昭和十一年


/下
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\濁しド

 事欒は必然に起るか、偶然に起るか。必然忙して偶然と感ずること多く、後に其の偶然とする所の必然なるを知る
も多し。如何に必然を偶然とせるかの渡はかなるかの後に了解せらる1とも、蕾時偶然祀し、少くとも偶然と同一に
感ずるを奈何ともする能はず。一月二十一日、帝囲譲合再開、政府も解散を決意し、議含も之を覚悟せる勢忙して、
                                                                                                                ′
二十日、政友、民政、園同が各大禽を開き、二十一日午前十時二十七分、貴族院本合議が閑合、先づ倫敦に於ける海
軍軍縮合議全権に封する感謝決議案を満場一致可決し、岡田首相、炭田外相の演説あり、衆議院は午後一時半開合、
貴族院と同じく軍縮全権に対する感謝決議案を可決し、岡田首相、廣田外相の演説に次ぎ、高橋蔵相が満場の拍手裡
に登壇、昭和十一年度濠算案を説明し、諾々と公債漸減政策を説き、その演説の終るや、白根書記官長が裸紗を田口
書記官長に手交、総員起立裡に渡田議長は解散の詔書を奉讃、時に午後三時十二分、同時に貴族院が停禽と定まる。
政府は直ちに絶選挙の準備に着手、孝三一十二日の官報にて二月二十日に総選挙を行ふ旨を公布し、各府解知事をして
選挙費用の法定制限額を告示せしめ、二十二日午前九時より全国一賓に候補者の届出を受付く。政府は絶封粛正選挙
を標傍し、最も重きを言論に置き、各賞は之に應じ、政友禽は官僚政治を排撃し、囲防、産業の両全を唱へ、民政寅
は十大政策を掲げて憲法政治の擁護を叫び、国民同盟は五大項目を提唱して特に図防外交一元化を強調、昭和合は高
橋財政擁護を旨とし、く融合大衆薫は重委産業の国営を主張す。内務省は一月二十四日、地方長官合議、二十五日、警
察部長合議を開き、司法省も二十五、六日の両日に亙り検察長官合議を開き、選挙浮化にカを注ぐ。一月末日忙政友
三一六、民政二六人、囲同二七、昭和四五、融大二四、他を合せて累計七九二の立候補届出あり。一月二十五日夜、
岡田首相が首相官邸より「総選挙に際して国民に望む」との超目にて全国にラヂオ放送し、更に一月二十七日午後三
時よぺ日比谷公舎堂に岡田首相と高橋蔵相とが大衆の前に衆議院解散の理由、政府の政策開明の演説含を開き、満
場立錐の飴地なき盛舎裡に各三十分宛演説し、大に人気を集む。総選挙の結果は、


】園











立候補
〓九五
三三五

申 立 其 他

 四人

 三〇
一三五
入七六
官 選
〓〇五
一七四
一五
 二〇
一入
 三四
四六六
再 選
一〇ご
一三七
一一
一七
  三
  五
二七五
 新
五六
 二
 二
一一
 〓一
〓一三
 元
四七
 大
⊥→、

 四

 入

六人
選挙前
一二七
二四二
 二〇
 ニ四
  三
一一
四二七
仰の賞状も絶封過牛数を制するに至らざれども、
岡田内閣は輿薫民政某、昭和禽、中立議員中の政府支持者を合し、





優に過半数を制し得ると見込み、二月二十三日、首相が談話の形式にて絶選畢終了に対する所信を費表、民意を尊重
し憲政確立に邁進すべき決意を表明す。反響も相應に強いらしく、政府が得意の色を示し、世間にて然るべき勢と心
得たるに、世には意外の事があるもの、二十六日、帝都に雪が降ると見るや、永田町、霞ケ開、日比谷方面の交通が
周く遮断され、武装兵が緊張せる委勢にて警戒に任じ、朝来敬遠を中止せるラヂオが全国取引所の一再休業を報ず。


