二、行政的闘争の攻撃武器としての人事政策

 行政の戦略及び戦術の第二は人事政策である。個々人や人的集団の撰択、彼等を中央行政や地方行政に採用し或はそれから排除すること、或る一定の審糺に於て彼等を容れたり容れなかつたりすると、彼等の地方的配置の性格を考慮すること、或る一定の国家領域に於ては行政から彼等を除外すること、他の領域に於ては彼等を優先的に採用することら行政内於て(ママ)或る人的集団に権利を与へること、個々の位階を遮断して与へぬこと、監督機関に対し種々の地位を定めること、凡て此等は民族と国家との間の行政的闘争に於ける人事政策上の工作である。それは若干の国々では良く考究された攻撃或は防禦の組織に迄醇化されてゐるが、他の国々では比較的暢気に行はれてゐる。要求と国民的特殊性に応じて立法者が動員され或は実行は暗黙裡に承認され且「確実なる」慣行に委せられる。極く一般的に行政の本質は、国内の異民族的人民集団---それが少数民族にせよ---に対する人事政策的態度に於て最も明瞭に見られる。それに依り行政的闘争が行はれてゐるや否やが最も良く判断される。
 人事政策的戦術には、通常の行政機構に於ける最高の官職に登用することを始めとし行政的執務への参加から全然除外することに至る迄の凡ゆる段階がある。特に多数民族より成る国家、所謂複数民族国家に於ては往々にして、支配的民族が少数民族をして国家の官職に就任せしめることを以て、異種民族の力を有効に働かせ、国家に危険な反対傾向を弱めて国家全体に対する共通の関心を喚起する最善の手段と考へてゐる。オスマン帝国及びドナウ王国は国民の要求に即応して此の措置を好んで採用した。それは民族主義の覚醒後も永く帝国の存立を確保するに役立つた。墺太利に於ては少数民族に対する法律的特別規定は無かつたけれども、何の民族に属する者も行政官となり得た。官吏志望者の民族性を考慮に入れて許可を拒否する様なことは、国家の根本原則に基いて行はれなかつたであらう。墺太利の行政に於ける少数民族の役割にとり、チェッココ人パデニの地位は特記すべきものであらう。彼は首相として一八九七年チェッコ人に都合の好いあの有名な言語法令を発布し、独逸語とチェッコ語がベーメン及びメーレンの官用語として同等の権利を与へられることを規定したが、それは特に同地方に於けるチェッコ人の官吏の数を増加する為であつた。一八九八年此の法令は緩和され、一八九九年全く取除かれ、官用語として独逸語のみが用ひられてよいと規定され、一六二七年以来ベーメンの行政に於て行はれてゐた状態

70

が復活することになつた0併しそれが為に少数民族構成員が官史登用上不利となる様なこ
                                            「
とは全然なかつた0依然如何なるチェッコ人も他の少数民族梼成員も官吏とし了行政に参
加することが出来た0ウィーンの中央部に多数のチェヅ1人やポーランド人が働いてゐた
ととは、嗅太利政府が少数民族の人心を獲得する濱の人事政策を行つたヱと立澄した。尤
                                    ′‘r
も此一の方法はポーランド人に依つて牢み其の虞傾が認められた0それ故に、彼等は最後迄
魂太利に止まり、漸く完六年に至りドナウ毒心ら翌するに至言。然るにチェヅ
・コ人は嗅太利政府の人事政策をゲルマン他の手段なりとして非難した。他の民族に廃する
官吏の大部分が礪逸化し、或は少くとも、褐逸文化を有するけれども超圃家相貌を有する
喚太利性に同化したことは香誉得ぬ0嗅太利政府の人事政策が政治的是を追求したど
しても、それは過去敷石年に於ては礪逸此ではなく、中立的嗅太利人魂の育成であつて、
をれは礪逸人に封しても適用された・此の方法の本来の動撥は、表に他の民族をして圃
象に紳心を経たしめる忙あつたが、チェサコ人は益絹それに反抗した。それにも狗はらす、
 ≠ェサ土人が行故に参加してゐる割合は可成大きかつた。
胡瀕周周題瀾周周月瀾潤パ    剛郡…銚柑題
 卜教徒は概して樺利を有しなかつたが、個々人は土井苗に於ても亦最高の官位に昇るこ上
 が出来た0イスタてアールの中央政府に於けるギリシャ人はウィーンに於けるチェッコ人
 より造かに大きな役割を演じた0キリスト教住民は地方的行政横能を廣範瞳に亙つて有し
                    ●
 てゐた・「官職」と「梯能」は特樺として輿へられ」優先樺と結合された。クィルヘルミーに
 依れば、かゝる特樺を有せるは旗雰監掛・郵便局員・森森監硯官・替器官こ橋梁監祓官・
    \
 国境監祓官・河岸監硯官・渡船管理官等である。此等は特にラグーサ人やアルメニヤ人等
 がエコの都合のキリスト教徒地直に於1有するが如き壷の少数民族自治の自治横閑で
                                        一
 はなく、オスマン帝国の本来の内的行政組織に廃するものである。ラヂヤーを囲務に参興
 せしめる目的は十分に充貸された。被支批民族の急進的分子は国家に結び付けられ、法律的
 にも事質的にも民族から引き離された。即ち少数民族のインテリ屠は圃蒙の維持に関心を
 毎たせられ、自民族から分離nれた0トルコ支配時代に於て大部分バルカン諸民族に十分
 の指導者盾が無く、民族の中から教生した多くの反抗連動が失敗↓た所以がこれによつて

