三、政治的宣伝の補助手段としての切手

119

 吾人が過去有年間に亙る切手の歴史を顧みる時、世界事象の種々相が吾人の眼前に展開
する。檜と文字に仇つて切手に一定の思想を表現し、圃の内外に廣く流通せしめる可能性
が、個々の囲毅をして趣向ど文字の選揮を常該国家の志向に壌合せしめることは常然であ′
る。

 これは自ら人をして帝政ローマの貨幣政策と比較せしめすには招かぬ。確かに苗代ロー
マの償幣に特有と見られる如き殆んど満占的な報道手段としての可能性は切手には無い.
女共の永繊性も比較になら漑程制限されてゐる0他面に於て、其の莫大なろ数量−驚←程
丁大きく且必然的な普及、更には蒐袋物として切手の有する意義を考ふ可きである。璃逸一

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ぴ他民族に本囲の意義を締示する役割を演残る0自国の有名な人物の宵像を示す切手組集
                                                           ●
は、此の目的の為のものであぺ叉、本国の特殊の菓続が認められ尊重される篤の明澄を
篤首きものである0それ故\例へぽ填太利は自固め有名な作曲蒙−婁家、建築家、詩人.
及び勝軍を記念し」ポーランドはショバン、ソビエスキー、ズィエンキュゲイッツを尊敬
                                               \
し、ノールウエーはイプセン、アムンゼンを−ハンガリーはラコーツィ、・ヘチーフィを、
                               Y
鋳蘭西は畠の聾者を、猫逸は申開の植民地開拓者と飛行家を、伊漣利は自国の自由猫立心
               ′
の為に戦へる英雄を尊敬する。ここには趣く少数の賓例を奉げた丈である0
 固嫁の英雄偉人を記念することに依つてと同じく、戦時及び平時に於ける偉大なる業績
を記念することに依つて、自民族の自覚及び他圃民の自圃に封すj尊敬心が高められる0
例へぼ喫太利はウィーンが土耳盲人から開放されたの鹿疏ふ二宮五十年祭を、日本はま那
に封する勝利を記念する○他面叉技術上の業績並びにスポーツに於ける業績が記念される・
例へぼツ;1ペジンや伊太利のバルポ飛行隊の有名な飛行業撞∵土耳右やワシアに於ける
                                                      ●マ
大規模の繊温敷設、オリムピック大倉に於折るウルグワイのフットボールの優勝等がそれ


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   叫
 歴史上の成る重大事件を記念することも可成廣く行はれてゐる。読者を倦ませぬ為に、
若干の大きな類型を取出し.最も鱗著な例を挙げるに止めよう。
 先づ攻囲記念日又は国家の猫立自治横接待記念日が記念切手の敢行に依り記念され観は
れる。殆んど総ての中南米諸国は、彼等の璃立自治記念日を疏ひ、象徴的な紛が切手に載
             、
せられる。例■へぼポリビヤの記念切手には自由の炬火が見られ、コスタリカの記念切手に
                          /
は炬火と閥族とを手に持つた女人像が描かれてゐる。
                                                            \
 欧洲には土耳右の支配よりの開放を統ふ国家がある。一九二七年に猫ふ止の五十年祭を迎
へたルーマユヤ、それょり二年後同じ理由から猫立の為に戦つた英雄の歴史的碓詫と常像
を載せた切手組集を敏行せをブルガリヤ、一九一三年叛乱零の蟹壕と復所せる教合の象徴
                 \
的な綺に俄打猫立を祀へるサモスがそれである。
 欧洲大戦の蘭らせる重大なる攣此は新興諸国家をし七其の建圃を疏はしめた。ラ下ビヤ
は記念切手を挙行して共和国成立}周年を疏ひ、一九二七祭ら一九三〇年迄の問にエス


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トニヤ、ラトゲィヤ、塊太利共和周及び嘗嗅洪圃の部分より健られた諸国の十年祭が祀はれ
た〇一九二五年と一九二八年には二つの注意す可き記念切手が襲萌された。一は礪逸ライ
ン地方の」千年祭を疏ふ為の礪逸の記念切手であり、胤はクXアチア重囲の凝固一千年祭
を疏ふユーゴースラゲイヤの切手がそれである。.
 其の他の類型を次の例で示さう。それはクレタ島の併合(一也一三年)を記念するギブ
シヤの切手、俳蘭西膵属の召年祭を記念する俳圃及びアルジェリヤの切手、ドブルッシヤ、
ズィーペンビユルグン、ペッサラビヤの併合を疏ふ為に一九二八卒より∵九二九年に至る
綿に雷されたルー三ヤの切手である0是は完宝年是郵便事慧統∵加奈陀
は一九一入年加奈陀聯邦の十周年を、伊太利は一九二年往年行はれた伊太利統一の五十
周年及び一九三三年ロードス島の占領(】九二三年)Iこれはファッショ政権の十周年