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匪F臥町ら


午後入時十五分、陸軍省は次の如く襲表す。
  本日午前五時頃二部青年脾校等は左記の簡所を襲撃せり0首相官邸岡田首相即死0渡逸教育線監私邸教育総監即死0牧野
 内大臣宿舎(湯河原伊泉尾旗館)牧野伯不明。鈴木倖徒長官邸倖徒長重傷0高椅大蔵大臣官邸大森大臣負傷0これら青年静枝
 の瀕起せる目的は、共の趣意書によれば、内外重大危機の際、元考重臣、財閥、官僚、政賞等の輯鯉破壊の元兇を費除し、以て
 大義を正し囲膿を擁護閑顕せんとするに承り。右に崩し杢点部隊に非常警備の塵置を講ぜしめたり○
 岡田首相は後に生存と知れたれど、殺害と信ぜられたるを以て、先づ首相臨時代理を決定することとなり、二十六
日、急遽参内せる各閣僚閣議の結果、後藤内相が首相臨時代理を兼任することに決定し、同夜宮中に閣議の結果、内
閣が総辞職し、後藤首相臨時代理は全閣員の辞表を取纏め、深更に朗下に奉呈す〇二十九日夜、内閣より岡田首相生
存の旨を襲表せるが、これ首相秘書嘱託として同官邸に起居せし義弟、務備陸軍歩兵大佐松尾停蔵が、容貌の酷似よ
り首相の身代りとなり、首相は辛くも難を免れたるなり○高橋蔵相が死亡し、牧野伯が危く党かれ−鈴木持徒長が輸
血にて助かれることも、後に孝表せらる。閣員の軒表奉呈後も後継内閣の決定を見るまで引績き国務を見よとの御沙
汰を拝し、後藤首相臨時代理以下、軍部と協力して蕾面の事態鎖塵、治安回復に封する應急措置に努めたるも、千四
官数十名の武装せる部隊が伺は帝都の中枢地域を占塚するを以て、陸軍は治安椎持に戦時警備令を施行することゝな
り、同日午後七時、東京警備司令部より次の如く襲表し、更に同十時二十五分、東京警備司令官より之に件ふ告論を
費表す。

  一、本日午後三時、第一師団管下に戦時警備合を下合せらる〇
  二、戟時替備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持するにあり0
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   三、日下治安は維持せられあるを以て、一般市民は安堵してその業に後事せらるべし¢
   骨論  今般第一師鞠管下に戦時替備を下合せらる。本職はこゝに大命を奉じ、軍隊の一部を節要方面忙出動せしめたり。今回
   の出動は、帝都の治安を維持し緊要なる物件を掩護する目的に出づるものなり、軍隊出動の目的以上の如し。本職は官民互に舶
   戒め、議首を慎み、秩序の維持忙協力せられんことを切望す。
     昭和十一年二月二十六日                           釆京警備司令官 香椎活乎
 二十六日夜、枢密院の御諮絢を仰いで東京市に戒厳令を布くに定め、二十七日午前三時牛公布、九段軍人禽館に戒
厳司令部を設置し、東京警備司令官乗戒厳司令官は香推中将、成厳参謀長は東京警備参謀長安井少将、司令官は左の
如く襲表す。

  二十七日戒厳司令部より警祀絶監及び憲兵司令官宛、軍事に関する警察事務に閑し左の如.く△叩ぜらる。一、集合及び時勢に妨害
 ありと詔むる新聞、難誌、庚台等の停止.二、銃砲、一弾薬、兵器の膏買及び授受停止。三、交通は停止せず (平常通り)。四、普
 戎配備を厳にす。

 午前十時牛、九段慣行祀に非公式軍事参議官合議を開催、林、眞崎、阿部、荒木、植田、西、寺内各参議官還に川
島憧相等、中央首脳部が合合す。同十時、軍事参議官東久遜宮鮫下が御参内、午後軍事関係の皇族方が績々御参内、
 〜
宮中西二の間に御合同、後藤臨時首相代理、川島陸相、湯浅宮相等陪席申上げ、時局に関して御懇談後、午後入時牛
御退出。
 閉院宮殴下も午後七時、御風邪に拘らず小田原より蹄京あらせらる。二十八日午後十時牛、戒厳司令部考表第三戟に、