71

 了解される0新興土嘗H奈良禽帥む轡前士芸人の国民運動の指学者が土鞋盲巷無かつ
 たと云ふことは特記す可増現象である。内治大臣にして後の嘉たりし?フート・ペイはブ
 ルガリす人であり、海軍大層チ‡了ル・ペイはギリシャ婦人の子で為り、新興土芸の陸
 軍大臣にしてケマル・バて出現以前のトルコ革新遥動の指導者たるエンフェル・バシヤ
 はセルビヤ人とアルバニヤ人の問に生まれた子である0奮帝圃が輯覆した頃も藷小民族の
                                        †
 兇醒後も永く此の組絨は絆施されたd一般行政及び軍事行政の低い地位から次第に高位に
 井つた政治家は、最初は塊太利主義に似た漠然たるオスマン主義を奉じ−遂にはトルコ民
 族の国民的革新道動の竜持者並びに唱道者となつた0
  少数民族及び植民地民族にとり俳蘭西の行政的「同化」の方法は一層不利なものである・
                  ●
 この方法は、種々の民族を包掃統合す名園家意瓢の養成と超民族的国家観念の育成を以て
 満足せす、更に進んで少数民族構成員及び原住民を文化的にも精紳的にも圃蒙を構成する−
 主輩民族と同様kして了はうとする0国家内の異民族構成員は、その本来の自民族に対す
 る嬢繋から解かれ琴全な俳蘭西人になる馬竺般行政に参加せねぼならぬ0此の様な同化
            ヽ
 過程は出発る丈統一的な中央袋棟的行政組絨を前鴇とする。異民族出切の官史檻彼の属す
 る自民族の事鋳を探らせるこ上は、企固された目的で滴る周化と相反する結兵を生ずるで
 あらう。塊太利と土耳盲に於て少数民族構成員をJ般の圃家行政に慣用参興せしめる人事
 政策的方法は、根嬢ある永い経験に基いた政策となつた各く正しい国家。理性(これは国家を
 維持する性格を有するものでぁる)の成凝であつたが、か」る方法から自己の攻撃的並びに
 膨張的理念を隠蔵する為の見せ掛けの手段を考案じたのはポルシエブイキであつた。ソゲ
 イエツー打不公明な術策は少数民族に封する共の攣韓常なき態度から生れる。「母語は図譜
 せ共に凡・ゆる地方的、公的並びに図家的樟舶内に於て使用さる可きでぁる」と」九〇三年の
 伶敦綱領第八促に記されて満た。其の後数年にしてレーニンはその反対告豊口して「我々の
 琉上たは国民的文化セはなく国際的文化が埜止する」と云払、他面には覚醒せるワシヤ諸民
 族の民族主義がボルシエゲイズムを本来の大町シaの領域に撃退し嫉めた戦時共産主義時
 代には突然少数民族の自治を唱へ、トロッキーは共の後「ツゲJェット共和国が二偶の槙
                                  ′
 語即ちプロレタダヤの弼裁と民族自治と云ふ合言菓を以て武装を固め東洋と西洋との問に

72

 出現した」と雲Eた。最近の方向棒換はその後聞もな→行はれた・第十七何の寛大禽に
 於てスターリンは次の如くに雲汚した。「地方の民族息義の本質峠」自己の民族的容器の中
 に自己を閉ぢ込め特殊化せんとする傾向に存サる。それは自己民族内の階級固辞を隠蔽し
 且政令主義的撞設の一般的潮流より遽離することに依つて−オロシアのショーグィニズム
 に封し替魂し」聯の諸民族の労働大衆を結合し流言る所のものを見すして−彼等里互に
                                                                                 、
 分離し直別する所仇ものののみを見んとする目的を有する0±九≡年十二月十四日共産
 罵軒央委員昏及びモスコー民人妻負倉堪国家行政及び篤行政中の「ブルヂ;的民族主義
 的」諸分子を「清算」することを決議した。それはロシアの少数民族政策を謳歌せる多くの人
 々の幻夢を終息せしめたが、それは叉ボルシエグrズムの少数民族間題の幻影特に町シア
 少数民族を軋家行政に参輿せしめる事の欺瞞振りの虞柏を露呈することゝなつた0
  ソ聯は革命申に遽墳民族と反革命軍隊の離赦が頼出した為に、止むなく大ロシアのショ
 ーゲイユズムを「清算」した。各民族の特別行政が布かれ、行政官の地位は地方的官吏に
                      d
 依つて占められた。モスユー政府は、少数民族地域に於て大†おアの官吏が罪なき共産主
  轟音であるにも拘はらす排斥されるのを我慢して傍観せねばならなかつた。少数艮族挿成
  員は国家に於て最も蟄宴な地位を占めた。レーニンの友人でウクライナ人海るスタリプエ
  クは、一九三三年に強制されて自殺する迄ウクライナの教育行政の長官であ畑、ソ聯人民
                                                   \
 委員禽の委員長代理であつたが、彼は一九三三年迄のソ聯に於ける固家行政を特色仲仕る
  か1る状態を示す著例である。若干の地方的行政は九割以上迄少数民族構成員に伐つて運
 営され、モスコー中央政府に於てナら其の首分率は莫大であつた。
  ′ソゲイエットの欺瞞は、少数民族構成員の国家行政への参輿を、永続的制度云はぽ道徳
 胡な図是の茸現としてではなく、少数民族せ撲滅する道程に於て其の抵抗を少くする為の
 一時的の回避手段として許可↓た所に在る。そのついでに少数民族の瀕導犀をボぶシエ
            」y
  ゲイズムわ方に獲得したならぼ1これは特にソ聯邦の近東地方に於て企囲された1そ
  れは厳つたり叶つたりの臨倖現象であつた。併し中央政府が雄忍な手段を探るに。充分強い
  との自信を得た瞬榊、此の政策は共の正鰹を露はした。されぼ一九三三年以来のロシアの
 行政に於ける少数民族構成員に対する苛酷な淘汰上犬ロシア人に依る共の補充及び国家諸
                                                                                                            一

