正 名 論 ○辛亥                     藤田幽谷



 甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからぎるや。それなは天地の易ふぺからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下みりて、然る後に礼義措くところあり。苟くも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賎は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん。故に孔子曰く「必ずや名を正さんか。名正しからざれば、すなはち言順ならず。言順ならざれば、すなはち事成らず。事成らざれば、すなはち礼楽典らず。礼楽興らざれば、すなはち刑罰中らず。刑罰中らざれば、すなはち民は手足を措く所なし」と。
 周の方に衰ふるや、強覇こもごも起り、列国力争して、王室、絶えざること綫のごときも、なほ天下の共主たり。而して孔子、春秋を作りて、以て名分を道ひ、王として天と称し、以て二尊なきを示す。呉・楚、王を僭するも、貶して子と称し、王人、微なりといへども、必ず諸侯の上に序す。その名を正し分を厳にする所以に惓々たるは、一にして足らず。故に曰く「天に二日なく、土に二王なし」と。一に統べらるるを言ふなり。蓋し嘗(こころ)みに古今治乱の迹を覩るに、天命は常なく、徳に順ふ者は昌え、徳に逆ふ者は亡ぷ。桀・紂は至暴なり、湯・武は至仁なり。仁を以て暴に易へ、天下のために残賊を除くこと、なほ一夫を誅するがごとくにして、湯は徳に慙づるあり、武は未だ善を尽さず。商書に載するところ、魯論に記するところ、啻に誣ひんや。文王は西伯となり、殷の叛国を帥ゐて以て紂に事ふ。詩人これを称して曰く「王室燬(や)くがごとし、すなはち燬くがごとしといへども、父母孔だ邇(ちか)し」と。また曰く「赳々たる武夫は、公侯の干城なり」と。夫れ紂の悪を播(し)くは、火の原を燎(や)き、嚮ひ邇づくぺからざるがごときも、文王は徳を樹て、民を視ることなほ赤子のごとくして、民これを愛戴す。然れどもなほ王室と曰ひ、公侯と曰ふ。文王と紂とのことに当り、その名分の正しく且つ厳なるやかくのごとし。孔子曰く「天下を三分して、その二を有し、以て殷に服事す。周の徳は、それ至徳と謂ふぺきかみ」と。これに由りてこれを観れば、聖人の意、知るべし。
 赫々たる日本、皇祖開闢より、天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ)明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八洲の広き、兆民の衆(おお)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓の天位を奸す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふぺからざるがごときなり。ここを以て皇統の悠遠、国祚の長久は、舟車の至る所、人力の通ずる所、殊庭絶域も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。啻に偉ならずや。
 然りといへども、天下の生久し。世に治乱あり、時に盛衰あり。中葉以来、藤氏、権を専らにし、その幼主を輔くるや、号して摂政と曰ふ。然れどもただその政を摂するのみ、そ

08

 .一T                       かえ                 *
 の位を摂するにあらざるなり。政を天子に還すに及ぺば、すなはち号して関白と日ふ。万
                  みな            あ  せんごう
磯の政、その人に関白するなり。これ皆上の命ずるところにして、敢へて僧号をなすにあ
        *すいきエラ
らず。而して天子垂挟の勢も、また由来あり。鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天
                         *れんこく       *かんぐ
下の兵馬の椿事らこれに帰す。室町氏の覇たるや、輩穀の下に拠りて、躍虞の政あり。以
            *へい みな      *いりよう          *  たか
て海内に号令し、生殺賞罰の柄、成その手に出づ。威儀の在るところ、加ふるに爵命の隆
            ごうぜん                 ど し                               *く ぽう
きを以てし、傲然尊大にして、公卿を奴視し、摂政・関白も、名ありて実なく、公方の貴
                           *  たいくん     ちか
きこと、敢へてその右に出づる者なければ、すなはち「武人、大君となる」に幾し。豊臣氏、
  かんなん                       *  さしはさ
天歩覿難の日に当り、身、匹夫より起り、窟主の業を致し、天子を挟みて、以て諸侯に令
                                       たも    *きエーノ
し、長策を振ひて、以て城中を駆使し、遂に藤氏関白の号を奪ひてこれを有つ。その強
 ぼう                  と        つか
就すでにかくのごとくなれども、なほ臣礼を執りて、以て皇室に事へ、敢へて白から王を
称せざるは、名分の存するを以ての故なり。名分の存するところ、天下これを仰ぎ、強薪
                              *
の主、西滅東起すれども、天皇の専は自若たるなり。東照公、戦国の際に生れ、千曳を以
        *                *           てんき上
て海内を平定し、残に勝ち穀を去り、皇室を巽戴す。征夷大将軍を以て、東海に臭居し、
               *     よ上   かがや
四方を控制し、天下を鋲撫す。文子・武孫、世先烈を光かし、尺地の一民も、帰往せざる
ものなし。君臣の名、正しくして、上下の分、厳なり、その室徳たる、宜に文王の下に在
 らんや。
       *ち上1ノきん
 古の聖人、朝覿の礼を刺するは、天下の人臣たる者を教ふる所以なり。而して天子は至
                           *               *
尊にして、自から属するところなければ、すなはち郊祀の礼、以て上天に敬事し、宗廟の
 礼、以て皇Pに君事す。それ天子といへども、なほ命を受くるところあるを明らかにする
                                      いわ
 なり。聖人、君臣の這において、その謹むことかくのごとし。しかるを況んや天朝は、開
                           *ほうと にぎ  *    そつゆう
 闘以来、皇統一姓にして、これを無窮に伝へ、神器を擁し宝図を握り、礼楽旧睾、率由し
                                                          もと
 て改めず。天皇の尊は、宇内に二なければ、すなはち崇奉してこれに事ふること、固より
 か * 上うめい       ぎ
 夫の上天杏冥にして、皇P、戯に近きがごときの此にあらずして、天下の君臣たる者をし
  のhソ                        *
 て則を取らしむる、これより近きはなし。この故に幕府、皇室を専ぺば、すなはち諸侯、
幕府を崇びト諸侯、幕府を雲ば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す0乗れ然る後に上下相
        たつと                                                       そ



