スポーツと自然

 西洋人は自然を征服しようとするに反し、東洋人は自然に順応する。そこに両者の生活態度の対立があり、東西文化の本質的な差異が存すると云はれてゐる。このやうな差異は藝術の方面においても認められるところで、西洋の医薬の学は理知的、分析的、局部的であるが、漢方、本草の学は直観的、綜合的、有機的であることを特色とすると称せられる。
 しかし今日我が国においても西洋流の医学が支配的となり、我々の身体や健康についての考へも変つてきた。一般に自然の見方、自然に対する心にも変化が生じてゐる。これは単に学問や実生活の方面においてのみでなく、我々の生活の周辺をなすに過ぎぬやうに見えるスポーツの如きにおいても認められることである。
 登山、キャンプ・ハイキング等、自然を対象とするスポーツは年を逐うて盛んになつてきた。これらのスポーツのうちには、古人が自然に遊ぶと云つたのとは異る、自然に対する新しい心が動いてゐるであらう。そこには自然から分離し、自然に対立するやうになつた精神がある。そこにはこの対立と独立とを意識してゐる人間がある。これは自然に順応すると云はれる東洋的な心とは違つたものである。これは寧ろ自然を征服しようとする西洋の近代科学の精神に通ずるものを有するであらう。スポーツそのものにも知的な、科学的なところがあるのであつて、このやうな理知性、科学性を無視しては近代的なスポーツの快味も味はひ得ないのではないかと思ふ。自然の征服においても自然に対する従順を必要とする。自然に従ふのでなければ自然は征服されぬ。ただこの従順は東洋的な自然への順応とは異る新しい道徳である。そして自然に順応することを根本的な生活態度としたと云はれる日本人も、このやうな新しい種類の順応においてはなほ甚だ欠くるところがあるのではなからうか。山の遭難者が多いのもそのためである。
 尤も、医学の方面で西洋医学に対し東洋古来の医学の価値が顧みられねばならぬと云はれてゐるやうに、我々の生活において東洋的な自然への順応を想ひ起すことも時にとつて有意義であらう。現代日本人はこのものをも忘れてしまはうとしてゐる。毎年夏になると、昔の物語にある一夜城のやうに、海にも山にも「何某銀座」といふものが出現する。都会からの避暑客が田舎へ都会の生活をそのまま持ち込むが如きことは、東洋的復古主義の盛んな今日、やめた方がよい。

                                         (八月六日)