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l祭と重なつたI−を記念した。
、             ノ
 東町切手は常初廣r闘季に依り獲掛された憲治制定を記憶する為に敢行された。一九二
七年キューバで切手が敢行され(共和制二十五周年)、ペルムーダハ自治制三石年祭)、支
■貯肝−巨細
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調瀾畑瀾瀾渦潮潤凋瀾瀾瀾瀾瀾瀾瀾周瀾瀾憫瀾瀾瀾瀾瀾 削那那那パ那
欧洲に於ける例としては、
圃に於ける国情の安定性を明かにするに通しておる二の記念切手を例示しょう。
†瀾な凌漣州施憎ヨ1当淵和
それ等の
一九三五
年圃合の五官年祭を迎へたスエーヂン、圃合開設一千年祭を切手に依り記念せるアイスラ
ンドがそれである。
 公の圃際日に関係ある記念切手の敢行も此の種類に属する。此れに脚聯してチェッコが
                                               一
国歌の有年記念日を疏ひ、フィンランドが国民飯事詩を記念する為に共に配念切手を憑行
                                               ◆
したことが想起さる可きである.
                                                       ●
 特定の囲慣例へばチェッコスロヴァキヤやポーランドの軍国(繹註、大戦中組困復興の
為活動せる軍隊)フソコールハ澤註、大型剛のチェッコに於ける圃民主野道動の中心囲慣)、
ヒツ!フー青少年囲−ルーヤ}叶ヤの軍隊、ソ聯の赤軍等を記念する為の切手蟄行は、内政
的性格を帯びてゐる0リトワニヤとホンヂニaスが政府横閲統の記念疏賀の為に特別の切
手を頚行したのは仲々興味あることであ椅る。
 重大な政治的事件の意義を特に強調する為にそれを直接図民に記念せしめんとする為の

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切手蟹行は、何等かの高度政治的事件の起つた日を記念せしめんとする右の如き記念切手
の敏行とは興る。例へぼ璃逸はポツダムに於ける新議合とニュールソペルグの全国ナチス
裳大倉の糊り、ポ上フンドはソ聯とめぜ御昧約締結に際し、土耳右はV−ザンヌの休戦平
和條約の締結に常り、ブルガリヤはソフィワ吃於ける共産主義者の伽藍襲撃後(一九二六
年)記念切手を敏行した。欧洲以外にもその例はある。ハイチはサンドミンゴ共和国との
固執協定(一九二九年)に懲り、オース土フリヤは一九二六年の議禽開設一に普り記念切手
                                                                 ’
を頚行した。
                                                ■
 アルゼンチンとブラジル弼圃問の同盟條約締給とアルゼンチン大統領のブルジル来訪
ハ完三二者)に溜り、ブラジルの郵便局は友誼の象徴を記した切手を敏行した。それは
一人の女人像が花乾を高く差上げて居り、\その背景にはアルゼンチンとブラジルの国旗が
掲げられてゐる姶であつた0エクワドルが白山嵐の選拳の勝利に常り、グヮテマラが大統
領の再選に留り頚行せる切手は直接に政寅政治的なものであつた.
                                                                                                              、
         「                                  ′
 斯様な臨時の切手蟹行の中、政治的な合議及び公合に関係あるものを愛に言及して定か

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 /
九三二年の宰縮合議の時にスヰスの敢行せを切手、モンテビデオに於ける第
七回汎米食議に際しクルグヮ′イの現行せる切手、∵九三五年イスタンプールに開催された
           ●
第十二回国際婦人合議の際に土耳盲の襲行せる切手がそれである.
 吾人の論述にとつて特に興味あるのは、裁縫に折り挙行された切手である.一九〇五年
クレタ島に於て叛徒に依りク.レタを女奴裁として示した切等が敢行された。エビルスに於
て土耳右に叔乱しギリシャに合併されんことを希望して立てる教徒に依り切手が頚行され
                                      ●
たが、それには十文字に組合はされた創の上に濁接があり、それに通常した文字が書かれ
てゐる。ダヌンチオの薮秀軍の頚行せる軍事郵便は面白い切手葺を作つた。ゴルデイクス
の儀の切断を示した憲丁注がれたオ血」の軍、「武器はフィウメを守る」を象徴化した董の
描かれた切手が用ひられた.       ヽ     ▼
 ヂニキン牌畢(澤証、】九一入1一九年濁常に於てボルシエゲイキに封抗して戦つた人)
の下にワシナ義勇軍の仝領域に於て頚行された切手には、「統一あるロシア」と云ふ題名が
                                    ∫一】
記されてゐたJ西部ハンガリーの叛徒は一九二一年「西ハンオリーの同胞よ、香、香、断