   *                               そ
 保ち、万邦協和す。甚しいかな、名分の正しく且つ厳ならざるぺからざるや。今乗れ幕府
                              ぶ      *
 は天下国家を治むるものなり。上、天子を戴き、下、諸侯を撫するは、窟主の業なり。そ
                           すいき上う
 の天下国家を治むるものは、天子の政を摂するなり。天子垂扶して、政を聴かざること久
                                                 *
 し。久しければすなはち変じ難きなり。幕府、天子の政を摂するも、またその勢のみ。異
                           あずか           、き上うほう                       *
 邦の人、言あり、「天皇は国事に与らず、ただ国王の供奉を受くるのみ」と。蓋しその実
                                 おのず
 を指せるなり。然りといへども、天に二日なく、土に二王なし。皇朝白から兵天子あれば▲
 すなはち幕府はよろしく王を称すぺからず。すなはち王を称せずといへども、その天下国
                        *はく
 家を治むるは、王道にあらざるなきなり。伯にして王たらざるは、文王の至徳たる所以な
                                   *い か ん
 り。その王にして覇術を用ひんよりは、その薪にして王道を行ふに易若ぞや。
         *
 日本は古より君子・礼義の邦と称す。礼は分より大なるはなく、−分は名より大なるはな
 し。慎まざるぺからざるなり。夫れすでに天子の政を摂すれば、すなはちこれを摂政と謂

09

     な      けん
 ふ、また名正しくして、言順ならずや。名正しく言順にして、然る後に礼楽典る0礼楽興
                       *
 りて、然る後に天下治る。政をなす者、畳に名を正すを以て迂となすべけんや0


 藤田幽谷
 ▲校正局諸学士に与ふるの書

0a

  *
 校正局諸学士に与ふるの書


      *
 彰考館散正藤田一正、江邸の寓舎に在り、東向再拝して、書を水戸校正局語学士の足下
       このごろ*     *し えき                         *こうねい    きんき上
 に致す。頃者立原総裁、砥役してここに至り、因りて語学士の在職し、康寧にして勃渠す
       っまぴ      きんい     や     い 士 *        *
 るの状を審らかにす。欣慰なんぞ己まん。方今我が公、書く義公の志を継ぎ、意を史書に
      *                                          のこ
 留めて、大場柏君、監理捉挙の任に当り、館僚を督励勧課し、校訂して余力を遺さず0立
               ふ じつ  ぜんしや    *  し
 原先生、衆思を集めて取捨裁断す。不日にして繕写し、まさにこれを梓に授けんとす0不
          ろんさだま   よろこび
 朽の業、百年にして論定る。何の慶かこれに加へん。
                       みず          ひろ                  せいじゆん
 然れども義公の史を縞するや、白から言ふ「実を拭ひ疑はしきを開き、皇統を正閏し、
     ぁっ              かつ
人臣を是非し、輯めて二次の言を成す」と磁野生碑銘〉○未だ嘗てその書名を命ぜずして、
             ぉか    *                    し しん ひそ
後入、義を定め、冒すに「大日本史」の号を以てす0僕、私心に窃かに曹てこれを疑ひ、
  きき
                                              あい
彙に水戸に在りて、しばしば諾学士のために、その不可なるを言へども、語学士は可香相
 なかは   けだ                         *          *たいじ
半せり。蓋し史の稿を脱せしは、正徳五年に在り。当時の総裁詔老は、皆義公に逮事せし
      おも え
者にして、以為らく「史は名なかるぺからず」と○衆論協議して、これを時君に聞き、定
               こうせい
 めてこの名を用ふ。もとより後生晩学、僕のごとき者の、敢へて転義するところにあらぎ
               にわか
るなり。ここを以て未だ敢へて遽にはその説を主張せざりき。たまたま書を江邸に馳せ、

