二 我が国における産業革命

       ュ 新生産様式の輸入と「民業の保護誘披」

 上述の如く、明治維新の革命によって、封建的身分関係、封建的財産関係は撤廃せられて私
有財産制度は新たなる立法的保護の下に確認され、いわゆる四民平等の原則の下に多数の民衆
 から生産手段と生活資料とは立法的−強制的−に分離され、封建的搾取は拡大された規模
 において資本主義的搾取に転化せられたのであるが、この全転化に物質的基礎を与え、かくて
資本主義的生産関係の発生と発展とを革命的に遂行したものは、実に欧米先進資本主義国の新
 たなる生産様式の採用にあった。
 十八世紀の中葉以降英国を中心として西欧諸国に発達せる近世工場組織による機械制工業が、
我が国において組織的に輸入採用せらるるに至ったのはもちろん明治革命以降の事であるが、
しかしその斬新は既に幕末において見出された0佐賀藩においては、既に嘉永元年(一八四八
牢)、蘭書により製鉄法を攻究して反射炉を造って大砲を鋳造した。鹿児島藩もまた、嘉永年
          よ・フこ・つろ
間より、反射炉、終鉱炉を設けて大砲の鋳造を始め造船機、搾油機、農具等の製造より陶磁器
および硝子器の製作までオランダ式の最新技術を採用した。ことに同藩はまた文久年間に英国
        ガ ラ ス


    すい
より六千錘の紡績機械を輸入して鉄撞石造の綿糸紡績工場を鹿児島城下磯村に建造して、文久
                                    らんしよう
三年(一八六三年)操業を開始したが、これ洋式機械による我が綿糸紡績業の濫鰭をなすもので
                               せんきよ
ある0さらに水戸藩の石川島造船所、幕府の肥前鮮漸が製鉄所および船渠の如きいずれも西欧
の新技術の輸入によって設立せられたのである。
                                       せんしよう
 かくの如く幕末において既に、二、三の進取的雄藩が新機械工業を輸入し、新時代の先縦を
なしたが、明治革命忙より統一政府の成立するとともに、欧米の生産技術とこれに対応する生
                   ゆうえき
産様式および経済組織とは、民業の保護誘液を目的とする新政府により組織的計画的に輸入せ
られた0官営模範工場の主なるものには、横頴賀造船所、小野浜造船所、兵庫造船局、長崎造
船局、品川硝子製造所、富岡製糸所、新町紡績所、愛知紡績所、王子軒鮎湘ヾ朝鮎製絨所、礼
  ぷどうしゆ        ビI〜                        しげき
幌葡萄酒醸造所、札幌麦酒醸造所等があり、民間における新企業を刺戟する所大なるものがあ
つたが、これら各種模範工場の組織整備するとともに漸次民営に移すの方針を取`明治十三

