悉く帝国主義者の操縦するところである。植民地民族工
業の発達は列強の利益と直接の利害の衝突を来すので種々
の経済並に政治上の力を用ゐて民族工業を阻止してゐる。
支那の関税は表面は独立だが実は帝国主義者の牽制を受け
て、その利益のために一種の協定関税をなしてゐる。到底
民族の幼稚な工業を保護する作用など営み得ない。支那の
大工場は大部分外国の資本に属し、鉄や、石炭等の重要原
料は悉く外国商人の手に握られてゐる。農村はどうかとい
へば資本主義が入りこむ余地の無いまでに封建的搾取下に
置かれてゐる。銀行は工業とは離れて、土地、公債等の投
機利潤のみを追ふて居る。汽車、汽船、飛行機等は勝手に
列国が持ちこんだもので、民族工業とは全く無関係なもの
である。列強が貨物をダンピングし内地から人民の血汗を
吸ひとることにのみ役立つてゐる。」(孫冶方「中国社会経済
機構底性質」『中国農村』第二巻第十一期)
 かくの如き状態に於て果して真の「統一」が存在し得る
であらうか。
 本誌前号に於て藤枝丈夫氏は「統一されたる支那」が如
何に真実と遠いかを指摘してゐることは正当な主張である。
否、我々は支那の統一が真実であるか否かについて贅言を
必要としない。張学良のクーデターこそは最も雄弁に真実
を語るものであるから。
      (『中央公論』新年特大号、昭一二・一)