    * し だい
 これを高橋子大に問ふ。子大の見るところも、また僕と同じ。また書に牙ふ「累日建議し、
    あらた      いかん   ひそ     さ たん        *がもう
その名を更めて史稿と計はば如何」と。僕窃かにこの言に左裡す〇一日、下野の処士蒲生
                 へいろ  と          こうがい   き き               すこぷ*てんこ
 君平なる者、来りて弊應を訪ふ。その人憶慨して奇気あり、書を読んで頗る典故に通ず。
        ひそ        * きんしゆう    しら ぎ けず *ゆう あき
談じて国史に及び、私かに僕に許ひて曰く「大藩纂修の史は、実を核べ偽を刊り、幽を聞
        けん ぴ                             ひそ   *  たい
 らかにし顧を徴にす。誠に経せの大典たり。然れども窃かにその体たるを視るに、よろし
                        やナ           しはら
く史稿と計ふぺくして、大日本史と日ふは、恐らくは未だ安んぜざるに似たり」と○僕始
                         おも      うたがい
くその義公の旧にあらざるを以てこれに答ふ。因りて憶ふ、人のここに尿あるは、独り僕
  へきけん                                         めいふ
 の僻見のみ然りとなすにあらずして、「史稿」の説は、子大・君平、冥符暗合す、奇と謂ふ
          *き けつ・          し
 ぺし。仮りにこれを判例に授けて、これを天下に布き、号して「大日本史」と日はば、す
        ふくひ.あんしよう                   * し
なはち有識の士の、腹誹暗笑する者、何ぞただ一君平のみならんや。故に今日、未だ梓に
授くるの命あらざるに及びて、請ふ、諸学士のためにこれを極言せん。
 そ                   *
 夫れ「大日本史」の名は、四の不可あり。蓋し天朝、号を建てて「日本」と日ふを聞く、
                      む か し
未だその「大日本」と日ふを開かざるなり。昔者、太祖神武天皇、始めて大和の地に都し
     し上くにほんぎ
 たまひ(続日本紀に「天平九年十二月丙京、大倭の国を改めて大養徳の国となす」「十九年三月辛卯、旧に依り、ま
         *しゆうポいし上う                 *
た大倭の国となす」と。拾芥抄に「天平捗宝中、大倭を改めて大和となす」と。倭名抄に「大和は呼びて肘肘材
                     *  いわゆる
欝と云ふ」と〉、歴朝、多くこれに因れり○漢史の所謂「大倭王、野馬台国に居る」とは、
           *かむやまといわれひこ      い とく
 これなり。故に太祖に「神倭磐余彦」の号あり、港徳・孝安・孝霊・孝元の四帝、皆その
 *き ごう       おおやまと
 徹号に廻するに、「大倭」の名を以てす。蓋し居地に因りて以て号となすなり。「神倭」