  一、一昨二十六日早朝騒擾を起したる教官名の部隊は日下麹町寧水田町附近に位置しあるも、之に対しては戒蕨司令官に於て邁
   應の措置を講じつ1あり。二、前項部隊以外の戒蕨司令官隷下の軍隊は陛下の大命を奉じて行動しっ1ありて、軍紀厳正、士気
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一野r臣トト†
  赤旺盛なり。三、兎京市内も麹町囁丁水田町附近の一小部分以外は平静なり、又共他の全国各地は何等の襲化なく平穏なり。
とあり。戒厳司令部は皇軍相撃の痛恨事を避くるに肝脂を砕き、茨乳部隊の説得に努めたるも思はしからず、二十九
日早暁を期し、勅命に反抗せる荻乳部隊として断乎武装銭魔の決意を固め、午前六時、戒厳令中第十四條全部の適用
を告諭すると共に、戒厳区域内の交通一切を停止、凱ち市域の汽車、電軍、乗合自動車は午前五時牛より総べて運稗
を中止して、市外との通話をも禁止し、只ラヂオが刻々戒厳司令部の重要襲表を放逢す。戒厳司令部告論中に、
  叔起部隊に対する措置のため時日の遷延を敢て辞せざりし所以のものは、若しこれが鎮座のため強硬手段をとるに於ては、流血
 の惨事或は免る1能はず、不幸か上る情勢を招来するに於ては、その被弾地域は誠に長くも宮城を始め皇王族邸佐及び奉る虚もあ
 り、且その地域内には外国公館の存耗するあり、か入る情勢に導くことは極カこれを回避せぎるべからざるのみならず、皇軍互に
  相撃つが如きは、皇図頼紳上誠に忍び得ぎるものありしに因るなり。
と云ふが如き語あり。教室の陸軍機は説得ビラを積んで永田町附近の低空を飛行、兵に封してビラを撒布、被占領地
域内へはタンクを乗入れて同じくビラを撒き、附近の飛行合舘屋上より「勅命下る、軍旗に手向ふな」との文字を記
せるアドバルーンを掲ぐ。伺佗ラヂオの大横聾横にて「兵に告ぐ」として、
  遽に勅令が草せられたのである。眈に天皇陛下の御命令が費せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対
 服擬をして誠心璽息活動して爽たのであらうが、眈に天皇陛下の御命令によつて、お前達は菅原除に復廃せよと仰せられたのであ
 る。此上お前達が飽くまで抵抗したならげ、それは勅令に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。正しいことをして
 居ると信じて居たのにそれが間違つて居つたと知つたならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時迄も反抗的態度をとつて、天
 皇陛下忙背き奉り、逆賊としての汚名を、水久に受けるやうなことがあつてはならない。今からでも決して遅くないから、直に抵坑
  をやめて軍旗の下に復廃するやうにせよ。さうしたならば今迄の罪も許されるのである。空別達の父兄は勿論のこと、均民仝鴇も
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  それを心から所つて居るのである。速に現衣の位置を捨て1辟つて来い。
とあるは一般に解し易く、「今からでも遅くない」と云ふ語が世間にて如何にもと思はれ、
戒蕨司令官 香准酒手
廉く諺の如く通用す。戒



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厳司令部は次々に襲表し、午後二時に全部の麻順を終り、全く娯定を見るに至れるを告ぐ。三月四日、次の如き緊急
勅令を公布、凱日施行さる。

 勅令第廿一騎 第一條 東京に東京陸軍軍法曾議を設く。第二條 東京陸軍軍法曾議は陸軍大臣を以て長官とす。第三條 東京陸
  軍軍法曾議は、陸軍軍法曾議法界一條乃至第三條に記載する者の犯したる昭和十一年二月二十六日事件に陶する被台車件に甘、管
 轄樺を有す。夢四條 師囲軍法曾議の長官は、捜査の報骨を受けたる前條の被台車件を東京陸軍軍法曾議の長官に移遊すべし。前
 項の規定に依り泉京陸軍軍法曾議の長官事件の移遊を受けたるときは、捜査の報骨ありたるものと見倹し虚分すべし。夢五條 東
 京陸軍軍法合議は、陸軍軍法曾議法界一條乃至第三條に記載する者以外の者が、岡津第一健也至第三條忙記載する者と共に昭和十
 一年二月二十六日事件に於て犯したる罪に付、裁判樺を行ふことを得。夢六條 兎京陸軍軍法曾議に封する陸軍軍法曾議法の適用
  に付ては、特設軍法曾議と看供す。
三月四日午後一時牛、戒厳司令部酋局談として、事件に関する梢、、詳細なる内容を襲表し、同六日には坂乱部隊参加
率土兵千四百数十名の所蔵を明かにす。十日午後九時牛、
j 今次事件に賄し、北二輝、西田税1中村義明、薩摩雄次、亀川哲也1編井事専有五十数名は、憂慮憲兵隊及び替親庶に検挙泣びに
  検束せられ、取詞ペ中なり0