73

横構内灯於けるロシア語卜1「革命の富集」・・1・の弧制的再採判は自ら了解されるであら
                                                           、
う0・言り三クは倒れ、彼を裁いたは大ロシア人ボス†ェフ言つた。カレリヤに於け
、るフィラk人ギリン浣浮られ、その代是aア触せるカレリヤ人プシ三フが就
任した0タヂキスタ違和圃の人望巷の委量カヂル土フ捷、ワシeの欄外迫瞥
   、一戦
宜俸した十孟ふ廉で速けられた0彼等に拭いて次々に何千人杏何常人と云ふ下級官牢が罷
                                      〆
乱せられた0アムメンデに依れば、完三四年享月迄にキュつ女で五千人の官吏が農村ソ
                                                                    ●
ゲイエツーから退けられ、′アルメ1言では九十人赴けられた0現在中蓋細霊ハ和国に於
                                、
 ては非ロシア人の性民が六割もゐるのに、収大行政瀞は三割足らすの非ロシア人で占めら
 れてゐる0∵些二三年以前の少数民族に封する…コー政由の行政政策の虞机を此れ湖上
1によく澄明す富めはないセあらう・ヂョルヂャ人芸−リン・ヂ宗シ言イリが共産
一ロ、ンア化の貨行者となつ誓とはソ哲し代珍らしくない歴史的皮偶の諒過きない∩ \
  ヽ            、
 輿良挽分子を重機的圃虜行欝藁せしむることに依つて彼等を獲得する政讐夜警
 針除外することに依つて彼箸改革する改革との品貴く招漂、、妄宗政分野に
瀾欄和澗瀾周過憫1Hへ適攣与濁lで。繋へ巧雪オ
 参加するこ1どを許容する方経と拒者する方法上である。それは若干の困では完全な行政的
 自治購輿への第「歩として或は一般的に宜俸的措壇として用ひられ、他の固では絶対的な
                                             \
 自治構剥奪と歴制への第一歩として用ひられる。固家の方針が明示軋れてゐない場合は、
 共の指砥が何れの範疇に廃するかを決定サるこ寸は大低の場合封難である。一般的行政へ
 の制限された参加許容と少数民族及、ぴ原住民をして自民族の事を自分で始末させることに
。限定すること1を膚別せねぽなら拍。此等二つの可能性の問には人事政策の目棲と目的に
                       人
 関する洞察を混乱せし\める多くの中間過程がある。一般行政への制限された参加許可は多
 くの場合自治の拒香を件ふものである。最上の方法は、少数民族構成員或は土着民を顧問
 として彼等の属する民族を統治する官庭に格聴することである。北米合衆困はインデイア
              【
 ン問題の薦漑ワシントンの中央政府内に個々のインヂィe部族の代表者を任用し−土人
                         ●
 との折合を摩擦無くやつて行く様にして滴る。アメリカ黒人は人種政策的見地からインデ
                                                           「
 ィアンより造かに少い礁利を輿へられてゐる。彼等は僅か許り州行政の若干の部局特に税
 悶に働くことを許されてゐる。他方彼等はミシシッピー州に於ける如く多数居住してゐる

74

 州に於てさへ行政からは全然除外されてゐる。
                                                  一
 数的制睨の最も穏やかな形態は、人口数に應じて異民族構成員を一般府故に吾川するこ
  J
 とである。即ち少数民族に研恩してゐる官吏の数を該民族の重囲人口に対する割合に伐つ
 て決定するのである。ハンガリーは大敬前他の原理を適用、してゐた。共の傾向は一九二四
 年三月六日ハンガリー議曾に於てルー三ヤ人の静願に封して首相ステファン●ティスツ
 アが行つた草明から明かに看取される。■ 、
 「吾人は官吏登用に於てマすヤール人と非ヤヂ?」ル人との問に何等の差別を設くるこ
  とは出来ぬ。併しル」マエヤの知識階級が其の数と重要性に應じた割合で官吏となり、
 圃民と接鱗する官吏が圃民の育英に精通し、徒つて国民が通澤の媒介無く官吏と直接交
  渉し得ることが望ましい。」
 少数民族地域に少数民族構成員を優先的に登用することを極力避けるのは、同化に支障
 を来させない濱甘ある。他の場合にかゝる地方的差異に基く優遇が行はれた場合は、それは
 決して親切からはた行為ではなく、少数民族地域の行政政策的賓行を容易ならしむる為に
溝榔血打針掛す珠むれ熱度鳳と見掛むnれた。1鴻八八六軒に於折る八礫外那の卜待鮮魂拳嘲弼
、の如き行政算術の本来的性格を顧はしてゐる。それは少数民族に封する極埼な†ヂヤール・
 の化と徒廃化を意味してゐた。州行政委員合に於ける席の年数は地主に輿へられ、他の年数
 席は極めて小範囲の多胡納税者選挙樺に依つて矢張カハンガソ」の大地主に輿へられた。
                                                    −
 制限された行政参輿許可の行政算術は−殆んど何時でも異民族分子を全く排除し同化し
 魔迫する前段階である。人はその際外部的印象に伐つて迷はされてはならぬ。行政参輿を
 許可すると云ふ事茸は往上民族的平等頂へられてゐる如くに錯覚せしめるが、資際は仝
                                                                                       一

                                                             −
 ←他の意園が軌いてゐるのである。  ′が    、
  現代の少数民族政策は行政算術的事例に富んでゐる。∵足の時期を置いて繰返される言
 語考査は非ルー三ヤの官吏と教師の選揮淘汰に役立つてゐる。勿論、試験特に反復試験
 に及第せぬ人々はノ、大抵無期限に且つ恩給無く休職せしめられるが、それは行政淘汰と同
 時に少数民族の址禽的貧困此を来さんとする目的を有する。此の方法を最も良く示す事例
 は、一九三四博クラウゼンブルグに於て郵便局に僻はれてゐる洗濯婦道が首筋考査を受け
                                                                          \ヽ、

