3 封建制度の成立

 農業がほとんど唯一の主要生産業たりし時代においては、その生産手段たる土地の所有があらゆる権力の源泉を形成する。しかも生産手段としての土地は、その耕作者の労働と結合せられた時に始めて現実的なカの基礎たり得る。大化の改新によって確立せられたる中央集権的国家権力の源泉は、実に、公有に移されたる土地と人民との結合の中にあった。
 しかるにこの土地と人民との公有の原則と両者の結合とは、前述せる如く、その内在的矛盾と外的動因との発展によって、ついに破壊せられるに至り、土地と人民との大部分はいわゆる荘園の所有者の支配する所となったのである。かくの如き不輸不入のいわゆる治外法権的荘園の簇生が、先ず中央政府の財政的基礎を薄弱ならしめ、従って政治的、軍事的統制権を弛緩、頽廃せしめたるは当然の帰結と言わねばならぬ。加之、当時における交通の不便と都鄙間における文化程度の相違とは、いよいよ如上の勢いを助長して、中央権力の衰退と地方豪族の割拠的勢力の増大とを可能にし、促進した。
 かくの如き中央権力の衰退と地方豪族の割拠的抗争とは、これらの過程においていよいよ加重せらるる一般農民の窮乏とあいまって、社会的混乱をば収拾しがたき状態に導いた。ここにおいて地方の豪族は、自ら兵を養って、自己の荘園の維持と平安とを期してその強取を続くるとともに、進んで口分田、森林牧地等の共有地、ならびに他人の荘園等を兼併して、その勢力を張るに至った。かくて平安朝の末期においては、各地に豪族の叛乱を企つる者を生ずるに至ったが、既に実権を失える中央政府は、その鎮定を他の豪族の武力に依頼しなければならなかった。しかも地方の擾乱の平定者としてその実力を発揮したる源平二氏は、次第に中央にその覇権を争うに至り、幾度かの勢力隆替の後、ついに政権は源氏の手に帰したのである。
 頼朝覇府を鎌倉に置くや、守護、地頭の制を設け、自家の将士をもってこれに任じ、守護には兵刑の権を与えて諸国に置いて国司に代え、荘園には地頭を置いて徴税および行政の権を与えて庄司に代え、かくて事実上国土に対する最高所有権を掌握するに至ったが、荘園の存続はこれを認め、その従来の占有者あるいは新たなる自己の功臣に対していわゆる御下文なる封地状を附与してその占有格役の権利を確認した。かくて荘園は封土と化し、封建制度の成立を見るに至った。もちろん、当時なお京都を中心とする三十七カ国は公田あるいは権門の荘園として幕府の支配外にあったが、承久の乱(西暦一二二一年)により皇室および公家の余威全く地に落つるや、彼らの公田、荘園にいわゆる新補地頭を封じ、全国の大半は封建の地と化した。かくて封建制度は、貞永元年(西暦一二三二年)におけるいわゆる貞永式目の制定によって完全に擬〔法〕制化せらるるに至ったのである。
 かくの如く、封建制度の成立は、既に大化の改新そのものの中に包蔵せられたる内在的矛盾の爆発の結果たる荘園の発生によって導かれたる必然の産物であり、矛盾の止揚と克服とによって発展の新しき基礎を約束せるものである。しかるに今や封建制度の温室内に、初めてその萌芽の可能性を見出した発展の新しき要素は、その発達成長の過程において、ついに封建制度そのものの基礎を揺がすに至るのである。


三 封建制度の内的矛盾の発展過程
1 封建制度の本質とその内在的矛盾 へ