と襲表し、十九日午後五時二十分、

 飯乳軍に参加したる兵千三富六十名は、各鼻筋唇除に留置し軍法合議検察官において取詞中なりしが、昨十八日一應の取詞を了り、
  千三富二十教名は留置を解除せられたり。
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と費表す。七月七日午前二時、陸軍省弟表に、
  去る二月二十六日東京に勃蚤したる飯執事件については、その後特設せられたる東京陸軍軍法曾議において慎重審判中のところ、
 直接事件に参加したる滑捗二名、元牌校〓十名(内二名は事件直後自決死亡す)、見習士官三名、下士官二名、元准士官下士官入十
 九名、兵千三富五十入名、常人十名、中起訴せられたる者は瀞校一名、元牌校十入名、下士官二名、元准士官下士官七十三名、兵
 十九名、常人十名忙して、七月五日その判決言渡を終了せり。
  死刑(首魁)元陸軍歩兵大尉番田渚貞、死刑(首魁)同安藤輝三、死刑(首魁)元陸軍歩兵中尉栗原安秀、死刑(謀議参輿又は
 群衆拍揮)同竹島継未、死刑(同)同封馬顔雄、死刑(同)同中橋基明、死刑(同)同丹生誠忠、死刑(同)河瀬井直、死刑(同)
 元陸軍砲兵中駒田中膵、死刑(同)元陸軍工兵少尉中島莞爾、死刑(伺)元陸軍砲兵少尉安田優、死刑(伺)元陸軍歩兵少駒高橋
 太郎、死刑(伺)岡林八郎。常人にて、死刑(首魁)村中孝次、死刑(首魁)磯部浅一、死刑(謀議参輿又は群衆拍揮)駐川喜助、
  死刑(何)水上源一。

判決理由書には先づ、
  被舎人中、輝校、元将校及重要なる常人らが国家非常の時局に嘗面して激費せる慨世塵固の至情と、一部被奇人らがその進退を
 決するに至れる諸般の事情とに就いては、これを諒とすべきものなきにあるざるも、その行為たるや、慧弥に惇り、理非順逆の造
 を誤り、囲憲国法を無祀し、丙も建軍の本義を素り、苛も大命なくして断じて動かすべからざる皇軍を借用し、下士官兵を卒ゐて
 救乱行為に出でたるが如きは、その罪寛に重且大なりと謂ふべし、僻て前記の如く虚断せり0
とあるは、情理兼ね到れりと云ふべく、被告人が満足せると察すべきと同時、狭くして世間の壌勢の攣じつゝあり、
靡くして中外を通じ何等かの動乱の起らんとするを暗示しっ1ありとも見るべし0原因や動機に関して、先づ、
  材中孝女、磯部漆」、番田清貞、安藤輝三、菓原安秀、封馬勝報、中橋基明は、夙に世相の類靡人心の軽桃を概し、均家の前途
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  に憂心を覚えありしが、就中昭和五年のロンドン條約開題、昭和六年の清洲事襲などを契機とする一部識者の警世的意見、宰内に
  起れる満洲事襲の根本的解決要望の機運などに刺哉せられ、逸次内外の情勢緊迫し、我国の現状は今や獣親し得ぎるものあり、笛
  に国民頼紳の作興、国防軍備の充箕、国民生活の安定など、方に国運の一大飛躍的進展を策せぎるべからぎるの秋に宮西しあるも
  のとなし、時難の克服打開に多大の熱意を抱拝するに至れり。