75

                               {                                         lr・
ねばならなかつた壌茸である。璃逸人の代議士クワイぞ−がルー三ヤ団命に繰出した陳
 情書が詳細に此の政策の仝貌を示してゐる0
                                                                                                      【
 「考査は賓際には少数民族出身の官吏を排除する馬の合演的仮称を装つた口賓に過ぎ払
 勿論かかるH資がうまく成功する管はない¢共の理巾は爽秒如くである〇
一、ルーマユヤ語に精通せざる官吏は、ルー三ヤ人であれぼ試験されめか、試験され
                 /     建
  ても休職せしめられぬ。
 「試験の賓凝は官吏の職汝逢行不能の敵を以て−其の直接の上役に伏つてではなく・
  省又は参謀本部に依り要求される。
 三、国民及び紆治家は地位を有せぬルー三ヤの知識人む任用する環の手段として度々
                  ▲
  試験を質施するkとむ嬰求するOI
                         、
 四、苧の礪逸人やマヂ∵ル人の三等郵便局畏は、官豊款に掛つて身分頂障され
 てゐぬ為に、至極簡単に片附けられる。彼等は形式的にルー三ヤ語の試験を受けもせ・
 す叉何等の理由絹無いのに退けられる0反之、チ五ツコ、ポエフンド、セルビヤ出身
瀾瀾欄瀾威さ等郵便息鼠ぽ特典を輿へられてゐる。かくして買いた地位は、郵悸局規彗壷巧
  八九娩第ニ‡四項Z塞き、少数民族構傾為によつセ占められることを明かに禁じてゐ
                                                                ●
 る。
五、針針e僚計験準備†ってやつて≠澱÷のサのL役か
   ら詰責された。
 六、朗験委員合の断定は試験後に委員脅から畿表されてはならぬ様になつてゐるが、そ
  の理由は委負禽が決定的のものでなく、本省に伐り訂正されるからであつて、これは
  余の何時でも詑明し得る所であ】チ…」    、
 特に松野なのは少数民族を行政から閉め出すチェサコの方法である。。勿謂、プラーザ政
府渦亦嘉考雷規定し′云々ハ完∵元年二月言チェッコス芸nヤ政府規定六〇
 ⊥八九燥)0少数民族小の幣塊洪国政府支持者は一九一入年彷革命の時に既に温けられた。
 其の後に官碇泊汰に依つでル数代族所感員を符蹄に投げ出す為の理山としで、経済危梯が
 その月貨として大いに利用された。チェッ=首相スグエーラは比率収依る登用制を拒否しノ
                                                                                                                                                     /

76

                                                                              ー
  た。チェッコ先発院議員バネクは一九二四年→淘汰推璃逸人とマヂヤール人に封して街揺
  れねぼならぬ」と要求した。濁立せる地方行政の磨止・は礪逸人地方軒吏の休職となり−チェ
  プコ人に依る其の補充となつた。土地特に森林の国有化は同じく行政のチェッ‡也に役立
  っが、それはチェッコの代議士ベル〆†ンが土地改革に閑する調査に於て明かに艶めてゐ
  る所である。
   「圃墳森林の問題が現在盛んに論ぜられてゐるが、その臥有化に際しては国境の安粂を
 考慮すると共に民族的要素が注意されねぽならぬ。その湯合に信用の置ける人を避揮する
  事が最も肝要である。」 一
   褐逸人及びヤヂヤール人の都市ハライヘンベルグ、エガー、ツナイム、イグラウ・アク
  スィク、ブルュン等)に於ける警察の国有化はチェッコ他の虎筐に他ならぬ。少数民族に
 欝る後著の養成を妨げることに依つて_澄エツコ人の官吏や賃人左晶警趨
 ことに成功してゐる。例へぼ礪逸人に対して猫逸人自身の林発大畢の建設が挺零され、反
 之、ニ個のチェッコ人の林業大冬が設立され、同時に上級の営林官吏たるには大畢教育の
召鷹周周澗瀾欄増畑      感舶郡部凱郎郎郡郡椚椚朋周
 ブラーグの本省に紘ハンガリー人は一人も居す、プレスブルグとウンググァルの地方官厳
 にはハンガリー人の高級官吏は一人も居らす、一人の地方長官絹居ない。プラーグの本省
 官吏の僅か二パーセント丈が璃逸人で卦る0ベーメン及びメトレン・シレジャに於ける行
      \\        一
 致官更八三二人の中僅か一∵八人即ちj四パーセントが璃逸人であるが、此の粥地方の全
 人口に封すe璃逸人紛剖合は三〇バーセnである0警察●燈革尊賛局・官簸本部●国債
 本局・固有鋳造局には猫逸人は一人も居ない。恩給生活者すらその生活を脅かされてゐる。
                                                                              V
 例へば恩給を受けてゐる軍人は、圃防省の指令に徒つて音譜考査を受けねばならぬ。考査
 を受けない時は恩給が貰へ恕くノなつて了ふ。これは少数民族の後進者をして官吏たらんと
 する志望を断念させd少数民族を経済的に貧軋化せしめんとするものである・
  威嚇すると共に民族性を襲失せしめるもう一つの手段は、幾千の猶逸人官吏をチ・エツコ
 人の居住地域に縛ぜしめることである。その為に彼等は自民族との直接的連繋を失ひ、子
 供をチェサコ人畢校に造らねばならぬことになり、純猥逸人地域に於ける礪逸人の数は滅

77

                 †
少する結巣となり、その後纂にはチェサコ人官吏がすわることになる。チェッコの地理聾
者ドヴ・オル、スキ1は共の著作「政治的地理学の基礎とチェ”コスロヴァキヤ圃」の中で、
行政人事政策の分野に於ける少数民族に封する戦ひの戦略胡並びに戦術的原則を甚潜明瞭
に且全く一義的に述べてゐる。    、、、
 「若しチェッコスログァキヤ圃が其の生命を維持し叉結局は其の主樺を保持せんと欲す
    lヽ
 るならぼ、猶逸人住民が其の眞の故礪を璃逸本国でなくチェッコに見出すことは常分の
 問而して恐らくは断じて無いであらうと云ふことを明かに自覚してゐなければならぬ.
此の事はマヂヤL暇住民のハンガリふ封する関係にも学は柏名此等雀数宏
 集団に封も此れを非難するのは不合理である0何となれ町彼等は彼等の義韓を遂行し
 てゐるに過ぎぬからである。反之、れの雄図が出来る丈射少で囲蒙統治た於て何等の勢
 力をも有せぬ様に配慮することが肝要である=…======・」一.
.吾人は此等の青葉から容易に、今日確率上の戦略に大きな影響を輿へてゐると同じ指導
理念を讃み取ることが招来る。即ちそれは敵を域滅し敵の敏土を占領することを目槙とナ

