婦人と学校

 学齢に達した子供を持つ家庭には役所から就学通知書が届く頃である。そして特殊小学校では入学考査が行はれようとしてゐる。役所から指定された以外のかやうな特殊小学校へ子供を入れようとする家庭ではマダムの心配が始まつてゐる。
 大学や専門学校の場合はともかく、中等学校や小学校の場合には、家庭では婦人が決定的な役割を演じてゐる。殊に有閑の婦人はなかなか教育に熱心なやうだ。これはもちろん悦ぶべきことである。しかしその反面には我が国の家庭では男子が子女の教育について殆ど全く無関心であるといふことも含まれてゐるのであつて、これが先づ改善されねばならぬ。
 有閑の婦人が教育に熱心であるのは結構なことであるが、熱心も方向を誤ると却つて害悪を生ずるのである。東京の小学校の如きにおいては彼女等が毎日のやうに学校へ押し掛ける。しかし彼女等の脳裡にあるのはクラスの全体の子供でなく、自分の子供だけであり、そして特に上級の学校へ入学させることである。彼女等の希望は、自分の子供を一般に「善い」学校へ、或ひは有名な学校へ入れて貰ふことだ。善い学校へ入れようとすることは一面我が国民の進歩的な性質を現はすものであるが、他面それは資質の問題であるよりも有閑の婦人の虚栄心の問題であることが多い。子供の素質などはあまり考へられないのである。小学校教育がかかる有閑マダム的影響から独立な見識を具へる必要があらう。
 上級の学校に接続した特殊学校へ子供を入れたがるといふことには、将来の入学試験苦から救つてやりたいといふ母親の気持もある。これは同情し得ることであるが、しかし教育には環境の変化も大切なのであつて、同じ学校にはかりゐることは子供の奮発心をなくし、新しい刺戟による自己発見の機会を失はせる等の弊害がある。都会の有閑婦人よ、自分の愛する亭主が恐らく多くは田舎出であり、生れた村の小学校で学んできたことを考へてみよ。優れた学校で下位にゐるよりも少し劣つた学校で上位にゐる方が子供のために善い。現在、小学校にも優劣があるのは遺憾ながち事実である。しかし教育に熱心な家庭が皆、役所から指定されたどこの学校へでも子供を入れてその学校を真に善くすることに積極的に働き掛けるならば、それは万人の利益になる。それが愛市心である。かやうな心掛けと、そして子供の素質に合つた学校へ入れるといふ心掛けとが一般にあれば、現在の入学試験苦の如きもよほど緩和されるであらう。


(一月十九日)