とあるも、犯罪者が今更の如く納得する所ありたらん。襲撃に関して粛藤内府につき、

  子慣粛鹿賀私邸を襲撃し同人を殺害し、その際身を以て内府の危害を防がんとしたる天人春子に封し、温つて銃創を負はしめ、

鈴木持徒長につき、

  官邸を襲撃の際侍社長に数個の銃創を負はしめ、次いで安藤輝三は侍総長に止めを刺さん\とせしが、夫人孝子の懇厳によりこれ
  を止め、彦忙殺害するに至らず、

とあるは、事の反対なるだけ注意を要す。高橋蔵相は多年の経歴にて福徳囲満、縛名「布袋様」そのま1と見えたりし
に、拭が重くして只ならぬ苦痛ありとし、世には奇異なる運命もあるものと今更の如く感ぜしめたり、死刑の言渡あ
』たる者は七月十二日、死刑を執行し、同十入日、戒厳令を解除するに決定し、緊急勅令を以て同十七日公布せらる。
j薮乳事件は斯くて結末を付けたりとし、事件の起れる蕾時、後継首相鍵衡の御下問を拝したる西園寺公は、三月二
日参内、一木椙相、湯浅宮相等と協議し、璽二日獣考、四日午後二時十五分参内、拝謁仰付けられ、後継内閣首班候補
者として貴族院議長近衛公を適任とする旨を奏上し、三時五十分、近衛公が御召にて参内したるが、別室にて西国寺
公、一木梶相と倉見、健康上任に堪へずとて大命を拝辞す。西園寺公は一夜熟慮し、五日午後、大角海相、川島陸相
を宮内省内宿舎に招き、軍部内の情勢及び時局勒を詳紳に聴取す。五日午後三時十分、外相廣田弘毅を奏薦し、同四


一声臣軒L丸、
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〃】ヽ】{舶小  一





十分、御召にて廣田が参内、大命の降下と共に外相官邸を本部として組閣に着手、同五時、前特命全権大使吉田筏を
招いて外相就任方を交渉して内諾を得、次に同五時牛川崎文相、同四十五分小原法相の来訪を求め入閣の内諾を得、
同六時十五分大角海相が訪問、海相後任は永野修身大将を推薦する旨を停へて尉去、七時、藤沼庄平が招かれて内閣
書記官長と決定、九時に馬場銭一が招かれて蔵相就任の交渉を受け、九時二十分、川島陸相が訪問して陸相の後任に
寺内薔一大将を推す旨を告げ、九時五十分、寺内が組閣本部へ招かれて陸相就任の交渉を受く。尚性同夜廣田の代理
として吉田茂が町田、鈴木南総裁を訪問、大命降下の挨拶をなし、十時二十五分政友合の前田米戒、同四十分再度川
崎文相の来訪を求め、政民南真に封する入閣交渉を相談し、更に零時五十五分永田秀次郎、同三時下柑宏を招き、入
閣を交渉す。斯くて六日、閣僚の顔鱗れが内定、成立を期待されたるに、同日早朝、寺内大将が陸軍省に登臆し、西
教育総監、古荘次官、杉山参謀次長、今井軍務局長等と協議し、一方、村上軍事課長を組織本部に派遣して組閣方針
と閣僚の演勝れを聴取せしめたる結果、著るしく不満の粘ありとて、寺内大将が入閣を辞退すべきこと1なり、寺内
は慣行祀にて林、阿部、荒木三大将と舎兄、六日午後二時四十分、組閣本部を訪問して廣田外相と舎兄、陸軍として
廣田外相の組閣方針、殊に封時局認識に疑義ありとて事情を説明し、炭田外相も種々説明して諒解を求めたるが、遂
に結論に達せず。寺内大将は首脳部と倉見後左の談話を襲表し、問題はな性交渉中と説明す。

   此の未曾有の時局打開の重費に任ずべき新内閣は、内外に亙り虞に時弊の根本的刷新、国防充箕等積極的強力国策を遼行せんと
  するの気醜と賓行カとを有することが絶対に必要であつて、依飴として自由主義的色彩を帝び、現耽維持又は消極政策に依り妥協
  遊山嬰を事とする如きものであつてはならない云々。