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じて香」と書かれた切手を挙行した。欧洲以外の閑々に見出されるこれに新した切牢は衆
の如くである。キューバの反スペイン叛徒、日本に反抗せる壷潜の暴徒(一入九五年)、メ
キシコ、コロムビヤ、ブラジルJペルシ寸野の暴徒、特にフィリッビン人の叛徒の教行せ
る切手−それにはKが三つ書かれてゐるが、それはフィりッビンに於けるカリブナンあ
秘密囲慣の徴発である十・がある。
吾人は駄七象徴的表現の数例を挙げたが、それに閑聯して佃簡単に、象徴と寓意とは切
手の給を作る場合に非常に大きな役割を潰するものなることを指示し皮い。  ′/
塵上用ひられるのは棟力の象徴の他に鬼づ自由、興和国、革命の象徴がある。グヮテヤ
ラは自由の胸像を、パナマは自由の鐘を∵フナゲイヤほ自由瀧念碑を、サン∵マリノは白山
                             /
の女紳を、ブエノスアイレスはジャコバン賞の帽子を、スペイ、ンは共和国の金矩(繹註、
先頭第∵に敵の城壁に登つた勇士に賞として輿ふるもの)を象徴として用ひてゐる〇一九
一八年の欒革後チチツコは「共和国、繊鎖を断ち切つて」と云ふ窒息を記し、叉鋳鉄を舵
せんとする獅子の董を載せた切手と、「保護されつつ慈母共和国を求め探してゐる子供」の

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、′`一一▼召.∫q川..1」
婁を載せた切手を敢行した。ユーゴースラゲイヤは鋳鉄を解き放てる奴諦を措いてゐ卑Y
 右は特珠の傾向的意義を有する箕例わ若干を挙げたに過ぎぬ。
                                                                  」
 次に非常に高度政治的な切手挙行の若干のものに就いて今迄の救速から離れて個々別々
に述べょう。
           叫
   ソ  聯 都

■旬
j
ッ聯が柊にポルシモブイズムの人物や行為を記念して疏ひ、
る通ヱ種の本格的教育事業を行つてゐるのは注息に慣する
多くの▼記念切手にも見られ
 、
(レーニン記念切手に閑して
は既に述べた)。                        .
一九≡年には十月革命の第四周年を疏叫、翌年は第五周年を疏つ潅。一九二五年には
民怠主義革命(繹証、一入二五年露都に府はれた民主主義者の叔乱)の有年祭訂祝賀し、
                        、
シペジャに流刑された叛徒が働いてゐe場面や、叛徒の行進の絶や死刑に虞せられた首魁
の背嘩葺を載せた切手が遡行aれた・
一九〇五年の革命は一九二五年と一九三〇年せに疏はれた−吾人は切手の給が如何枝忙

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それに閑聯せしめられてゐるかを見ることが出発る。ストライキを行ふ郵便局員及び電信
局員の行列とモスコーに於ける民衆大倉、装甲巡洋艦パケョムキン、「防塞の下で」、竜ス
                                                                   ′
コーの労働者術に於ける市杓戦、共の他種ヤの駁率塞が切手に印刷された。
 共の他ソゲイエツー政樺樹立或は】九一七年の十月革命の十周年及び十五周年を記念す
る為に切手が黎行された。切手には「装甲車中のレ」lン」→冬宮襲撃」「レーニンに対す
る宣誓」等の檜が載せられてゐる.
                         ヽ
 革命に功績のあつた有名な人物を記念する為に切手組集が教行される0フリードリヒ・
エンゲルスの四十年忌ハ一九三五年)、カール・†ルクズの五十年忌(此の時はマルクスの
誕生地トリエル及びロンドンにある墳墓のめ望県も載せられた)及びマキシム・ゴールキー
                     仏伊 .
の四十年間の流動を記念すす為に頚行された切手組集がそれである。ポルシエゲイキ連動
の犠牲者の為にも記念切手が挙行される。例へぼ一九三二−三三年には記念切手に仇り、
殺されたボルシエゲイキ指導者及び二十六人のソ聯執行委員の銃殺(十五年前バクーの反
動政府の指令で行はれた)が記念されたが、此等の犠牲者の釣殺される場面や彼等の柴蓉



