今後の国民思想動向と根本的対策竝に和平論及戦争終得の問題  
    (海軍省調査課 昭和二十年五月三十一日)



    調査課嘱託高山京都帝大助教授に課命せる左の項目に対する作業
   別紙の通
   第一、今後の国民思想動向と根本的対策
   第二、和平論及戦争終得の問題
    迫て第二項和平論及戦争終得の問題は未定稿にして尚当課と共同研究を要し且機微の点あるを以て所要の向に手渡供覧とす (終)


 第一 今後の国民思想動向と根本的対策

    一、序 説

 沖縄作戦の成否に拘らず敵の空襲、海上交通攪乱等々に殆ど変化無く戦局愈々重大さを加ふと推察せらるれ共、同作戦の成否が国内民心、東亜諸国、敵国及ソ聯に対して与ふる思想的影響には相当大なるものあるぺし、同作戦の成否が国内に及ぼす影響を推断するに若し失敗して玉砕に終る如きことあらば国民の敗戦感、絶望感が瀰漫するに至るべきは明瞭なるも、若し成功せば前途に明朗なる気分を生じ継戦意欲を振起する所尠からざるぺし。
 乍然右の如き敗戦感乃至絶望感は一時的興奮の性格をも有し知識層を除く一般民衆に於ては興奮の鎮静と共に尚抗戦意欲の持続振起は可能なりと推断せられ、又一時的には継戦意欲を振起さるるとも之亦一時的興奮の性格を有し適切なる思想指導、 国内刷新(最後的決戦体制の整備)を欠かば漸て〔ママ〕敗戦感乃至絶望感に転移する可能性大なり、故に成否の如何に依り思想指導には其の時々に応ずる機動性存すぺきも今後に対処すぺき根本方針にはさまで変化無かるぺく成否を超越して遂行せらるぺき方針を確立する事が最も妥当なりと推察せらる。

    二、失敗の場合の思想情勢と対策

    (イ) 思想情勢

   (1) 軍部特に指導部に対する不信任感、反感の著増

 「サイパン」失陥後唱へ来れる本土近傍戦乃至本土戦を以て有利と為すが如き弁明は最早限界に達し、軍指導部に対する信頼感の欠乏は特攻隊に対する国民的感謝の念に反比例して増大すぺく、陸海軍対立問題を繞る国民の不満、軍人の特権に対する反感等軍に対する批判的態度は漸次表面化するに至るぺし。

   (2) 敗戦意識の濃化

 此の段階に於て飛行機の不足の弁明は如何に努力するも勝利の途は閉されたるが如き絶望感を国民に与ふるに過ぎず、かかる絶望感は独逸敗戦の事実より来れる憂鬱の情と結合して、国民の感情は一時沈鬱の極に達すぺし、而して此の敗戦意識を基盤として和平気運の胚胎すぺき事を特に留意する要あり。 

     (ロ) 対 策

 如上の感情興奮状態には一時性のもの存する点に着目すぺし、軍に対する不信任感は殆ど回復し難きも、絶望感より来る敗戦意識の排除は漸次的に行はれ来る事可能なるぺし、即ち冷静なる反省に立還りたる時従来未だ国民間(生産部門)に緊張努力の極めて不充分なるものあり、尚一層の奮発の余地存する事、更に進みて国内体制が未だ真の総力戦体制に進み居らず、此の面の急速革新行はるれば未だ絶望に非ずとの戦闘意欲の昂進を見る事不可能に非ず、勿論斯かる転換の行はる為には次の如き適切妥当なる思想指導対策を必要とすぺし。

    (1) 軍にも失敗の青任存すと共に官民にも尚努力の余地存せし事の相互に謙虚なる自己反省の態度の表明喚起

    (2) 尚未だ不完全なる国内決戦体制を理想的なる総力戦体制に推進せば、戦力の増強未だ可能なるの理を率直に表明し、急遽此の点に軍及政府が革新を断行するの熱意を国民の前に表明せること。

    (3) 次に来るぺき本土上陸作戦に対し此の新たな戦力を以て対抗せば戦略戦術上の優位と結合して敵撃滅の途残されたる事を知らしむること。

 之を要するに適切妥当なる思想指導とは従来行ひ勝なりし空虚なる必勝信念を口頭禅の如く言明することに非ずして (之は従来の経験よりして何等効果なきのみならず却つて反感を買ひ軍の無策無能を表明するの結果に陥るのみなり)真の決戦体制即ち真の総力戦体制の完備と共に勝利の可能なることを指導することにして政府の国内革新の熱意の事実上の表示と提携せざれば何等効果無し。