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銃の如き武器のみしか知らなかつた我々の父組の未だ知らなかつたものである」と云つて
ゐる通りで参る。終極の目槙は異民族分子を行政から粂←排除することである。チェッコ
はカルバーロシアに於で殆んどそれを茸現し、ソ聯は規轟それを茸現しっつある。原住民
に精力の所低級の事務を執らせ、凡ゆる本来的の行故事按を箪らせぬ様にして居る。大抵
         」●
は本国の首都から指誉れ−中央儀的の桁掛梯梼と共同しでゐる枯民地行政の直接や万
      、
法も亦斯様なものである。  ▲
                           、
 最後に道徳的に見てそれと鮮少差異の無いのは、程々の少数民族を互に寧はしめる方法
である。共の好い例は欧洲の諸国に封するトルコの行政に於て√スタンプールのギいシヤ
人を任用することである。就中、ルーマニヤの二俣圃たるモルダウ及びヴアラヘイは此の
政策の為に儀容を蒙つた〇一七】】年エコ政府は右の二侯圃に於て、その本来の有配窟
に封する不信を口茸としてトルコの行政を布いた。その指導樺はトルコ本国の観治で功労
                                  〆
のあつたギリシャ人に最高の値段で譲渡された。地方行政官印ち所謂「ボスポダール」か


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少すを結頻となり、その後釜にはチェサコ人官吏がすわることになる0才エツコの地理聾
者ドグ・オル、スキ1は其の著作「政治的地理撃の基礎とチェ∵スロヴァキヤ困」の中で′▼
行政人事政策の分野に於ける少数民族に封する戦ひの戦略胡並びに戦術的原則を甚だ明瞭
に且重く一義的に述べてゐる。
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 「若しチェッコスログァキヤ圃が其の生命を維持t叉結局は共の主樺を保持せんと欲す
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ゐる通りで砂る。終極の目槙は異民族分子を行政から全く排除することである。チェッコ
はカルルナロシアに於で殆んどそれを資現し、ソ聯は現在それを資現しっつある。原住民
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法も亦乳様なものである〇 一
                         、
 最後に道徳的に見てそれと餞り差異の無いのは、種々の少数民族を互に寧はしめる方法
である。共の好い例は欧洲の諸国に封するトルコの行政に於て√スタンプールのギトンヤ
人を任用することである。就中、ルーマニヤの二俣圃たるモルダウ及びプアラヘイは此の
政策の為に凝審を蒙つた。】七−一年下ルコ政府は右の二俣圃に於て、その本来の有配窟
に封する不信を口箕としてトルコの行政を布いた。その指導樺はトルコ本国の翫治で功労
のあつたギリシャ人に最高の値段で譲渡された。地方行政官印ち所謂「ボスポダール」か
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ら出衆る丈多」金を取少、サルタンに対する購賂を多くする為に・ボスポ′ダールの椅子は
屡旦兇迭された。】七一六年から六−二年彗ルダウでは三十三人、プアラ′ヘイで竺
十七人のポ芸ダー宗働いで居カ、其の周土に封し思ふ存分の搾取と歴迫を以て臨んだ・
 斯の如き組織は印度行政に於て回数徒と印度教徒とを互に零はしめることによつて大き
な役割を演じてゐる。それは又チェッコ人に伐つても行は嘗ゐる方法である†即ちハン
ガリー人分子を歴迫する為に、多数の礪逸人の官吏や教師をスログァキヤ方面に縛任せし
                                         ●
めてゐる。行政の中にユダヤ人を入れることも屡き此の方針に虜tてゐる0英困の印度政
策に欝るユダヤ人の役割は英国側から空特に数慧りと認められる・ユダヤ人は近東
政策に於芸人よクも扁巧みに振舞ひ−ユダヤ人の埠督は英人ぜも如才のない人物で
ぁるらしい。それにも殉はらす、レディング卿を印度総督として任命したことは・英国の
行政技術に於て非常に好んで用ひられる人事政策の】に過ぎない0反之、伊太利に敵雷
有するユダヤ人ストクックランド卿をマル孟蒜督として任命せることはそれに封する
著しい対照で頂.中央蒜並のソゲイエッ是政か是政蓋的掌を表した際にユ
                                                                                                                                                                                     」






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ダヤ人バタマンの演じた役割は、完三五年カnヤの共産彗晶の地位にあつたフイ..刈萱ト
ランド人ログィオを温けてその後にラトゲイヤ人イルクリスを任命した上同様に、モスコ
ー政府の諸民族に封する閑寧を象徴するものである。政治上の反封者を閑季的行政に参輿
せしめるのも矢張同じ性質のものである。ヴオルガ璃逸人膚任地の行政に嗅太利人や礪逸
人を採用し、ザール地方の警察に礪逸人(マッハツ、クルムバリハの如き)を用ひるのも
男づ伽川畑渦…
かかる種類の有名な事例である.
 異民族の行政官吏をその自民族の事務を掌ることに制限することは、先づ叔本的に親切
な待遇の行為である如く見える。併し大抵此の方法は資際には純熱たる支配政策的戦術だ
と云ふことが分る。只それが巧妙に行はれてゐる丈に過ぎぬ。英国は大規模に此の方法を
用ひてゐる。デマングオンに依れば、一九二五年頃印度の行政事務では二古ニハ十五常人、
                               \
替察では石七十三萬人、鋳造・電信・電話の行政では約五官萬人の印度人が働いてゐ衆。
此の印度の行政撥棒は一萬人の英人に依つて指導されてゐた。印度人を行政に参加せしめ
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むことは、第一に轟然晋際的な目的を持つてゐた.「一般に印度人は英人よりも秀れた簿記
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掛であ炒、忍耐強く、勤勉で、囲のことをよく知つて居り、印度人の風俗習慣によく通じ
でゐる」(デイグビイ)英圃は出来る丈少い支出で出来る丈大きい成果と利益々待んが為に
                                 、
一種の間接的支配を行つてゐる。英本固は印度の凡ての行政横棒を英人により猫占すると
仮定した揚合に必要とせられる如き多数の人員を捉供し得ぬのでぁる。加之、印度民族は
印戊人に依つて事路は探られてゐるが貸株は英人の手にある貨秋に注意すること少く、英
国の支配に封する反抗は先づ行政に参興して臥る印度人分子に向つて行はれねぼならぬ。▲
これは攻撃を混乱せしめ、その同族から見捨てられた印度人官吏を】犀鋭くその目に見え
ぬ主人(謬註、英国人〕の方に傾かせ、英国の支配者に公平な決断の自由を輿へることにな
る。英圃が三億の印度民衆を左右してゐるのは、英国の印度に封する目に見えざる行政組
織に於ける斯め如き墟細態的統治夜鍋によつてであり、長い間の経験に基いた訓練によつ
てである0それ故にい、英圃は雪印度人を行政中に引入れることに努力した0完〇七年
級攣tント伯の治下に於て上級の行政官の地収が印度人に開放され、一九一九年以来印度
人は磯隊長と成ることを許され、一九一九年の憲法は一九二一年以後上級の官厳に働く印

