二六政治家の大欠点杉浦重剛

 世の中に於ては、種々流行語がある。政略なる語も亦普通流行語の一つとして、別段其の意義を解釈しなくとも、常識ある者の既に能く知つてゐる所である。けれども其の用法に至つては、或は之を誤まり易きの通弊がないでもないから、此処に聊か余輩の見る所を述べて、以て政治社会の人々に対して警告しようと欲するのである。
 余輩の第一に注意する所は、外交政略にあつて、此の場合にこそ真に政略と称すべきものがあるを認める。蓋し政略なるものは、商業上の所謂掛引なるものであつて、其の拙いものに至つては、卑劣聞くに堪へないものがないでもない。けれども是れ畢竟古の武士道的の眼を以て観察を下すから、斯ういふ感情を起すことがあるとはいへ、今日世界に普及してゐる所の政略なるものは、決して武士道的に観るべきものではなくて、商人流の掛引を拡げたものと解し、之に応ずるの方法手段を講じて、以て自衛の途を尽すは、今日の世界に立つて已むべからざる所の勢である。
 今日、政界の実際を観るに、往々児戯に類することのみ多くて、外国に対する上に於て政略と称すべきものの実行せられつつあるは、殆ど認めることが出来ないのを何としよう、そして内治上に於ては却つて時々小政略が行はれつつあるを見るは是れ内外軽重の別を忘却したのでないかとの惑が起こらざるを得ない。
 余輩を以て之を観るに、所謂政略なるものは、之を内治上に施すの必要を認めない。何となれば、則ち我が国の忠勇義烈なる其の相互の関係上に於ては、所謂武士道を以て相見るを得るからである。此の単純な政治の大主義があるにも拘らず、故意に所謂政略なるものを誤用するを以て却つて徒に紛糾を来し、複雑な現象を呈するに至らしめるのは、是れ決して政略ではない。思ふに、我が國體は、自然此の武士道なるものを涵養するのが原動力であつて、今後益々此の精神を発揮するの必要があることは、今更喋々するを俟たない所であれば、此処に著眼して経世の基礎を定めるのは、是れ政治家の本領ではあるまいか。
 斯ういふ利器を具へてゐながら、之を応用することが出来ないのは、政治家の一大欠点ではないか。若し大度量を備へた政治家あらば、必ず此処に著眼して国民を誘導するに相違なく、其の労すること少うして、效果の多かるべきは余輩之を断言するに躊躇せざるなり。而して余輩の之を言ふ、必しも在朝の政治家のみに対して

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