一〇 日本の福の神とビリケン   前田不二三

 俗悪極まるアメリカ人の製作物で、真に醜悪極まる、また全く何等の価値のないビリケン、実に見るもけがらはしいビリケンは、近来の流行物の一つである。是れも亦実に愚の極である。是れはアメリカで近頃芸術家の手で出来た福の神といふことであるが、日本には世界に類のない善い福の神がある。日本の福の神を輸出することを忘れて、外国の馬鹿な真に醜悪極まる福の神を輸入して、日本の善い福の神を段々忘れうとするのは、全くその意味の分らないことである。或商人が一時自分の利益の為に輸入しても、一般の世人は之を付和雷同的にまねるべき筈のものではない。ビリケンなるものを一目見たら、その醜悪が分りさうなものではないか。
 日本の福の神は、真の福の神として敵したものである。真の神といふものは、無論一つの記号に過ぎないものであつて、言ひ換へれば、人間の心に幸福を感じて、幸福に向ふやうに刺戟を与へるものであれば、それで宜いので、また福の神としての記号は、然ういふ刺戟を与へるものでなければならぬ。到底高い処に飾つて置いて敬意を表して見るべきものでない。全く劣等なる醜悪なる形状である。何故に日本人は、斯ういふものを福の神として輸入して、斯ういふものを眺めなければならぬ必要があるか。よし、一時仮に商人が自分の利益の為に日本へ持つて来たにした所が、一般の人が少(すこ)しく判断力があつたならば、然ういふものを流行させる筈がないのである。この一例を以て見ても、如何に日本人の判断方[ママ](はんだんりよく)に乏しいかといふことはそれに就いて分る、之も総ての場合に於て言ふが如く、日本の善良なる福の神を寧ろ西洋に輸出して、西洋へ日本の福の神が、どん/\出るやうにした方が、日本の国益である。
 私は考へるに、欧米の事物を盲目的に、ちやうど明治の初めのやうに何でも彼でも輸入せる時代は、実はもう過ぎ去つたであらうと思うてゐた。然るにビリケンの輸入に至つては、更に私は悲しまざるを得ないのである。ビリケンの輸入に就いて何等の判断もなく、外国の福の神であるからといつて、それが善良であるかの如くえらい勢で日本全国に拡がるやうな傾向で、今もやはり日本人が盲目的に欧米の事物を何でも彼でも輸入することを証明してゐるのである。斯くの如き醜悪劣悪極まるものは、早く泥溝の中へ捨ててしまふがよい。

(『欧米の悪影響』に拠る)