吉田(牧野伯女婿)、下村、川崎、小原、中島に快からざることが知られ、これを取消すに決定、七日午前十時二十分、
2

    【
−イト畠 山
組閣本部にて贋田、寺内の第二次倉見が行はれ、寺内も「陸軍は破壊が目的ならず、非常時を爽切る強力なる内緒を
望むのみ」と云ひ、事が纏まらんとす。寺内、永野南大将が組閣本部にて入日午後三時四十分より四時間鈴り忙亙り
て意見を交換し、九日午前零時十五分、廣田外相談の形式にて、組閣方針の黎明が襲表せらる。吉田、小原、下村三
人は入閣を節過し、九日午前九時より廣田外相と寺内、永野南大将との第四次禽見が行はれ、軍部にて政薫よりの入
園者政民各一名を主張せるが、廣田の希望を入れて各二名となり、同日午後七時五分、廣田外相が参内、大命を拝受
する旨を奉答し、同入時、後藤内相侍立の下に親任式を行はる。首相条外相虜田弘毅、内相乗文相潮恵之朝、蔵相馬
場鎮一、陸相寺内譲一、海相永野修身、法相林頼三郎、農相(政友)島田俊雄、南柏(民政)川崎阜昔、遽相(民
政)頼母木桂弓錬相(政友‥ニ剛田米蔵、拓相永田秀次郎なり。同夜寺内新陸相よ≠庸軍の徹底と非常時局に庭する
陸軍の覚悟、川島前陸柏より事件に封する責任と心境とに関して聾明あり。伺佗乗任なる外相及び文相は、三月二十
六日平生飢三郎が文相に、四月二日有田八郎が外相に親任せらる。二十七日、南柏川崎卓音が病残し、民政菓より小
川郷太郎が入閣し南柏となる。三月九日の初閣議に於て馬場蔵相が財政方針大網を襲表し、高橋財政修正の決意を明
か経し、公債檜襲、増税賛施が知れ、株式市場に大恐慌を来すといふが如きことあり、蔵相は十日午後六時、再挙明
    甘
  一
を行ふ。これに伴つて種々の経緯ありたるも、結局廣田内閣の政綱が成り、先づ、
  今回撮らずも大命を拝し、異常の事襲の後を承けて内閣を組織す。共の任や甚だ重く、渦に恐怖の重りに堪へず。現下我国内外
  の時局は極めて多難忙して、其の淵源甚だ深し。政府は為に確固たる決意を以て庶政を一新して難局の打開に常らんとす。

と云ひ、
   国際信義に立脚して列国との誼を敦うし、東亜諸国の共存共栄、特に日満南囲の不可分関係を基調として東亜の安定カたるの賛
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  /

