新文相への期待



 荒木大将によつて伴食ならざる文部大臣が出来た。これは、その銓衡事情がどうであつたにせよ、ともかく歓迎すべきことである。新文相に対する国民の期待もその意味において大きいのである。
 荒木大将は「精神家」をもつて知られてゐる。地位と金とに執着する者の多い世の中で正真正銘の精神家であることは難事であるが、幸ひに新文相が精神家として国民に印象づけてゐるとすれば、文教上頼もしいことと云つて好い。ただ精神家の陥り易い単なる「精神主義」に陥らないやうに望まれるのである。国民精神総動員の如きも、最近、当初の精神主義を超えて物の問題の重要性を認識せざるを得なくなつてゐる場合である。
 親任式の翌日、高等学校専門学校校長会議に早速出席した新文相は、「七十年の伝統何するものぞ」と叫んだと伝へられる。その革新の意気は尊敬に値ひする。ただしかし七十年の伝統を打破するといふことは二百年前三百年前の伝統に還るといふが如き復古主義であつてはならない筈である。その令息をイギリスに留学させて教育した荒木大将は、そのやうな偏狭な国粋主義者であり得ない、と我々は信ずる。この文相が日本の教育界思想界に対しても同様に「善きパパ」であることを希望したいのである。
 この間或る新聞で、鳩山一郎氏は、氏の先般の外遊は氏の父君の遺志に依るものであり、今その遺志を実行して多大の利益を得たことに対して父君に深く感謝してゐた。その文章の中で氏は、氏の外遊当時、日本の議会において官立大学の教授の多数が赤化してゐるかのやうな発言がなされ、それが外国に伝へられて日本に不利な印象を与へてゐるのを経験したといふことを義憤を感じつつ書いてゐた。スターリンの名を挙げただけで一議員を除名した議会であり、多数の帝国大学教授が赤化してゐると云つても失言の取消を要求する者の一人もない議会である。しかも鳩山氏自身、あの瀧川教授事件当時の文相であつたことを考へてみると、政治家といふものが案外弱い者であることが分るやうに思はれる。この弱さは何に基くのであらうか。人間の強さ弱さについては先日も本欄で正宗白鳥氏が書いてゐた。現在の日本の求めてゐるのは真の勇気を有する政治家である。
 新大臣は「大物」であるといはれてゐるが、大物は大物らしく大局の認識に立脚して、国家百年の計に属する教育を、一時の流行や興奮に委ねることなく、おほらかに指導してゆくやうに期待されてゐるのである。


(五月三十一日)