     三、成功の場合の思想情勢と対策

     (1) 国民感情に明朗化を齎し之を契機として戦局好転するに非ずやとの観念を喚起し抗戦意識に強靭さを加ふるに至るぺし。

     (2) 乍然右感情は又一時的性格のものにして空襲の熾烈化、海上交通の攪乱等よりする戦力の漸進的低下、更に国内食料事情の逼迫等は漸て〔ママ〕一時興奮せる国民感情を鎮静せしめ戦争遂行の難渋なるを想はしめ何等国内に於ける人心刷新の機無ければ世界状勢の我に対する不利と想ひ合せて漸次勝利感を減殺せしめ厭戦気分を発生せしむるに至るならんと予察さる、仮令幸に本作戦には成功を捷ち得たりとはいへ軍部の戦争指導力に対する能力に国民は漸次懐疑を抱きつつあり、敵米の物量故に武備の優秀に就きては十二分に聞かされつつある今日何等機械化的装備無くして本土抗戦に勝算ありと容易には考え得ざる状態に来つつあり、軍官の軍需生産指導にも欠陥あるを知れるの事情は若し此の儘の国内事情を以て推移せんか到底国民の勝利感の減退厭戦気分の発生を防ぐ事は不可能なるぺし。
  
    (ロ) 対 策
 成功を機として断じて楽観気分を起さしむること無く、寧ろ国内体制を急速整備し以て抗戦意識に確固たる地盤を与ふぺく努力するを要す、殊に前述の如く成功せる場合と雖も漸ては失敗せる場合とさまで隔たざる如き思想情勢を現出すと予察せらるる次第にして、今後の思想指導に於て最も注意すぺきことは人心をして常に倦まざらしめざること、即ち常に新たに人心を新にし続けることにありとす、斯くて始めて得て陥らんとする厭戦乃至敗戦気分に新しき気分を注入して之を転換し以て勝利の希望を失はしめざること可能なり。

    四、成否に拘らざる根本対策

 右に考察せる如く本作戦の成否如何に拘り無く今後の思想情勢に対処すぺき根本方策は国内人心を刷新し以て勝利可能の途存する事を指導するの一事より他無し、そは即ち前述の如き国内革新即ち総力戦体制の急速整備に他ならず、但今日に於て行ふぺき総力戦体制の確立(国内革新)は全く新しき構想の下に全面的なる革命的改革を計る事よりも寧ろ従来の阻害力(国力の戦力化への阻害カ)を一つ一つ排除し行き以て自然に新しき体制へ変貌せしむるを以て妥当とすぺし。 而して此の際特に留意すぺき点左の如し。

   (イ)従来の法制等の旧慣に因はるるが如き事断じてあるぺからざる事。
   (ロ)思想的背景を偽装して、特に皇道主義の名を借りて総力戦体制の整備を阻害せんとする従来の一部の傾向に捉はるる事無く戦勝の要請する処に従ひ断乎決戦体制の整備に邁進する事。
   (ハ)思想指導は他との聯関より孤立して存し得ず、常に実際上の政策施策を伴ひてのみ始めて実効あるものなる事に留意する事。

 尚今後の思想指導に於て留意すべき事柄に次の三点あり。

   (A) 大東亜建設の道義戦なる事。
   (B) ソ聯、米(英)の対独勝利と独逸敗退とより来る思想的混乱。
   (C) 和平思想。

 (A)大東亜建設の道義戦なる事

 戦局逼迫するに伴ひ戦意昂揚の偽(ため)狭義の自存自衛のみを強調する傾あり、こは生存か死かの切迫緊張感を喚起するに是非必要なれ共戦争が道義性を忘れて生物的生存欲にのみ気分を駆り兎もすれば敗戦にても生物的生存を維持し得れば可なりとする如き気分に転化するの危険なしとせず戦争意志をその根底より持続せしめ、強烈な信念を貰かしむるには、かかる生物的以上の道義的精神力を常に与へ置く必要存す、故に大東亜戦争が東亜解放の道義戦にして大東亜建設の為日本が存亡を賭して戦ひつつある事の道義性、而してこの事は武力戦上の勝敗さへ超越して永く青史に輝くべき崇高なる歴史的意義を有し日本民族の精神的使命の発現に外ならざることを常に反省せしめ想起せしめることも亦必要欠くべからざる点なりとす、斯かる精神的支持なくしては真に永続的且強執なる戦争意志の昂揚〔ママ〕を期待し得ず、のみならず之は戦局の悪化と共に漸次日本より離れ行かんとする東亜諸民族の知識層の信頼を獲得し漸次崩壊を予想せらるる東亜共栄圏を理念の上に於て強化せしむるの作用をなすぺし。