  を挙げ、遭いて世界の平和、人類の頑錐に貢献するは帝歯一貫の方針忙して、外交、国防共に此の国是に印應せしむべし。
と云ふ調子にて柳か抽象的に過ぎ、讃む者が惑ふなきを得ず。総選挙後の特別譲合は二・二六事件の突費にて延期し、
五月一日より三週間、戒厳令下に開合せらる心五月四日、天皇陛下親臨の下、貴族院にて開院式あり、勅語の中、
  今次東京に起れる事件は除が憾とする析なり。我が忠良なる臣民、朝野和協文武一致、カを図運の進暢に致さむことを期せよ。
とあるは、貴衆両院共に恐催感激し、首相、陸海南柏、貴衆両院議長、政薫各総裁等は、至誠を披漉して聖旨に應へ
奉るべき旨の謹話を襲表し、両院にて奉答文の決定につき特に慎重を期し、四日開合の衆議院勅語奉答文案起草委員
禽は前例なき小委員禽を設けて文案を練り、恐催して聖明に應へ奉るべく慎重審議協賛の任に増す誠心を披歴、五日
午前十一時、両院揃つて参内奉呈せるに、陛下には御嘉納あらせられて重ねて優渥なる勅語を賜はる。六日午前、貴
族院に於ける虜田首相の施政方針演説中、特に石動語を賜はれるに封し政府としての恐憾感激の恵を表明す。次いで
有田外相が外交方針に就いて演説し、寺内陸相は攣吉を求めて登壇し、今次不群事件に封し陸軍を代表して深く遺憾
の意を表明すると共に、陸軍蕾局が稲根を一掃するの紀封必要を痛感し、異常なる決心を以て事に蕾るべき旨を説明
す。午後一時より衆議院にて首相、外相の演説に次ぎ馬場蔵相の財政方針演説あり、「我国の歳出が将来減少を濠想
するは不可能なるのみならず、新たな国費の増加を覚悟せざるべからず」とて、これが歳入増加のため、赤字公債の
費行を今後も継績すると共に、租税制度の根本的改革を行ふ旨を述べ、その方針に就いて説明す。次いで寺内陸柏が
登壇、貴族院に於けると同様の説明をし、絡つて質問が出で、陸相より答樺し、翌七日、貴族院本合議にても陸相は
秘密合を変求、衆議院と同様の説明を行ふ。十四日、貴族院本合議席上、研究合の津村重合が質問演説中、陸海軍将
校を停辱する重大失言あり、軍部を憤激せしめ、貴族臨も其の失言を遺憾として、十五日の本合議に井田男の動議に
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当流Jl声。ナ卓  ゝや .ョ
J,、′.環一Jd、.け`†れ坤−舶1J−雲海i卜吋M
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て津村を懲罰委員禽に付すべしとの懲罰動議が成立し、津村は責任を負ひて同日辞表を提出す。衆議院は民政煮、政
友禽、昭和禽が執れも政府支持の立場にあり、他に若干の反封あるも少数にて問題にならず、政府案を可決し、務算
実は十六日、塵倒的多数を以て衆議院を通過、二十四日、貴族院を通過せるが、他に若干問題あり、二十四日は先づ
禽期一日延長の手績をとり、二十五日更に一日延長して五月二十六日まで績行、総動員秘密法案のみが握り潰され、
他は総べて通過す。
 世界は動くべきに動きつ1あり、二・二六事件は一小火山の爆襲に頼し、蕾習慣に囚はれたる者こそ驚きの目を瞳
れ、大波瀾の近づきつ1あるは種々の方面に現はれ、本年のメーデーが中止せるも戒厳令下なるにより、日掲間に赤
化防止を共同目的とする協定の交渉が進められ、十月二十三日、仮調印を見るに至れるは、蕾時表面通りに認められ
たるも、日掲の接近は前の世界大戦と異なる方向を指しっ1あるを示す。筒性十二月一日、伊囲が満洲囲を承認し、
同二日、帝国がエチオピヤ公使舘を閉鎖せること、日摘伊の接近の刻々迫れるを以てし、その何の結果となるやは知
らる上が如く知られざるが如し。これに先んじて八月一日より十六日間、伯林郊外グリユネワルトの大スタディアム
遷中心に第十一回国際オリムピック大倉が盛大に挙行され、五十一箇囲四千入官人が参加し、登剛の盛大を示す。日
 人
本が水上に制覇し、陸上に四位を得、来るべき第十二回国際オリムピック大倉が昭和十五年夏東京に開催せらる1に
決定し、これに絶大の希望を鳴しっ1夢の破れたるが如くなるは、如何に世界の欒動が普通に考ふる所の外に出るか
を例記するの頗る重要なる例に居る。日濁伊と米英yと全世界に李ひ、何時如何に結果を告ぐるに至るやが狭間とな
るべきこと、本年に於て疑問とする者が世界の何の比例となるべきや。人類の大多数が前に類なき新境地に臨み、新
知諭を得んとしつ1あるに非ざるか。
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一月二十言H、歴史家坪井九馬三残(枇腎二月一日、文相松田源治残(山J鞋。二十六日、内大臣海軍大将斎藤富子残
(仙腎蔵相高橋是清子残(糾針)。教育総監陸軍大将渡遽錠太郎穀(訝鞋。三月十二日、元外相内田康哉伯残(仙藍。二十
五日、山本条太郎残(撃)。二十七日、南柏川崎卓音焚(山l)。五月五日、大審院長富田見太郎穀(叫腎六月十日、壷
家土田葬儀残(彗)。七月十二日、董家満谷囲四郎残(訪腎九月四日、枢密顧問官石原健三残(講)。十月入日、女子
教育家下田歌子残(謡)。十一月十三日、古川柳研究家法博岡田朝太郎(三面子)残(賦腎十二月十六日、枢密顧問
官阪本彰之助残(幣)。二十四日、元大審院長牧野菊之助穀(巾腎三十日、茸業家大川平三郎残(如腎
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