221

 年以降において千住製絨所を除くほかの大部分は民間に払い下げられた。かくの如く一万にお
 いて官営模範工場を設置して直接に工業の発達を刺戟するとともに、他方また絶えず先進資本
 主義国に官吏、技師、職工等を派遣して新知識新技術の吸収に意を用いた。ことに明治五年
 ウィーンに開かれた万国博覧会には、維新草創の際約六十万円の経費を支出して、我が工芸品
を出品するとともに多数の官吏職工を特派して学術技術を研究習得せしめ、我が工業発達上に
大いに新知識を注入する所あらしめた。その他工業教育の普及に、講習所の開設に、勧業博覧
会の開催に、工業試験所の設置に、各種補助金の下附に、かつまた工業諸機械の貸与払下げに、
明治政府が乏しき歳入の主要なる部分を支出して、直接間接に新工業の普及奨励のため尽力せ
る所は非常なるものであった。諸種の封建的制限の撤廃を始めとして、地租改正を枢軸とする
        ちつろく
租税制度の確立も秩禄公債の発行も、一に新工業制度の発展のためであったと言い得る0なお
工業の発達特に重工業の発達と密接なる関係を有する鉱業についてもまた、政府は先ず明治元
                               いくの
年鉱山局を設置して鉱業の発達を保護奨励するとともに、翌二年生野鉱山、佐渡金山、小坂銀
          おおくず  かまいし            あ に
山、三池炭坑、高島炭坑、大葛金山、釜石鉄山、中小坂鉄山、院内銀山および阿仁銅山の十鉱
を政府直営の鉱山に選定し、外国技師を分遣して新生産技術による鉱山経営の範を示したが、
後明治十八年より二十二年の問において三井、三菱、藤田等に払い下げた。
 既に生産手段と生活資料とを独立の小生産者 − 農民および手工業者1から奪い、その生
 産手段と労働力との分離の上に新たなる生産技術1機械1を適用する事によって資本家的
 商品生産発達の礎石を築いた明治政府は、同時にまた、これに対応すべき商業組織なかんずく
 金融組織および通信機関の発達に意識的努力を怠らなかったのは当然である。けだし商業組織
 ことに金融機関の発達と通信交通機関の普及とは、資本家的商品生産発達の〓別提要件たると
 ともに、またこれを絶持し発達せしめていわゆる資本関係を「永久化」するための必要条件で
あるからである。ここにおいてか政府は、明治元年兵革騒乱の際において、既に商法司を置き、
                          かわせ
次いで翌二年これを通商司と改めその下に通商会社および為替会社を組織せしめたが、同時に
 かいそう                             そ つう
回漕会社および開商金社もまた設立せられて通商司に隷属した。為替会社は金融の疏通を計ら
                                           ぴ そ
んとするものにして我が国発行銀行の濫傷をなし、回漕会社は汽船輸送をなす海運会社の鼻祖
                                            こ・つし
であり、そして開商会社は重要商品の定期売買をなす会社組織の取引所の囁矢であった。しか
もこれらが官民合同の下に、三府五港の富豪を出資者とする一種の会社組織1いわゆる合本
  *
組織 − によったという事は、新しき工場制機械生産に対応するものとして特に注目を要する。
だが、もちろんこれらは今日の会社と同一視せらるべきではなく、その事業また数年にして失
敗に帰したとは言え、新しき経済組織の先駆をなすものである。かくて先ず明漁五牢十一月国

222

 立銀行条令の制定せらるるや、これに基づきて銀行の創設せらるるもの四行に及んだが、次い
 で九年八月国立銀行条令が改正せらるるに至って、同時に秩禄の代償として金禄公債が発行せ
                 らんせつ
 られたるとあいまっていわゆる銀行濫設時代をさえ出現するに至った。ことに明治十三年の横
 しようきん
浜正金銀行の創立ならびに十五年の日本銀行の設立によって我が金融組織はようやく体系を
                          マイル
 なすに至った。鉄道は明治五年東京横浜間十八哩の開通を始めとして、官営および民営による
幹支線の敷設は著々進行し、明治二十六年までには延長二千哩余の開通を見た。海運において
もまた、明治五年寄府および諸藩の所有船を集めて日本国郵便蒸汽船会社の成立を見たが、こ
          そう
れより前土佐藩船六槻をもって設立せられたる三蕃会社が、八年九月に郵便汽船三菱会社と改
                                                    *
称せらるるにおよび政府は三菱会社に対し前に郵便蒸汽船会社に貸し下げたる船舶と台湾征伐
                                        さんだつ
 のため詩入した船舶とを合して三十余楷を貸し下げ− (実はうやむやのうちに三孝の纂奪に
任せ岩崎家今日の巨富の基礎となった)‡さらに毎年二十五万円の航海助成金を下附した。
その後政府の三孝会社に対する保護はいよいよ厚きを加えたので、明治十五年資本金六百万円
                                                しよ・つよ・フ
の共同運輸会社が設立されて三菱会社の独占的横暴に対抗したが、ついに両社は政府の懲憑に
ょり十八年合併して資本金一千一百万円の日本郵船会社の創立を見るに至った。そして政府は
初め毎年八朱の利益を補給し、二十年以降は年額八十八万円の補助金を下附した。この間、大
阪商船会社は十七年に創立され、明治二十年四月に開かれた浅野回漕部も、二十九年、六首五
             ようせい
十万円の東洋汽船会社として桶生すべく著々発展を遂げていた。かくて後の三大汽船会社は早
くも当時において厚き政府の保護の下に基礎を固めたのである。その他政府のいわゆる保護誘
接による民業の啓発は、新生産様式、新経済組織の全般にわたって計画的に遂行せられた。