 (B)ソ聯、米(英)の対独勝利と独逸敗退とより来る思想混乱

 独の敗戦、ソ聯、米英の対独勝利の事実は大東亜戦争の遂行上に影響を及ぼす処少からざらんも蓋しその影響する処は武力戦上よりも思想上に於て大なるべし、即ち個人主義、自由主義等所謂米英思想の排撃を行ひ、共産主義(或はソ聯的思想)を無条件的に罪悪視して以来既に十数年、その結果反動的にも独逸の「ナチズム」に傾き或る場合には「ナチズム」に精神的支援を求めし観ある我国の知識層には独逸敗戦の事実が与ふる精神的動揺決して尠からざるの事実を直視せざるぺからず、而してこの事態は反動的に独逸に対して勝利を獲得せしソ聯の「イデオロギー」を回想せしめ所謂赤化思想の流行以来何等思想的納得を与へざるままに弾圧せられし共産主義思想を再燃せしむるの契機とならざるを保し難く又米英的思想に隠然復帰し又は復帰せしむるを妥当とするが如き思想の興起を見るやも知れず斯くて今日未だ表面に於てはさまで大なる動揺を見ざるも我国の知識層の思想的底流に漸て生ずぺき動揺は若し適切なる指導を欠かば将来由々しき問題を生ずぺき公算大にして特に戦局我に非にして和平乃至敗戦気分の生ずる間隙極めて大なる今日戦争収得に際して徒らに困難を生ずる事無しと云ひ難し、更にソ聯も米英も我に対し、東亜諸民族に対し思想攻勢に出づぺしと予想せらるるが、之に対しても若し上述の如き国内の思想動揺に対して適切なる指導存せざれば到底防圧も対抗も不可能なるべし、即ち曾て赤化思想流行せし際の如く何等思想上之を防圧すぺき日本の思想無く更に米英思想の排撃に際して形式的な皇道精神以外何等内容上之に対抗し得る思想無かりしと同様の国内思想状況を再現せば単に戦争遂行上諸種の障礙を生ずるのみならず漸て思想上の無政府状態を現出するの危険無しとせざるなり。
 右の如き思想動揺に対し今後思想指導上注意すぺきこと次の如し。

一、 ソ聯、独逸、米英の思想の実体認識に就きて留意すべき点。

 ソ聯と云へば共産主義、独逸と云へば全体主義、米英と云へば個人主義、自由主義と極めて単純なる範疇を以て之を排撃或は逆に之に傾倒し来れる従来の教学指導層の態度は思想特に国家建設の動力たりし思想を理解するに何等歴史的地盤より発生せし歴史的性格を有するの事実を顧ず思想を時代を離れたる「永遠」の相の下に捉へ以て其の是非真偽を問題とせし態度と云ふぺきなり、こは凡そ思想と云ふものを真に捉ふる道に非るのみか之等の思想を国是とせると呑込める結果、ソ聯、独逸、米英の真の実体を把握し得ざるの結果を生ぜしめたり。
 吾人が現実の思想の実体を捉へんとする場合には第一にそれが発生乃至樹立せられし当時の歴史的環境或は歴史的情勢を地盤として理解する事第二に斯かる歴史的環境乃至情勢を越えて主張せらるる永遠の面をも理解することの両面に対する理解の態度が必要にして之等両面の錯綜綜合の間より具体的の制定亦可能となるも〔の〕なり、日本人の従来の外国思想の理解の態度には第一の面を忘るる欠点存する事を留意せざるぺからず。

ニ、米英及ソ聯の対独勝利、独逸敗戦の理由鮮明の思想問題

 独の敗戦、米英及びソ聯の対独勝利の原因は軍事的、経済的その他種々存すぺきも之を思想面より思想的問題として取挙ぐる時、米英及ソ聯の対独勝利を以て自由主義或は共産主義の「ナチズム」に対する勝利なりとし、独逸敗戦を以て「ナチズム」の敗北なりと簡単に考ふる事許さざるものあるを適切に指導するの必要あり即ち今次欧洲大戦の勝敗に働ける思想的要素を巨細に分析反省して米英の「デモクラシー」乃至自由主義、ソ聯の共産主義実は一国社会主義及び独逸の「ナチズム」が夫々有せる功罪を明白にする必要存すると共に、勝敗が斯かる「イデオロギー」に基けるものなるか或は寧ろ「イデオロギー」に拘泥せずに戦勝の要請に基く戦時体制を確立以て戦争を指導せる政治力に基けるかを綿密に識別、或は「イデオロギー」と「イデオロギー」外の要素との結合に基くかを判定し以て適切なる思想指導をなすを要すと共に勝敗に関する「イデオロギー」には国民精神民族魂が不可分に結びつける事を忘るぺからず。

  (C)和平思想(略)           (終)