2 矛盾の発展過程



 如上の矛盾は、生産力の発展によってその起動カを与えられ、生産力のより以上の発達が封建的搾取関係によって阻寄せられるに至って、対立にまで爆発された。
 徳川時代においても生産様式は小経営的農業と手工業とであったが、特に農業は封建制度の支柱であった。ゆえに幕府始め各藩とも農業生産力の増進には最も努力を払った。それらの奨励は搾取の鞭とあいまって、稲扱、麦扱、備中鍬、唐箕等の発明、人糞以外に石灰、油槽、干鰯等各種肥料使用の普及、新田の開発と耕地の整理、および栽培植物の多様化等を促したので、生産力は著しく増進された。しかもかくて増進せられたる生産力の果実はすべて「胡麻の油と百姓は、絞れは絞るほど出るものなり」(本多利明『西域物語』)という観念の下に搾り上げられたのである。「百姓を治むるの法は、一年入用の食料だけを残してその余は年貢に取り、彼らの手元には財の残らぬように、かつ不足なきようにすべし」とは、家康の謀臣本多正信の献策せる所にして、実に徳川時代を通じて農民政策の範典として実行せられたところである。「一年入用の食料だけを残」すべしとなす所が、「飢餓の自由」を与うる資本主義制度に比してわずかに勝れているようであるが、実は、享保年間(西暦一七一六--三五年)既に田中丘隅が『民間省要』中に指摘せる如く、「百姓と言う物、牛馬に等しく、辛き政に重き賦税をかけられ、・・・これがために身代を潰し、妻子を売り、あるいは疵を蒙り命を失う事限りな」かったのである。
 かくの如き強取と暴圧との結果は、一万においては消極的反抗となって、「いずれの国の人民も、百姓家にそだちたる輩ら、町人の栄華をうらやんで、ややもすれは、商人になるもの多」きを加えた(新宮涼庭『破れ家のつゞくり話』)。そして他方においては随所に百姓一揆の蜂起を見るに至った。家康の譫言の如く、「百姓の気儘なるが一揆を起す基」ではなくして、本居宣長の喝破したように、「よくよく堪えがたきに至らざれば、一揆はおこるもの」ではないのである。しかも承応二年(西暦一六五三年)におけるかの有名な木内宗吾に率いられた一揆を先駆として、記録に残っている大一揆だけでも、五十余を数うるほどであった。なかんずく、宝暦四年(西暦一七五四年)の久留米騒動には二百余村の百姓十六万八千余人が参加し、文政六年(西暦一八二三牢)の紀州大一揆には十二、三万人が参加した。ことに幕末に至るに従って、一揆は次第に政治闘争的性質を帯びるようになって来た。紀州大一揆の如きは多数の浪人によって率いられていたとの事である。
 小農による集約的耕作は、封建的搾取に最も好都合であったので、土地の兼併を恐れ、寛永二十年(西暦一六四三年)には田畑永代売買禁止令を出し、後さらに一町歩以下の所有者には永世売放しを、四町歩以上の所有者には土地を買い求むることを禁じる等いわゆる限田法を令したが、事実上は次第に土地の兼併が行われた。特に、「凶年にて百姓の迷惑する時には、よき田地、山林、屋敷等を、下直(げじき)に買得(かいどく)しなどして、富人はいよいよ身代よろしくなるものあり、・・・・この富有の民、五十家、百家の中に、「二家ある」(熊沢蕃山『集義外書』)に至った。しかもかつては「いずれの郷村においても百姓の住宅に家らしき家は一軒もなかりしに」、今や貧富懸絶の結果、「いずれの村々にても一廉の家作りの百姓」の現われたるをもって、「もし生きすぎたるにはこれなく候哉」(『地方落葉集』)とて、ますます苛斂誅求をあえてしたのである。
 如上の諸過程を経て農村の疲弊と動揺とはようやく甚だしきを加え、農村人口の減少、耕地の荒廃、施肥深耕の不十分等の結果、土地の生産力は減退して封建制度の基礎は次第に脅かさるるに至った。かくて「武家は大小名にかぎらず、世上一般の不如意より、政事までも破れ、ことに陪臣などは、三割減、あるいは半減、甚だしきはその余にも減知せられ、誠に憐れなる様」(『破れ家のつゞくり話』)となった。「このゆえに君のために忠を尽し、歓んで使わるる家臣は稀になる」(只野真葛『独考論』)は当然の帰結であった。封建的身分制度の紐帯はこの方面からも弛緩せざるを得なかった。
 上述の如く「斂を厚くして百姓を責め絞り」たる結果は、ついに搾取の源泉涸渇し、「領分の融通止りてせんかたなきままに、江戸、大阪に金主を求めて、年頁を町人に分け与えらるる」(『独考論』)に至り、これは、既に参勤交代制その他のため都市生活を営む必要上、「知行の米を売り払いて金にして商人に憑りて用を足さねば立ちがたき」(荻生徂徠『政談』)に至れることとあいまって、武士の生活は全く町人によって死命を制せらるる事となった。のみならず、かくの如く武士が全く町人の金力に従属せる結果は、さらに貨幣のために、町人に苗字帯刀を許し、官職を与え、さらに町人を養子に迎える等の事実を生み、この方面からも、厳格なる封建的----分限的----階級制度はようやく破綻を来すことになった。
 鎌倉時代に一般的萌芽を発した手工業は、室町時代の末期より徳川時代の初期にかけて、支那および欧洲の影響を受け、生産用具や生産技術に幾多の進歩改善を経たが、元禄時代以後においては、ことに急速なる進歩を遂げた。手工業は徳川時代における主要なる生産様式であって、政府の保護干渉を受け、ギルド的組合制度の下に営まれた。しかるに、この組合制度は、手工業生産力の増進、農民の都市移入による手工労働の増加、および商業資本家的家内工業の競争等によって、徳川末期より次第にその封建的制限性は破らるるに至った。
 次に徳川時代においては、新しき生産様式として網および木綿織物の家内工業が発達したが、特に中葉以降においては、一万における農民の窮乏による副業の増加と、他方における商業資本の集中との結果、次第に商業資本の支配の下に行わるるようになった。当時における主要なる生産様式という事はできないが、封建的組合制度による手工業の崩壊を促し、資本主義的工業生産への過渡的様式として注目に値する。なお武士の貧窮とともに、武士の内職として商業資本家的家内工業が厳格なる身分制度の一廓を次第に蚕食していたということは、新しき時代の近きを暗示している。
 上述せる所はすべて交互的に因となり果となりつつその作用を強め、封建制度変革の客観的ないし主観的条件の成熟を促した。特に織田氏、豊臣氏を通じて徳川氏に入るとともに次第に全国的に統一せられたる交通路および貨幣制度の整備、農工生産力の増進等によって発展の新しき素地を得たる商業は、市場、金融投機等の緒経済組繊の相対的発達とあいまって、貨幣に対する全支配権を商人の手に集中した。かくて、「千里控制の権半ばは已にその手に帰」し、「ここにおいてその身公門に鞠躬すといえども、心実に千乗を呑み、その心農工を見ること奴隷の如」き(三浦梅園『価原』)ものあるに至り、封建的身分の制度は、彼ら商人の富の直接間接の力により、根柢から覆えさるべき諸条件の完全なる成熟を遂げた。
 上述の如く、封建制度崩壊の客観的および主観的諸条件は、ようやく具備せられ、今はただこれを積極的破壊力に転化せらるべき直接の動因を必要としただけであった。

二 日本資本主義発達史
 一 明治維新の変革
1 意識革命の進展と外患 へ