二 日本人の性質              文学博士 三 宅 雪 嶺

 日本人は、如何なる性質を有するか。言を作す者多くは言ふ、『淡白なれども思慮を闕(か)き、快活なれども忍耐なく。怜悧にして一時を善くすれども、意志弱くして遠大の経営に堪へず』と。かく初より一定せるが如く認めて、その真に然りや否やは全く措いて問はざるなり。由来江戸児(えどつこ)は闊達を好み固執を悪(にく)み、宵越の銭を持たざるを誇ると称せらるれども、地方によりては全く之と反対にして、多少資産を有する者も、幼(おさなき)より外に出でゝ丁稚奉公をなし、帰りて専心商業を営み、既に財を積みて尚ほ節倹を旨とし、矻々(こつこつ)黽勉(びんべん)して怠ることなく、たとへ支那人と雑処して厘毛の争(あらそひ)に従事すとも、決して彼に輸(ゆ)せざるべきものあり。一概に日本人を評するの当らざる、また以て想察すペし。
 社会の変動に際し、人々業務を転じ、競ひて旧を捨て新に就くは蓋し已むを得ざる所なり。王政維新は著大(ちよだい)なる変動といふペく、此の前後多様の事変ありて、士の工と為り農の商と為りたるもの数ふるに遑あらず。然れども之を以て、必ずしも転変を好むは其の性質なりと謂ふべからず。幕府時代、百年二百年業を世々にするが常なりき、更に歴史に溯りて通観し、英雄豪傑を択びて其の時代を代表せしめても、同時代に駢(な)び出でたる者、頗る性質を異にせり。其の孰れを採りて当代に於ける日本人の性質とすべきか。
 平清盛と源頼朝とは略(ほ)ぼ時代を同じくせしもの、然も傾向の斯くの如く相違せるは少し。清盛は感情に馳(は)せ欲念を縦(ほしいまゝ)にし、時に大に喜び、時に大に怒り、少(すこ)しく順境なれば意気揚々乗じて止まる所を知らず、少しく逆境なれば懊悩煩悶、復た従容として事を図るに堪へず、近臣をして藤原成親を笞(むちう)たしめ、壁を隔てゝ其の泣声を聴き、喜びて可と言へる、以て其の子供らしきを見るべく、後白河法皇の挙措(きよそ)を怨み、己が功の大にして然も罪せらるゝことの非理なるを訴へたる、以て其の直情を見るべし。而して清盛に看る所は、平氏を通じて看る所にして、当時の平族は皆幾許か此の風を帯びざるなし。独り重盛は除外例なるが、其の除外例なるが為に同族の間に容れられず、為に憂悶して早く薨ぜぬ。総じて一時を快(こゝろ)くするに急に、徐(おもむ)ろに前途を慮(おもんばか)るが如きことなく、所謂驕る者久しからずして滅びたりき。
 頼朝は則ち然らず。喜怒色に形(あらは)れずして、事を成さんとするに必ずまづ其の前路(ぜんろ)を考慮し、或困難の横はれるを知れば、機会の乗ずべきありと雖も之を軽々しくせず。富士川の平氏と対陣し、水禽(みずどり)の乱れ飛びて敵軍を潰走せしめし時、彼は勢(いきほひ)に乗じて直に之を追はんともせず、静に軍を纏めて鎌倉に還れり。義仲を討ち、平氏を覆さんとせるに当りても、二弟をして軍を帥ゐしめ、己は容易に出でざりき。梶原景季の生唼を乞ふや、乃ち磨墨(するすみ)を与へ諭して言ふ、『他(た)は我が乗に充てんとする所なり』と、而して佐々木高綱の来り見ゆるに及びて之を与へたり。総てを指揮して己が最後に勝を占めんとせる所、一挙一動に於て歴々見るべし。平氏既に滅びて共に功を争ふ者亦斃れ、以て心思を勞すべき者跡を絶つに及び。乃ち大に士卒を集め列を正して京都に参内せぬ。其の二弟を殺して枝葉を芟(か)るが如き、一見浅慮の所為なるが如くなれども、実は将来を慮ること深きに過ぎ、過きたるの猶ほ及ばざるが如くなりしのみ。
 源氏の一門は、其の性格に於て多く之に類似す、独り義経は群を脱せしが、其の群を脱せしが為に、異彩を放ちて早く斃れたり。源氏の後を受けし北條氏も亦同様の傾向あり。其の刻苦忍耐喜ぶべきを喜ばす、怒るべきを怒らず、偏(ひとへ)に抑損して以て成功を待つ所、特色明らかに知られたり。平氏彼の如くにして源氏及び北條氏此の如しとせば、果して孰れを採りて当代に於ける日本人の性質とすべきか、
