青年と宗教  16.12.20 京都帝国大学新聞

 青年が宗教に関心するといふのは自然である。それは特に今日においては二重の意味を持つてゐるであらう。先づ一般的にいつて、青年時代は人生の悲哀や苦悩を思ふことが多い。そこに青年の感受性と理想主義とがある。物に感じ易い故に人生の悲哀を感じることも多く、理想主義的である故に現実に対して煩悶することも多いのである。かやうにして宗教に関心が持たれるやうになる。しかるに今日の青年は更に特殊の事情によつて宗教的関心を喚び起されるやうな状態におかれてゐる。そこに戦争といふ現実がある。青年は特に直接にこの現実の中に投げ込まれてをり、かやうにして死生の問題に直面してゐる青年に、宗教的関心が生じてくるのは当然であるといへるであらう。
 およそ宗教に意味がある限り、青年時代において宗教に関心を持つといふのは善いことである。その青年時代に何等か宗教的なものを味はなかつた者は、生涯宗教に封して無関心で終るといふのが普通である。すべての人間の青少年時代に家庭から受ける思想的影響といふものが主として宗教に関係してゐるといふ事実は、人生にとつて宗教が必要である限り、若い時代に涵養されねばならぬといふことを示してゐる。
 しかしながら真の宗教と単なる宗教的気分とを区別しなけれはならない。ひとは宗教的気分を通じて宗教に入る。けれどもこの関係は単に連続的でなく、否定を媒介とする弁証法的連続である。宗教的気分にひたつてゐるのみで、それが宗教であるかのやうに考へるといふことは、青年の感傷的な心にありがちである。宗教的気分は大切である。しかし為の宗教を掴むためには、それは一旦否定されなけれはならぬ。偉大な宗教的人間の多くがいはば回心を二度経験したといふ事実は、このことを意味してゐるのである。
 宗教が気分的なものとして与へられるといふことは、青年の心理にとつて自然である。それは一つの誘惑である。そしてすべての誘惑においてさうであるやうに、宗教的誘惑においても、それに何等の誘惑も感じないやうな人間は問題にならず、しかしまたそれに誘惑されてしまふことは危険である。
 この誘惑は二様のものであるであらう。一つは文学的、他の一つは哲学的と呼ぶことができる。
 第一のものは感傷的である。宗教的誘惑は感傷の甘さの誘惑である。感傷的であることが宗教的であることであるかの如く考へられる。第二の誘惑は、一層思想的な形をとり得るだけ危険も多い。これは浪漫主義の誘惑と称することができるであらう。とりわけ我が国においてはドイツ浪漫主義の哲学の影響が深いだけ、この誘惑も大きいのである。浪漫的な哲学は一種の宗教的な甘さをもつて青年にうつたへるのである。
 しかるに今日特に必要であると私が考へるのは、甘さではなくて厳しさである。宗教についても、その厳しさが理解されなければならない。真の宗教は厳しいものである。例へば、今日道元禅師をロにする者は多いが、禅師が時の北條氏に対してとつた態度の厳しさの如きはどれほど理解されてゐるであらうか。現実に対する宗教の厳しさを理解することが大切である。宗教的といふ名のもとに甚だ甘い見方があまりに多いのではあるまいか。今日の現実は決して甘いものではないのである。しかるに現実的といふ言葉のもとにさへ極めて甘い思想が流布されてゐるといふのが今日の実際ではあるまいか。
 表面的に見れは、宗教は今日一種の流行をなしてゐる。ところが現在宗教は現実に対してどれほどの力を持つてゐるであらうか。むしろ宗教の無力の歎かれることが久しいのである。真に宗教を思ふ者は、この無力が何に由来するかを考へてみなければならない。それは真の宗教が乏しいことを意味するのではないか。或ひは、宗教は現実に対して無力である故に真に有力なのであ
るといひ得るほど有力な宗教はどこに存在するのであるか。
 宗教が現実からの逃避であつてならないことは屡々いはれてゐる。単なる感傷はそのやうな逃避として斥けられなければならない。現実の中に楔を打ち込むことが必要である。どのやうに美しい調和のある思想であつても、ぐるぐるまはりをして、現実の上を滑かにすべつてゆくやうな思想には真の力がない。必要なのは、すべりの好い思想ではなく、現実の一tenに深く楔を打ち込んだ思想である。かやうな思想のみが実践的なカを持つことができる。歴史的現実は危機的現実であるのである。この危機に楔を打ち込むものが宗教であり、宗教の厳しさでなけれはならぬ。
 宗教は浪漫的な哲学的な甘さよりも却つて科学の厳しさに似てゐるといふこともできるであらう。或ひは今日の哲学は宗教的乃至科学的厳しさを持たねはならないのであつて、宗教の厳しさ若しくは科学の厳しさから逃れるために哲学の浪漫的な甘さが求められるやうなことがあつてはならない。今日我々が直面してゐる歴史の現実はそのやうな甘さの清算を要求してゐるであらう。
 自由主義の文化は非宗教的であつた。これに対して新しい文化は何等か宗教的基調のものでなけれはならぬと考へられるであらう。もしさうであるとすれは、宗教の問題は極めて重要であり、今日の青年が宗教に対して関心を持つてゐるといふのは意味のあることである。しかしそれが科学的な物の見方の厳しさからの逃避になり易いことに封して十分に警戒を要するのである。主体の確立は何等か宗教によらなけれはならないにしても、客体に対する実践はつねに科学を基礎としなければならない。客観的な見方を我が物とすることによつて我々は真に主体となり得るのである。

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16.12.20 京都帝国大学新聞