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度人の数を更に増加す名ことを規定した9印度委員合の委員に印度人も任命され、英本同   。、
の軍事委員禽に於ても印度人に席が輿へ椅れ、往々外交事鞍にも象輿せしめられる。勿論
英国の人事政策は、黒人をも巴里の本省に採用する俳蘭西の方法とは仝然異る滝のである.
英閥の政策には悌周の方法に見られる同化作用的背景が快けてゐる。印度人を行政に参加
せしめることは、茸際上の合計的性に應じたもので、それは優遇であり、それにより支配
を容易ならしめんとするものである。  /

 元来ルガールド脚がエジユリヤに於て白人む少い為に止むなく行つた「二重委任統治」\ノ
ハロua】 冨Pロd已の)の 「問凄統治」 (lロdi詔C†ヨロiの)組織や自耳義領コンゴーのシェフ
ユリー式行政組織の創設も右に類似した観念に塞いてゐる.此の方法の意義は、風位民広
行政事務を司らせることに依り彼等を漸次欧洲文明に接近せしめト欧洲人の支配に馴致せ
しめ、同時に植民地の極度の搾取を確茸にし、或はルガールド卿の云ふ所に依れば、植民
地の自然的資源を人類の利益の為に採取することに有する。此の間接統治はアフリカの熱
帯枯民地では益上原住民の人気を博してゐる。それは本固から些細の鮎に迄命令する様な




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儀式の行政方法に見られる誤謬と映鮎を有せす、弾力性と遽應性を有する印度の諸侯圃や
保護領等に於ける英固め漁督制の本質も根本的には同じ思想に基いてゐる。かかる間接統
治は明掛な楓民地的関係を隠蔽するに過ぎない・此の方法は−原住民の助力吃依り正常な
枯民地行政を行ふ為に、統治橙に対する僅かな干渉丈で足りると潜へられる如き所に於て
到る所で千差萬別の変形で行はれてゐる。最後に自治領劇度もかかる観念から■生じなもの
である。それは時の推移に従つて、元来は大執後に、間接紺治の状態から現在見られる如
き統治横の攣容形式を点するに至つた。且、俳蘭西も亦原住民との「聯合」と云ふ形で間
接統治の組織む程々模倣することに努力してゐるが、それは悌蘭西自身の内的要求から々
ぅなつたと云ふよりも寧ろ外的強制の為にそうなつてゐるのである。同化政策に封する植
民地住民の抵抗が差し常少非常に強い為に同化の目的が達せられない磯な揚合に、かか為
政繋が適用される.聯合は畢克同化の前段階であ少、迂回策である.
 行政上の自治は水質的には「問壊統治」と一致するものである。それは異民族をして全
図家行政内に於て自民族の行政事務を自民族の代表者に依り行はしめる可能性を輿へる・


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圃際法に依り保障された少数民族の自治の例は、
土耳盲領内でギリシャ人の住んでゐるイ
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ムプロス鳥及びテネドス島町見られる.一九二三年七月二十四日のローザンヌ雷和佐約は
その第十四條にそれに就き次の如く規定してゐるゃ
 「イムグロス及びテ丸ドんの二島は土耳盲の主橙の下に止まるが、その土地に居住せる
                       才′

 人々に伐つて棒成された特別の行政を有する。此等の島に於ける秩序の維持は、右の地
 方的行政官厳に依り島民中より採用された官吏よ少成る警察に由り行はる…:・:…・」
 かかる制度規定は植民地に非ざる所では比較的稀である。他国内に居住せる其の少数漑
族を保護する横利を一因に賦興する最初の而して唯一の相互的條約は、フインラヘンドとy
       抑
聯との問に締結されたドルパート平和保約で慮る。これによりカレリヤ人に行政上の自海
                                、
桂が賦興された。併しソ聯の方法が欺描的である為に、茸際には行政上の自治は見られな
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一方に於て行政的自治及び間接統治を輿ふること、他方に於てかかる自治権を拒香する
が一般圃家行政に個々の少数民族所属員の制限された参加を許可することとの聞に娘本的

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な差異があるや香やの問傾が今男に論ぜられ得るであらう。問題は一般的には香を以て答
へられる。人事政策的見地から見ると、何れの場合にも異民族分子の制限された任用即ち
行政技術的工作ガ問題である。樺力政策的には雨音の目的は同じものである。只民族政策
的見地から見ると目棲設岸が異るのみである。第一の措置は観支配的民族の政令的及び政
治的掛碧維持せ破とし、第二の措置は常にではないが大抵頂合民族性劉箸企図して′
ゐる。併し何れの場合も目的は同じものであつて、立配的民族の支配を容易ならしむ為に
在る。 ト.
                                      一
 要之、概して人事政策的行政戦術は政治の悲痛な部面であつて、捗事者−!少数民族・
射小国民・植民地民族等1がそれを特に激烈な攻撃の封象とするのはい向怪しむに足り
ぬ。罷免上全面的排斥に反対し▲て人口故に比例した行政参加樺が要求される。少数民族成
                       /
員を一般行政に個々別々に参加せしめる方法を魔迫的と感受ずる時は、それに反抗して、
少数民族の事汝を自分等丈で行はんとする要求(即ち全館の国家行政の中に於頂或は行政
的自治の形態に於て)が捉出される。ガンヂーは印度に於て畢怒る要求の表示に止まらす



