職業と思想

 人間の思想は多かれ少なかれ職業に左右されるものである。外交官には外交官流の、司法官には司法官流の思想がある。社会のいろいろな葛藤についても、職業と思想との関聯から考へると説明されることが意外に多いのではないかと思ふ。
 昔支那に諸子百家といふものがあつて盛んに論争したことはよく知られてゐる。漢書藝文志は百家の学を九の流派に区別し、そのもとをいづれも周の王官に求めてゐる。例えば儒家者流は司徒の官から出たものであらうと云ひ、道家者流は史官から、陰陽家者流は義和の官即ち天文を掌る人から、法家者流は理官即ち治獄の官から出たものであらうと云つて説明してゐる。かやうな説明は歴史的事実としてそのまま受取れないにしても、官吏の種類に応じてそのイデオロギーが異るといふこと、職掌と思想との間には一定の関聯があるといふことを考へたものと見れは面白い。
 学問や思想の分化が社会的実践的生活における職掌の分化に従つて生ずるといふことは西洋の歴史においても見られることである。これによつて学問は専門化するのであつて、外交官が外交官流の、軍人が軍人流の思想をもつといふのは勿論善いことである。けれどもその結果めいめいの考へ方が一面的になつて物を全体的に見ることが不可能になるといふことも、そこから生ずる。そのうへ悪い意味における職業意識といふものが加はれば、その弊害は大きいであらう。今日官僚出身でない政治家、その省出身でない大臣、職業的政治家でない政治家が必要とされるやうになつて来たのも、そのためである。しかし単に政治家や大臣のみではない、すべての官吏が自分の職掌的乃至職業的イデオロギーを超えて考へるやうになることが今日特に必要ではないかと思ふ。それが真の意味における全体主義的な見方といふものであらう。自分の思想が職業に制約されてゐることに対する反省は誰にも大切である。
 ところで九流百家の学のうちひとり儒教が現在にいたるまで大きな生命をもつてゐることに就いては種々の理由を挙げ得るであらうが、その最も重要なものは儒教の根柢にあるヒューマニズムであると思ふ。ヒューマニズムはもとより職業的イデオロギーを超えたものである。しかるに今日いはゆる全体主義の思想にはヒューマニズムが欠けてゐるのであつて、この点考へ直すべきものが多い。また対支文化工作において儒教を基礎とすることは現に行はれてゐることであるが、そのヒューマニズムの要素をもつと発展させてゆくことを考へなけれは、単なる反動に堕する惧れがある。


(八月二十三日)