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、l
珊海bh嶺封「J当J‥山.Jl表弓、、qJ当.∃嘗N、J.勺.∃、。1や∃JJ貞男イJ一−リ1く911一。。」dId。1q.h。d′
の為に作られた記念牌の瀞は此の事件をまざまざと示さんとしたもので鳴る。
                                     ′
 其の他の記念切手としては囲際労働者救済合成立十周年を疏ふ為に賓行された「政治犯
                                                                    ′
人の収容された獄に封する襲撃」の給入畑切手とT赤旗の結敢」創立十五周年を疏ふ為に
                                                     ▲−
敢行された切手がある。成層圏飛行蒙或は一九三四年の北極探険囲の救出等「ソ聯の英雄」
を記念する切手は直接政治的ではなbが、\ソゲイエツナ共嵐主義者が彼等が嘗て嘲笑せる
英雄崇拝を少なからす復流せしめてゐるのを吾人に示すが故に興味がある。
 ハンガリー赤色共却図は「九一入年中世の革命家(マルチィノゲイクス、ドツサ、べテ
                                                         L
フィ)近代の革命家(マルクス及びエンゲルス)の常像入りの切手を蟄行してゐる。郵便
事紡の第一回の禽議に際し、労農委員禽の委員は、五枚の切手を貼つた美術的に描かれた
番洩入りの記念帳を一冊萌黄ふ棒にすることに伐つて、此等の切手の蚤行に傾向債倍を賦
興した。                     I
 次にファッショ伊太利が挙行して国民主義的思想の宣俸に用心た切手を示さう.国家思
想の復活と乳化を以て任鋳とする構成政府が、切手に依り到達し得られる可能性を大いに
∵¶



公然たる政治的示威である.リトワニヤ人はそれに答ふるに政治的切手番行の範域では珍
例上も云ふ可きものを以てした。即ち.その切手には地固が措かれてゐて、リトワニヤ他の
は顛枠の中也入れられ、中部ソトワニヤは圃壌内に入れられてある0北ではラエしヤー泉
ではソ聯−開では礪逸に境を壊してゐる†ポトランドはこの地囲では抹殺されて了つて居
り、猫逸とロシアとに分割され、無季地となつてゐる廻廊とダンチヒは璃逸に返逆された
                                                                 ●
                                 /
ものとして摘出されてゐる。              \
                                                                       ′′
此の事がポーランドとめ親交を軋すに役立たなかつたことは人々還察し得る所であら
う0

                                      \
    ア ル ぜ ン、チ ン
 アルゼンチンの郵便局はフォークランド諸島をアルゼンチンの領土として示した切手を
蚤行した9英圃政府は直ちにアルゼンチン政府に抗議を申込んだ・




J〆

    〆





   チ ヤ コ 事奨     ヰ
第四の事例は最も極端なものである。ポリビヤとバラグヮイとの問に槙はるチヤコは、
雪崩淵潤渦潮瀾溺欄州瀾題濁カメゼパ。虜1墟勺ポ絹J碩捕箋L仙当瀾凋周周朋qヨ周潤瀾淵適ヨ点相瑚瀾瀾1ヨ
重く造も無い原始林であり、徒つて何め横倍も無いにも拘はらす、両国間の長い間の繋率
地である。歯時、仲裁裁判は凡ての地囲に記されてゐる様に南国が此の地域を分割すべし
と判決した。それにも拘はらす、南国雀二十年間新開や抗議や演説や鑑定等に依り牢つた.
遽に一九二七年末にバラグヮイは宛然地囲の入つた切手を敢行して、繋替地チヤコ地方は
バラグヮイに属するものとして直接「バラグヮイのチ寸コ」と記入された。ポリビヤでは
それに封して非常に憤慨した。併しバラグヮ心はポリビヤがその要求を断念したと云ふこ
     サ
とを確驚に世界に信ぜしめんとした。するとポリビヤは数ケ月後に繋率地をポリビヤに入
れた地園咤「ポリビヤのチヤコ」と云ふ文字を記入した切手を蟹行した。
 それから直ぐ敬寧準備が府はれたが、戦争の勃教は辛うじて防止された。仲裁裁判の新
判決は往時の協定を再確認した。その際第一の妥協手段として術方の切手の回収が要求さ
れた。それにも拘はらす、ポリビヤは後になり修正されざる同じ地囲の入つた新しい切手
を再び挙行して、バラグヮイの抗議に封し、新しい勿手の襲行蚊條約に於ては明瞭に禁止
されてゐぬとの意見を表明した。そこでバラ〆ワイもこれに應酬して切手を蟄行した。そ






にれは唯サャコ地方丈が描かれ「バラグヮイのチャコ」と記され、「チャコ地方は常にバラ
グヮイ領であつたし、現在も然うであり、肺来も然うであらう」と率ふ文字が記入された。
かくして南開問には逢に戦争が勃蟄するに室つね。
                         ′
 路に臨みスタンヅも同様に政治的宜俸の為に用ひられることを指摘して此の葦を閉ぢる
                                                    一
ことにする.                     、


                                                                          ′′