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国家的行政哉略に封抗し可成猫特な闘争方洪を展開した。彼の方法は非暴力人臣巾∴ 、
、、…九題意瀾
H。璃b巧」絹ノ絹針
msP)の執念に基いてゐる」それは印度に於ける英圃の行政横椿中に行はれてゐる印度人
の利用に反抗する、非暴力的ではあるが、積極的な抵抗 (sat当P雪印訂) である.此の戟
           ヽ
術的賛操は二段に分かれてゐる.ガンヂー‥ぞての数用を既に南アフリカに於て一入九四1
一九一四年の問同地の印度人の指導者として最初はサタール政府の、後には南阿政府の行
政政策に反射して質験し得たものである.第一の比較的穏便な段階は非協力(non占00雪柑
r賢…○ロ)郎ち官戯との凡ゆる協働を拒絶することである。ガンヂーは一九二〇年八月一日
次の如き綱領を以て此の行政ボイコツ†の戦ひを開始した。
 「凡ての稀鎗及び名容職を放粟すること

′−
′几T
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ニ、村護士のストニフイキを行■ひ、私的仲裁裁判に依り紛争事項を調停すること
三、畢生及び両親に由つて行はれる官立畢校のボイコット(教育の拒絶)
     /
四、立法委員合のボイコット(立法院の革新)
   ヽ

     ▼
五、公の招宴及び其の他凡ゆる公の横閑への参加を拒絶すること


椚叫
 六、凡ゆる文官的乃至は軍事的官職に就任することを挺香すること
                                                                】_
 ガンヂーの非協働主義は、印度人が英印行故に於ける官職に就いて事務を司ることを不
道徳なりとして時劾する。それは彼の闘争の第二段階−市民的不服徒1への準備段階
と考へられてゐるが、政治的な運動及び意志表示として偉く迄法律の地悠に止Å還的に
行動せんとす絹0市民の不服徒は強い尖鋭化豊息味するりそれは法律及び官厳に封する凡
ゅ為服従の拒香であり、従つて計喜的な法律違反である0英印政府が非協働在勤た封し苛
酷な庖忍を凝った時、金印合議は一九≡年十一月四日全般的な市民的不服徒の手段に出
でるこ上に決議した。それは先づ±月十七日→般の網税拒否を以て開始さる可き箸であ
ったが、暴力行為が続出した為にガンヂー自身に由り中止命令が拐された0ガンヂーの運
動は相警藁針の慧して考案せる行・政教に対抗⊥て組絨町な防禦を行ふ大規模な
鶴極的な企てとなつてゐる.     \
                          /
ふれと騨聯して芸ヤ人の行動も君過してはならぬ卜それは国家的儀力に対する寄生者
の尉寧であり、凡ての他の行政闘争とは反射に、圃豪が防禦の地位に凝る0蓋し図表が招
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宅‥M濁


  かに個人的な攻撃戦術で礼る。圃務を内倒から影響し支配す渇為に、布りと凡ゆる仮面の
  下に圃家の行政機構の中に入り込むのがユダヤ人の常習的方法であるい抵抗に封しては、
   悪意に基き寄倒固の圃民と平等の地位を輿へられてゐぬ不常に歴迫された宗教上の少数者
   の如く装つてゐる。昇の結兵は大抵図家政治の臆病な譲歩であり、今日は特に欧洲の所謂
  西方諸国に於け為如く行政上に於けるユダヤ人の組繊的な進出である。英圃の文筆家ヒレ
                        も
  −ル\・ペロッグの明かに述べてゐる如く、「それはユ、ダヤ人自身がクリ.フヱダイスムス
  (地下ユダk主義)と稲してゐるもので、西ヨーロッパの到る現に於て重要な地位を占め
   てゐる人物は、英国人とか俳蘭西人とかその他何国人とかの国籍の仮面を妙つてゐるが、
  資はユダヤ人であるのが革質である。」。ユダヤ人が山度侵入すると、破はその寄留困の行
   政機関を唱己の樺カを振ふ為の造兵とするのが常である。その例はソ聯であるが、づ聯の
                                                                      ′
   教義に由れぽ官吏の二三・四八パーセントはユダヤ人である.一九二六年モスコー丈でも′
 ユダヤ人官吏は一萬七千三宮十二人で、γ聯の中心地(モスコー)で働いてゐる金ユダヤ
ぞミ.べ題周瀾欄題題


イ′▲


人の丁度四分の妄ある.一九二五年自ロシア中央執行委員禽には二〇ご一パーセントの
ユダヤ人が参輿してゐた。而して自甘言ではユダヤ人のロシア人に封す浅口奉は八・
ニパーセントであつた0e節面迄ソ聯国内に警意識的に行はれてゐる芸ヤ人の靂
が行き亙つてゐるかはアブラハ・ムヘラーの衆の救速から理解されるであらう0「特に青年
のユダヤ人共産糞月の多数布施することは、此の共産賞組織への加入が多←の特樺(エ揚や
政府の施設への参加等)を伴ふものであることから分明する・」 村
ユダヤ人が困炎の行政横網豊ハの破壊工作に利用する結典、それに封し国家や圃家的槽
力は倫理的並びに自己保存の理由から必然的に防衛するに至る0国家政策雀求と措置は
  一▼
雷然ユダヤ人を行蒜朗から閉め響ことに向けられる0苧入九世紀のユイヤ人開放の
結泉十倍教の自由がすつと認められてはゐたが、大抵の囲の立法に於てユダヤ人の有する/
寄生的性格の故を以て彼等に官吏資格を輿へなかつたのは本能的であると意識的であると
に拘はらす正しいことであつた0行政政策的考量は信教の観鮎から出て釆たものではなく−
 / 1
ユダヤ人は寧ろ国家行政に盈ハするに適せぬ他人種として卦へられてゐた0英囲では陶家


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                                                  h
  時迄「地図人」(已i溜)として取扱はれてゐた。一入一入年のバーデン州の憲法は常時の
  何れの圃に於けるよりも多くの横利をユダヤ人に賦輿したが、官吏資格は輿へなかつたの
  であつて、一入六二年に初めて一般市民と平等なる樺利を輿ふると共に針鼠と成る資格を
  輿へた〇一入三八年ザクセンはユダヤ人に封する制限法を黎和し、種々の樺利が問題とさ
  れたが、官吏資格は少し沌論議に上らなかつた.プ†シヤに於ては一入五一年松神は回葦
                                                 \
  命令せ教ん、ユダヤ人を凡ゆる裁判官の官職から排除した。ロシアに於てはユダヤ人に封
            /
  する平等横は一空七年四月三日に初めて認められた。今日公的行政のユダヤ人に由る人
  事的破壊作用に封する反抗運動が再び到る虚に也り、此の反抗が一部では法律的形態を以
  て(礪逸)一部では慣習法の適用に由り(塊太科)行はれてゐる場合忙は、ユダヤ人の国
  際網と行政横構内への潜入の基礎に蹟わつてゐる月槙を考察して、結局国家主棲に封して
  向けられたユダヤ人の攻撃の防衛が問題になつ七ゐるのである仇
   囲境内に於ける民族と圃蒙との問の国事に於て行政の潰する役割に就いては以上の論述