 人或は楠木正成の湊川に戦死せるを難じて浅慮なりとし、日本人の動(やゝ)もすれば、一時を壮にせんとして為に大功を遺(わす)るの弊あるを説く。一般の日本人に就いては姑(しらら?)く言はず、正成の死は果して一時を壮にせんが為めなりしか其の初に郷を出でし以来、事を為す皆順序あり。赤坂に城(きづ)き千窟(ちはや)に転じてより、北條氏仆れて足利氏興り更に討伐の師を率ゐて之に対せしまで、常に能く成し得ペきを見て後、事を挙げ、嘗て一たびも僥倖を希ひしことあらず。謀るや周密、進むや必勝なり。然も敗を期して湊川に赴きたる、萬已むべからざる事情の存せしが故ならずや、即ち己の門地を似てしては到底是れより外に出づる能はずと覚知せしものにして、忍ぶべきを忍び、堪ふべきを堪へ、他に取るべき途なきに至り、断々乎として身を以て殉じた るなり。若し斯くの如きを浅慮とせば、浅慮の意味は全く判明を闕かん。固より正成をして足利直義の如く奸黠(かんきつ)ならしめば、此の際に処して命を捨てざりしなるべし。蓋し正成の如きは、善く耐ふると善く断ずるとの中を得たるものと謂ふべきなり。
 豊臣秀吉と徳川家康と、亦時代を同じくして然も性格の相異なるものなり。秀吉は善謀善画、必勝を期して然る後に起てり。明智光秀を討ち、柴田勝家を討ち、北條氏直を討ち、島津義久を討ちたる、皆予じめ全勝を期したるにあらざるはなし。其の独り朝鮮を討ちて功なかりしもの、全く外国の事情に明らかならざりしに坐 す。寧ろ報告者の過失といふべきのみ。斯く事を起すに、必す成るべきを見て初めて起ちしかども、偏に成功に急にして、たゞ勝を得ば則ち可なりとし、復深く他を問はず。躬自ら越後に赴(おもむ)もて上杉景勝と誓へる、蒲生氏郷に百二十万石の大封を給(きふ)せる、徳川家康に関八州を与へたる、以て其の泰平を致すに急なりしを観るべく、其の当時に不平を懐く徒なかりしは勿論なれど、斯くの如くにして永く平和を保持 し得べきかは少しく怪しむべし。彼は陣に臨む毎に必勝の算を有したれど、累次勝を制せる後を如何にすべきかには深く想ひ到らざりしなり。朝鮮を討ちて能く功を 収めざりしかど、たとへ戦勝ちたりとて、其の後を処するは頗る困難なりしならん。然も彼はまた自ら図るの疎大なるを知れり。故に其の病みて起つこと能はざるを知るや。諸侯の中に思慮最も周密なりとせられし家康に大事を託せんとし、然も権力の遂に誰が手裡に帰すべきかは深く意とせぎりき。其の意気の落々として拘らざる、寧ろ快とすべきなり。
 家康は然らず。彼は案外険を冐(おか)すに勇にして、数々(しばしば)穴に入り、織田信雄の来りて援を乞へるや、直に起ちて秀吉と戦(たゝかひ)を開き、兵数を計れば彼の衆にして我の寡なるは瞭然たりしかど、斯かることは敢て問はざりき。また上杉景勝を討たんとして宇都宮に向ひしや、石田三成が旗を揚ぐと聞いて直に帰途に就き、倉皇(さうくわう)として美濃に出(い)で、寡兵を以て即時戦を開始せり。当時小早川秀秋の内応あるは固より期せる所なれども、其の進退の跡を察すれば、頗る冒険的行動なりと評せざるを得ず。斯くて時に臨みて冒険的行動を演ぜしにもせよ、全躰を通じて観れば、寔に熟慮深謀、所謂石橋を叩いて渡る類の人と謂ふべく、常に忍びて少しづつ進み、絶えて功を成すに急なる形(かたち)なかりき。人あり、嘗て氏郷に向ひ、太閤百歳の後、何人か天下を得べき』と問ふ。氏郷答へて言ふ、『前田利家に非すんば則ち我』と『然らば家康は如何』と問ふ。答へて言ふ、『吝嗇彼が如きもの、如何ぞ之を能くせん』と。当時諸侯の家康を目する、実に斯くの如くなりき。其の斯くの如く目せられしこそ、即ち能く太閤の下に安全を保ち得たる所なれ。常に急がす、迫らず、小功を積みて遂に全功を収め、老齢に及びて頻りに仏に祈り、南無仏の字を書して後生を願へるが如き正に秀吉の為す所と異なるを見る。然も二人者共に一長一短あり、以て遽に是非すベからず。知らず、其の孰れを以て当代に於ける日本人の性質とすべきか。
 要するに、一言にして日本人を評するは思はざるの甚しきものなり。若し評して中(あた)らんことを求めば、更に子細に考察せんことを要す。島国的根性を云々し、小国的人物を云々するは、人を侮り自ら侮るものなり。

(『大塊一塵』に拠る)