0b

                   ヤ ま と
 「大儀」の「倭」は、旧語これを「耶麻騰」と謂ふ、す■なはち「野鳥台」にして、仮りに
 漢字を用ふれば、すなはちこれを「倭」と謂ふ貪事記に、皆「倭」の字を用ひ、絶えて「日本」の字
   と わり                             .*
 なし)。舎人親王の書紀を修むるに及び、始めて「神倭」「大倭」に換ふるに、「神日本」「大
 日本」の字を以てす。蓋し天朝すでに「日本」を定号とするを以て、故にこれを迫書する
                                  みだ  お もえ
 なり。後人、たまたま殊徳以下の四帝に「大日本」の号あるを見て、妄りに以為らく「天
                              *    おおや士と
朝の号を建つる、もとより大日本と日ふ」.と。然れども親王は、神代紀の「大日本」の下
                                 ゃ ま と        しも     なら               *みもろの
 において、注して曰く「日本、これを耶麻騰と云ふ。下これに傲へ」と。その大和の三諸
 やま       やまと                いわゆる       *き
山を書して、また「日本の国の三諸山」と云ふ。然ればすなはち所謂「大日本」とは、畿
 ない や ま と            つまぴ       た
 内の大和の地を指して言ふこと、審らかなり。その官、或は畿内の大和を指すにあらずし
                    *せいはん                                          *
 て「大日本」と称するは、西蕃の天朝を専泉するの辞にして、我が定号にあらざるなり〈天
      くだら               いく盲のさみ かた             ナくい いくさのきみ
 智紀に云ふ「石済、賊の計るところを知り、もろもろの 将 に謂りて曰く、今、開く、大日本国の救の 将 云ムこ
と0肝体紀の注に曰く「大日本の人、審女を野りて州芸るを猷干とす」と)。故にその書に命じて「日本紀」
 と日ひ、未だ曹て「大」の字を加へざりしなり。蓋し孝徳の御字、制度大いに備り、号を発
       かんこ                          *
 し令を施し、換乎として観るぺし。その三韓の使臣に告諭して、「日本天皇詔旨」と日ふ
                     およ
 (日本紀、大化元年)。大宝中に令を定むるに逮び、その大事を以で蕃国の便に宣するに、詔書
                  *くしさりようのr、JH
 の式は、全く大化の制と同じ(公式令義解)。当時、西蕃を過するは奴隷のごとくにして、し
       みす                     *      *
 かも未だ嘗て白からは「大日本」と称せざりしなり。その後、国史を勅撰し、実録を修す
 るは、皆命ずるに 「日本」を以てすれども、未だ嘗て「大」 の字を加へざりしなり。夫れ
 *ぼう.ぎん *てんご
 卯金・典午の世、臣子これを林して「大漢」「大晋」と日へども、班固の「漢書」、王醸蝕頂
                                           いわ
 「晋書」、皆「大」の字を加へず。書に命ずるの体は、もとよりよろしきところあるなり0況
      く しき
 んや我が公式の令、実録の書は、「日本」と計ひて「大日本」と日はざるをや0その「大日
             *ふ と し
 本」と日ふものは、独り浮屠氏の文にこれあるのみ、畳に拠るに足らんや議引継割か云ふ「針
    こんごうだいお,     *言うえい あらわ             *
 は大日本国主金剛大王の子」と。また沙門斎英の著すところに、「大日本伝」あり〉。これその不可の一なり0
        おもえ                           *じんかん し
 或ひと以為らく「大日本史の名は、すでに久しく人間に播き、人間これを呼んで、ただ
                 しはら
 日本史と称すれば、今よろしく妬くこれに従ふべし」と。これ貌に然るを得ず。なんとな
                                       すうしエラ
 れば、「日本」にして「大」を加ふるは、天下の本号にあらずといへども、また臣子崇称
                                    *が】しゆん
 の詞にして、義において害なし。ただこれを史名に施せば、すなはち雅馴ならざるのみ0
 し上うとく   およ
 正徳より今に迄ぶ八十余年、「大日本史」の名は、すでに人間に播く。近せ、一俗儒あり
       そし    *だいげつし だいりゆうきゆう     *
威晰=欝、これを非りて曰く「大舟支・大琉球は、皆小月支・小琉球に対して言ふ0朝鮮
 のごときは、未だ曹て大朝鮮と日はず。小朝鮮なきが故なり。日本にして大を加ふるは、
     いわ                              ぞくじ  けんでん
 甚だ謂れなしとなす」と。この言一たび出でて、俗耳に喧伝す。今、「大」の字を去らば、
             *む けい           はく
 天下必ず謂はん、「本館の修史、無稽の名称を立て、一旦俗儒の駁するところとなりて、
 にわか        土      カ カ
 遽にこれを改む」と。また署づぺからずや。且つ彼の俗儒、何ぞ漠・晋・唐・宋の「大」
 を称するを知らんや。童にまた小湊・小晋・小庸・小宋なるものあらんや。朝鮮の「大」
          *はん みん しん
 を称するを得ざるは、藩を明・清に称するが故なり。もし一たび「大」を称すれば、すな
    たち      せんぎ                         ゆえん    カくカく
 はち立どころに僧偽の罪を獲ん。これその敢へてせざる所以なり。赫々たる天朝、宇内に