七三   ドイツの日本観と我が国民の皇室観念   文学博士 芳賀矢一

 余がドイツ留学中、或年の天長節の祝宴に、日本の近世史に関係があり、日本の勲章を帯びてゐる男爵ジーボルト氏の演説を聴いて、その中の一節に感じたことがある。同氏の言は、『西洋各国の革命は、国王に対する不満から起つて、その結果はいつも王室が権威を縮小し、或は全く顛那するのであるが、日本のは、これに反して、政変毎に皇室の稜威(みゐづ)を益し、繁栄をを増進する」といふ意味であつたこれは如何にも能く我が國體が、万国に異なつたことを言明したものといはねばならぬ。
 かの大化改新といひ、明治維新といふ政治上の二大変動は、我が国なればこそ極めて容易に成就して『雨降つて、地かたまる』といふ結果が得られたのである。新しい文化に接して、これを採用する必要の生じた時、制度改正の詔勅が一度渙発すれば、祖先以来の領土領民も差出し、既得将来の権も亦悉く打棄てて、唯唯諾諾として大命を承けるといふことは、決して外国人には有り得べからざる事実である。これであればこそ、我が国民は万世一系といふ國體を維持し、時代の進歩に伴つて進歩したのである。斯ういふ場合には、外国では必ず国王と人民との衝突を免れない。一旦人民と衝突すれば、国王がさん/"\な目に逢はせられた例は枚挙に遑がない。国外へ出奔するといふ位は愚なこと、終(つひ)には刑場に引出されて断頭台上の露と消えるといふ英国仏国などの歴史には、幾らもあることで、これは日本人の目から見ると殆ど信ぜられない沙汰であつて、小学から中学にはひつて、初めて外国の歴史を学ぶものは、何人も必ず外国史には惨酷無道のことが多いのに驚くに相違ない。
 元来革命といふ語は、『天之命革而四時成』といふ語から出たので、支那人は昔から、天子は、天の命を受けて百姓を治めるものだといふ思想を根本としてゐる。それ故に聖人賢者たる以上は、誰が代つて天子になつても構はないのである。これが為に歴代二十五朝、長い朝廷でも、三百年とは続かない。その時には、天の命が革(あらたま)つたものと覚悟して、平気で新しい天子を戴いてゐる。かういふ国々には、決して大化の改新や明治の維新のやうな改革が行はれる筈はない。イギリスの貴族は、今でも大きな領地を持つてゐる。ドイツの国も、然(さ)うである。日本国民の皇室に対する考へは、古今東西全くその類例がない。
 西洋諸国の帝王も、支那の天子も、国民の間から起つて、若しくは権力を以て、若しくは輿望を以て、遂に帝王の位を贏(か)ち得たのである。素性を洗い、祖先を正せば同等の国民である。これが諸外国民の王室に対する考へであらう。日本人は、皇室をば我々国民とは一種別なものと見てゐる。支那には『王侯将相寧有種』といふ語があるが、日本人は、帝王といふ位は国民の決して覬覦すべきものでないと、誰も教へはしないが、祖先以来然う考へてゐる。長い歴史の中には、皇家に弓を引いた者も無いではないが、天子の位をねらうやうな考(かんがへ)は決してない。『大日本史』には源義朝や、源義仲が叛臣伝に入れてある。これは天子に向つて敵対したことの大義名分を正したので、是等の人は、別に深い考のあつた謀反人ではない。何(いづ)れも皇室の寵を失つた悔しまぎれに、手向した乱暴人に過ぎない。多くは朝廷の或官位を得たいと思ひながら、それを得られぬが為に騒動を起して我儘を徹さうといふ輩で、同じく反臣と雖も朝廷の尊さを忘れないものである。平将門も、亦検非違使になれなかつたが為に謀叛したのである。たゞ一人弓削道鏡といふ坊主が、仏法、王法を一つにして、自分がその位に坐(すわ)らうといふ不届な了簡を起したが、忠誠な臣民の声は八幡の神託となつて、忽ちこれを排斥した。その外には、一人も無い。藤原氏が廃立を行つたといつても、自分の女の生んだ皇子を、皇位に即(つ)かせたいといふ慾望でこれが即ち人間としての最大欲望であつた。その欲望さへ達すれば、
  この世をば我が世とぞおもふ望月の欠けたることもなしとおもへば
といつて、大満足したのである。

(『国民性十論』に拠る)