′ク
′々・



 )

に止めることにする。国境を越えた対外宜俸工作であると他の領土に影響を及ぼす行政組
繊であるとを問はす、行政は往々国境を越えて影響を及ぼす。スロプアキヤ及びカルバー
                                    一
ロシアの行政の殆んど験す所解きチェッコ化は1カルバト中シアでは其虚に居住せる約
二常人の官吏が竺の≠ェッコ人である・・トハンガリー固の国境修正希望に対する威嚇手
段漣考へられてゐる。英国は東阿苑利加に於で頼著な迂遠策を誓ことを茸用的と考へた。
英圃は印度に於ける挙ろしく沸騰せ省反抗熱を冷却せしめる為に、印度民族の一部をケニ
ヤ及びタンガニカ地方へ造り、其虚や印度人も植民地行政に参加せしめることにしてゐる
                                                              ¢
自人の屈伏する植民地として宜俸されてゐる英領ケニヤに於ては、「印度人のアメリカ」と
一般に稀せられてゐるに町拘はらす印度人に封し権利を輿へることを可成慎重忙してゐる′
が−英国人は印度人に封する好意を嘗璃逸領のタンガ1;委任統治地に於て示し、下級の
行政撥絢を殆んど金く印度人に輿へて居り、印度人はそこでは隣カのケニヤとは反対に
「白人」と見傲きれてゐ驚共の目的は全く明際であ七他日委任統治地の返還が政治的
並びに道徳的理由から最早不可避となつた時、知らん頚をして印度人の桂利を楯に取り或

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 顔になる如く仕組んだのである。印度鳩奇妙にも唯}の植民地とし環圃際聯盟に礪自の代
 表を流通して計るから、都合の好い横合にタ、ンガ1妄の印度の行政械閲は図際聯盟で委任
  統治の放発を香認し英国を安倍にその椅紳的危惧から開放し指るであらう。英圃人1か
  かる迂回戦術の達人1は此の方法を共の植民地的姉妹圃の熱烈な攣皿慾灯封しても用ひ
  てゐる。かくて開阿の黒人保護領に於ける原住民に依る行政は、南阿聯邦をその沈純された
  人種政策で掲ちし、黒人保護領の伴合を企親してゐる南阿聯邦の政策に封する黒人の反抗
  熱々育成する為の巧妙に用ひられた手段である。、
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  且少数民族、就中、所謂国家なき民族に封する行政的自治橙の許可は瀾じ様に潜在的破
  壊手段として用ひられる。例へぼモッスルクルデン人に或る特植を輿へることは、土耳盲
  のクルヂン人を煽勤し土耳右を苦しめる目的を有する。間接統治につき往一々英圃が外周に
                                           ′
 ・射して誇り→君達は英圃で如何に書く待遇されるかをよく点るが宜しい」と大言すること
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に止めることにする。国境を越えた封外宜俸工作であると他の領土に影響を及ぼす行政組
織であるとを間はす、行政は往々国境を越えて影響を及ぼす。スロプアキヤ及びカルバー
                                    ー
ロシアの行政の殆んど験す所無きチェッコ此は1カルバーロシアでは其虚に居住せる約
二常人の官吏が唯一のチェッコ人である・ト・ハンガリー固の国境修正希望に封する威嚇手
段と考べられてゐる。英国は東阿苑利加に於て締著な迂遠策を探ることを茸用的と考へた.
英国は印度に於ける挙ろしく沸騰せ省反抗熱を冷却せしめる為に、印度民族の一部をケニ
ヤ及びタンガニカ地方へ造り、其虚や印度人も植民地行政に参加せしめることにしてゐる
                                                                  0
白人の居住する植民地として宜俸されてゐる英領ケニヤに於ては、「印度人のアメリカ」と
一般に稀せられてゐるに町拘はらす印度人に封し橙利を輿へることを可成慎重にしてゐる′
が、英国人は印度人に封する好意を嘗礪逸領のタンガニカ重任統治地に於て示し、下級の
行政横網を殆んど全く印度人に輿へて居り、印度人はそこでは隣カのケニヤとは反封に
「白人」と見傲されてゐる。其の目的は全く明瞭であ頂他日委任統治地の返還が政治的/
並びに道徳的理由から最早不可避となつた時、知らん頚をして印度人の柊利を楯に取り或
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 (謂註、本図外に離れて他国に幽まれた領土)を作る為に奮猫逸領東アフリカが印度の間
                            、
嶺になる如く仕組んだのである。印度漑奇妙にも唯二の植民地とし雀圃際聯盟に猫自の代
表を派遣してゐるから、都合の好い横合にタ、ンガニカの印度の行政横閑は図際聯盟で委任
統治の放葵を香認し英圃を安倍にその精神的危惧から開放し待るであらう0英圃人卜・か
かる迂回戦術の達人−は此の方法を其の植民地的姉妹囲の黙劇な攣皿慾灯封しても用ひ
てゐる。かくて開阿の黒人保護領に於ける原住民に依る行政は、南阿聯邦をその洗摩された
人種政策で拘らし、黒人保護領の併合を企親してゐる南阿聯邦の政策に封する黒人の反抗
熱々育成する為の巧妙に用ひられた手段である。、
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 且少数民族、就中、所謂国家なき民族に対する行政的自治植の許可は同じ枝に潜在的破
壊手段として用ひられる。例へぼモッスルクルデン人に或る特橙を輿へることは、土耳右
のクルデン人を煽動し土耳右を苦しめる目的を有する。間接統治につき往−々英圃が外周に
                                       ′
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も一寸袋に慣れて置こう.