2 矛盾の成長



 農業生産は封建的権力の源泉であるにもかかわらず、兵農の分離による非生産的遊閑階級および商工業人口の増加による農業人口の相対的減少と複雑過重なる搾取と支配階級たる武士の農政に対する無関心等とのために、農業の発達には見るべきものがなかった。これに反し、各封地荘園はそれぞれ封鎖的自足経済を行ったがゆえに、各領内にはそれぞれ必要なる武器、農具その他の日用品の製造をなす手工業の発生を見、さらにこれら手工業品と農産物との交換を媒介すべき商業の発達を見るに至った(もちろん始めは商業行為は手工業者によって兼ねられていた)。そしてこれら商工業者は、領主の保護の下に、一方納税献頁等の義務を負担するとともに、他方独占的特権を獲得して、同業者はそれぞれいわゆる「座」を組織して領主の居城を中心に集まった。ここに都市発生の萌芽形態を見るに至った。これらの中のあるものは、他の理由すなわち外国貿易の中心地、国内交通の要路等に発生せる都市とあいまって、近世的産業都市の起原をなすものである。
 封建時代の主要生産物は米であり、かつ租税も米をもって収納されたのであるが、この租米を鎌倉、京都等へ輸送するには一旦交通の便良き所に倉庫を作って集めることを必要とした。これがすなわち問丸(問屋)の起原であるが、鎌倉時代より室町時代に至るとともに次第に発達し変化して、ついに、純経済的意義における問屋の発達を見るに至った。しかもまた鎌倉時代、室町時代ともに各領主は他領人の入ることを嫌って領境に関を設けて交通の発達を阻害していたのと、従って途中の危険も大であった等とのために、租米の輸送の代りに、替米、替銭等と名づくる一種の為替制度の発生を見、これまた次第に純経済的意味のものに発達して商業の発達を助くることになった。貨幣の流通も鎌倉時代に入ってから漸次普及し、室町時代の末期には貨幣経済はようやくその基礎を確実にした。これは商工業発達の自然の結果であり、外国質易の刺戟による所も大であるが、また軍資金の貯蔵、租税の輸納等の目的から貨幣の普及を見た点は特に注目を要する。そしてまたかかる貨幣の普及、苛斂誅求による領民の貧困化、従ってまた領主始め一般武士の窮乏----それらの反面における少数の暴富を積む者の出現等の必然の結果として、一種の金融機関たる土倉と称する質屋業の発達を見るに至った。
 かくの如く封建制度を推持することの必要と封建制度の存続そのものとから、封建制度の基礎と牴触する矛盾は次第に成長しかつそれ自身を尖鋭化しつつあったのである。室町時代に頻発したいわゆる土倉[土]一揆の如きは、明らかにかかる矛盾の対立への爆発の端緒と見らるべきものである。というのはかかる一揆の直接の勃発原因は、土倉業者の暴利高利に対する反感からであったが、かかる土倉業者の暴利の一半は暮府がその財政的破綻を弥縫せんがため彼らに重税を課したので、これを他に転嫁せんとするの意図に出でた結果であった。のみならず、領民が土倉に依頼せざるを得なかったのはいうまでもなく苛斂誅求による貧窮化の結果であった。かく究明するならば、その意識的たりしと無意識的たりしとを問わず、土倉[土]一揆の頻発が封建制度の内在的矛盾の対立への爆発であることは明らかであろう。
 上述の如く、封建制度はその内在的矛盾の成長による対立への発展の必然性を有していたのであるが、さらにこの勢いを助長し激成したのは外国の諸影響である。封建制度の内的矛盾の爆発に対して外国との交通がいかなる影響を有するかを観取し得るの穎才を有した執権時頼は、五穀の輸出を禁止し、さらに地頭に令して入宋船を五隻に限る等の制限策に出た。しかるに文永十一年(西暦一二七四年)および弘安四年(西暦一二八一年)の両度における元の入冦は、一方においては幕府財政の窮乏、戦功に酬ゆべき土地の不足による諸侯の不平等を招いて鎌倉幕府衰亡の期を早めたとともに、他方においては遠征による陸路の開発に伴う商業の発達、いわゆる和冦の海外発展による民間貿易の振興、商業都市の勃発等を促した。ことに和冦によって培養された闘争的、盗賊的、投機的精神は、後の資本家的企業心の揺藍となったとも言い得るであろう。
 鎌倉幕府倒壊後、いわゆる建武の中興を見たが、もちろん当時未だ封建制度そのものの崩壊の客観的および主観的条件は、萌芽形態にあったにすぎなかったので、再び足利氏覇権の下に封建制度は継続された。足利時代に入って封建制度の内的矛盾の成長はようやく急激なるものがあったが、特にこの勢いは明との交通によって直接間接に助長された。かくて室町幕府時代はほとんど最初から争乱の連続であったが、特に応仁の乱(西暦一四六七−七七年)後は、世はいわゆる戦国時代に入り、群雄割拠して相争闘するに至ったのである。

3 戦国時代の意義 へ