三、学校数育を繞る文化闘争

 少数民族経営の学校への入学許可を決定する場合に姓名分析と姓名変更の政策が応用される。一般に学校及び教育に対する破壊的闘争は原則的には言語闘争である。而もそれは最も苛酷にして厳粛極まる闘争である。少数民族中の成人に対する政策はむしろ人間生活の他の分野に向けられるが、子供に対してはその両親から引離し、両親が子供に民族性を涵養する教育を施すことを妨害せんとすることに努力される。少数民族の学校に対する弾圧は実に人権蹂躙であるのみならず、少数民族保護の精神に悖るものである。少数民族の学校自治を無視することは、チェッコに於て最も甚だしい。少数民族に対し制限された学

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 校自治を認める畢校法令はあるが、それは外交上に用ふる見せかけの為の方便に過ぎす、
 軍際は行はれてゐない。完一八年チェツコでは四千の畢扱が解散を命ぜられた0姓名分
 析が行はれ、母系にチェサコ人の血が無きや香やが探索され、多くの子供達は少数民族へ
 の辟属性を剥奪され、チェッコ人畢校に造られた0多くのドイツ人が住み、僅少のチ…
 ■コ人しか住んでゐぬ地方に、堂々たるチェ三人畢校を建て、最初は僅かのチェッコの子弟
 が通つてゐたが、やがて礫定の計婁に基き、璃逸人小拳校を閉鎖し−潟逸人の子供が遠く
 離れた濁逸人小畢校に盛挙せねぼならぬ結果逢に病気となり−止むを得すチェッコ人学校
 に入壊せねぽならぬ様に仕向け、叉、姓名分析と家系調査に依り猫逸人をチェッコ人とし
                                                  し
 て取扱ひチェッコ小畢校に入らせた少した0更に苛酷な手段としては、子供をチェッコ小
 畢校に造らぬドイツ人の両親を官職からや為させたり−チェッコ人経常の職堤や更にはド
 イツ人経営の職場から追払出した少した(併圃ではか1る苛酷な方法がザール衆鋸のドイ
 ツ人労働者の子弟教育に対して行はれた)・チ…コ政府は宜俸員をドイツ人の両親の所に
 造り、子供雲ノ;コ小畢校に造れば無料で拳校に運び、無料で食事・衣服・食料品を得
増鴻椚慧昭慧盛甥≠惑へ増発箭餓鮎丸▼郵−より蜜卦榔吼い盛観畔横臥称銚咋郎郎祁瑚瀾弼
                                                                                                            ■こ− いヾり一≠.れ一′



                                            ノ
 誘に力めた。併し一萬九千人のドイツ人の子供は、チェ…人小畢校に行かねぼ父が職を
 失ふので、止むなくチェッコ人小拳校に入壊した.個人教授も認められす−幼稚園も禁ぜ
 られた。璃逸最古の大挙たるプラ」グ大畢やプラーグ及びブリ=の璃逸工科大挙の自治
 は歴々犯された。一九三四年礪逸の大挙をその歴史的由緒あe建物から追出し、大挙の壁
                                     ヽ
 賓を盗み、あまつさへ大挙の自治を取上げてしまつた0即ち文部省は大挙理事合の提案か
 ら攣止して教授を任命し得ることになつたのである0かくてチェサコ人も教授に任命され
 ることになり、璃逸人壌校の為の教員養成の造が妨げられること▲なつた・
  東部及び東南部の他の新興国家に於ても右と同校の原理に徒つて畢校政策が行はれた0
 就中、ポーランドに於ては少数民族に封してチェサコと同様な仕方で歴迫が加へられた・
 今日もポーランドには少数民族に封する拳校法令が存在せす、特に上級畢校の解散は璃逸
 人膚仕地に於て益々盛んに行はれてゐる.■所謂「再教育戦」(亡m汚F已u点許賀口苛笥g)
 が賓施されて、少数民族の子弟のポーランド語の力を試験し、その語拳カが不十分な時は
                                         −

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  容赦なく後等をポーラJド人畢校に造り蕗教育するのである.ルー了ニヤでは一九三五1
  六年の国家財政に於て「財政不足」の理由で鶴亀畢校凌講費を重く飢つたが、一九三由年
 と】九三五年に子四盲のル」三ヤ人畢校を建て、厳に五千の唇校が新しく建て始められ
  てゐる。一九三五年十月石三十一人の候補者が得業士の試験を受けたが、二十六人丈及第
  し、璃逸人は全部落第した。ユトゴースラゲイヤでは少数民族の畢校歴迫は最初は苛酷で
  あつたが、後には畢校自治添令が制定され、少数氏族に封し平行尊敬制が採用された。ハ
  ンガリーの割譲地に於てもハンガリー少数民族に封する畢校歴迫が行掛れた〇一九一四年
 スログァキヤに碑千四首二十忘ハンガリー人小隼校がありトルー†ニヤには二千空H八
  十七、ユーゴースラゲイヤには六盲四十五のハンガリー人小畢校があつたが、一九三四年
  にはスロヴタキヤには僅か八官六、ルー†ニヤには一千苫四十∵ユーゴースラブイヤに
  は四宙四十七のハンガy−人小畢校しか確存しなかつた.ハンガリー入自身もそノの囲内の
                                                 一
  少数民族を散歩よく待遇せす、教育制度の方南に於て央蝕な敬払を行つてゐる。A型・B型・
  C型の三種灯少数民族め畢校があ少、A塑性純粋に少数民族の言語で数へられ、B型では
礪那熱願噺針音譜L†ヂ十暗几帝で醜へられ、C型では魂特に芸†−ル譜で教へられ−少
                                                                      rノ、一」勺

 数民族の音譜は正科として敬へられるi最初竺壷は圃堵方面に存在し、一般にはC型が
 主要形態である。璃逸人皐校の七割はC型である.一九室五年にB型斬倣の統一型を作少
 それを賓施するこ■とに決定したが、魂逸人教師が僅少な為に賓行不可能になつたP何とな
 れば猶逸人拳壌はC型が多く、C塾の所佗は魂逸人数憮は僅かであるか又は泰然居たかつl
 たので念にB型の如き混合型を作ることは不可能であつた.然るに新法令に於ては教員養
 成を強化することは計室されてゐなかつた.               J
                                                                          ◆ヽ
 少数民族を歴捜する圃家忙して、音譜に封する開挙手段としての畢校歴迫と教育妨宰に
 依る畢校梗準の低下との二方法を用ひぬも・のはない。甫チX−ル地方の伊太利領内の猫逸
 人の楓親は、猫逸少数民族の拳校の教科目を唱歌・購苧逓戯空転目とする様に改正し
 た官腐に封し、「我々の子供が少くとも伊太利譜丈でも習へればよいの忙」とこぼしてゐる・
 フランデルソは大戦前に自耳義人の音譜政筆の結果として♯類に虜い発育状態を示した・
 一民族又は少数民族の教育に射す為政治的改革を防ぐ手段は音譜同率忙於けると同坪

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 で、自力を以てする凡ゆる手段と本国の支持を得て現状を維持することである.而して英
 の目的は粗く迄頑張り拭けて、畢校自治樵を獲得するか、本国と寄留圃との問に畢校協意
 を締結せしむるかに在る.従来存するもの土中で桟簡的な畢校自治法は一九一九年十二月
 ∴八日に制定されたラトゲイヤ圃の法案であるが、それに依り文部省内に少数民族部が設定
  され畢校自治が行はれるに室つ′た.