大学の権威

      一

 大学に於ける「事件」は次から次へ現はれて来る。大学はもはや平和の園ではない。大学もま
た嵐の中に立つてゐる。極く近いところでも、京都の同志社大学事件、東京帝大の矢内原教授事
件等、官立たると私立たるとを問はず、大学の事件は跡を絶たない。そして甚だ遺憾なことは事
件の起る度毎に、社会における大学の信用が失はれ、大学の権威が墜ちてゆくやうに思はれるこ
とである。これは大学の存在の本質に関はる重大な事柄である。裁判所に権威が認められなくな
つた場合、裁判所の存在は疑はれねばならぬやうに、大学もその権威が認められなくなつた場合、
その存在が疑はれねばならぬであらう。大学の権威は勿論その建物や設備に有するのでない、そ
れはその教授の有する位階にも、その学生に与へられる称号にも有するのでない。大学の権威は
なんら特種階級的のものであり得ないし、またあるべきではないであらう。大学の権威が疑はれ
るやうになつた今日、大学の権威はいつたい何処に存するかについて、教授も学生も深く考へて
みる必要があると思ふ。
 近年における大学の事件の先づ一つの特徴は、それが教授間の反目、軋轢に基くと云はれるこ
とである。そして更に注目すべきことは、この反目、軋轢が学外の勢力とつながりを有すると云
はれることである。以前の学園事件は主として学生運動に関係してゐた。学生運動の当否は別に
しても、事件の主体が学生であつた間は、事件そのものにも明朗なところがあり、外部にゐる者
もその性質をよく理解することができた。しかるに事件の当事者が教授に移つて以来、事件が思
想問題である場合にも明朗なところが無く、何か私的なもの、派閥的なもの、陰謀的なものが背
後にあるのではないかと感じられるやうになつた。事の真偽はともかく、それらの事件が学外の
或る政治的勢力と連繋を有するもののやうに噂されるのも、そのためであらう。事件を起すこと
自体があらゆる場合に大学の権威を失墜させるわけではない。事件が公共性(エフェントリヒカ
イト)を欠いてゐるといふことが、先づ第一に大学の権威を疑はせる原因である。
 大学教授も人間であるから、嫉妬、猜疑など、人間的な感情に動かされることがあるのは已む
を得ない。けれども大学教授は何よりも学問といふ最も公共的なものに仕へる者である。この自
覚があれば、大学の権威に関するやうな重大な事件において個人的な好悪や愛憎は問題にならず、
この自費に基いて行動される限り、私的な英次や暗闘は存在い得ない筈である。大学はつねに拳
闘の立場に立つことによつて最も公共的な圃燈であることができ、学問に本質的な公共性は大学
ヽ一l!ll    モミ11‡−−一一・11■−蔓
を特種階級にすることなしに特権階級以↓の権威あるものになし得るのである。歪丁教授も人間
である故に名著心や権力慾を有するのは自然である。
それにしても、この頃の事件は「人間的な、
                    音1..1一
線りに人間的な」ものを感じさせる。教授の名著心は学問の名著のために仕へねばならず−その
ヽ与
権力慾は大学の権威の前に服しなければならぬ。
ところが今日の音際は、「学問的良心」といふも
のでさへ私的なものとなつてゐはしないであらうか。良心はもとより人格的なものである、しか
しそれ故に良心を私的なものとすることは正しくない。
学問的良心は元来公共的なもの、徒つて
また杜合的なものである。大学といふ共同鰹が一つの良心を有するのであり、
これによつて大学
は権威を有し得るのである。ところが近頃では、良心といふものが私的なものとなつた上に、更
に困難な現青から逃避するための一つの場所とさへなつてゐはしないであらうか。この危険は、
あの1教養論」が流行して、個人の主膿的調整が云はれるやうになつて以来、学生の間にも現は
れてゐる。良心といふものが、同僚や友人の運命はどうであれ、自分だけ潔くしてをりさへすれ
ば、しかも自分の行動はどうであれ、心だけ綺麗でありさへすれば、それで好いといつた周な、
個人主義的なもの、主観主義的なもの、濁善主義的なものになる傾向は、大学に封する外部から
の歴カが激しくなるにつれて、檜して来る。この種の個人主義、主観主義、猫善主義は、大学に
                                                               〉l†一■
特に著しく残存するインテリゲンチャの特権階級意識のために容易に生じ得るものである。撃閏
的良心は公共的なものとして大学そのものの精神である。
ヽ亨‡−−音
な良心に徒ふべき義務を有してゐる。
大学に属する者はこの共同健の公共的
 大学は学問に仕へる囲饅であるが、この囲膿も囲膿として強力でなければならぬ。しかし大学
は政治園健でない故に、この国債を支配するものは権力であつてはならない。寧ろ大学は、自己
の任務とする学問の研究を…するやうな・:が::::::::…::・た場合、学問擁護の立場において
自己の存在を防衛するために強力な囲健であることが必要なのである。強力であるには大学の内
部に協同が有しなければならぬご1の協同は大学が自ら一個の政治的勢力となるために必要であ
るといふのでなく、元来は学問の進歩教達のために必要であるのである。もしも学問が全く個人
的なことであるならば、大学といふ組織は不要であらう。大学の協同は先づ学問めために要求さ
首l11・き■
れるのであつて、∴学問的精神に活かされてゐなければならない。そして次にかやうな協同が存在
大学の権威
四三

                         四四
する場合、それはまた大学が権威ある琴享自己の存在を=======・==・====‥に対抗する
ための力ともなり得るのである。ところがもし大学が毒教授といふ要約刺客によつて結ばれ
たギルド的なものに過ぎなくなつてゐたらどうであらう。その場合、大学の権威は認められない
ばかりでなく、大学は、浄写孟等かの地位を獲ようといふ品を有する者以外、一般の寧
芙衆の真賓の関心をつなぐことができず−その結果−畏として彗にならざるを得ないであ
らう。学生のカが加はらない限り、大学は彗であり得ない。かやうな協同とは反対に、大学の
内部に私的な反目や軋轢が有害る場合、それは・・…===・=・=・を容易ならしめることになる。そ
してもしこの反目や軋轢が=・=…===・と結び付く場合、それは学園を破壊するに至るであらう。
今日、大学が協同一驚て−=・に対して学問を防衛する必要があると云はれる時において、大学
をそのやうな仕方で内部から===化する者が彗あるとすれば、その老は毒にとつて最も…=・
な人物であると云はねばならぬ。
 ところで大学といふもののうちには、勿論、学生が含まれてゐる。笠がその構要素となつ
                                                 ▲l一l育
てゐるといふことが、大学を研究所やアカデミーなどから直別するのである。学生は大学の活動
にとつて単に霞であるのでなく、・却つてその毒的要素である。その意味において笠と教授
 l盲11ミ1一−1I■1I葺Iミ
憂苦  デ   ∴〔、恕淡濃儀題
遊学.。。涌dで】』畑
とはT仲間」であり、
学生も大学における学問の研究について着任を分措してゐる。学生は主鰹
ヽf‡lI書l一手l一,書
的に、学問の進歩と大学の権威の維持とのために協同しなければならぬ。しかるに今日の学生に
かやうな精神が次第に乏しくなつてゐるのは、何よりも先づ彼等にとつて大学は就職のための機
関を意味するやうになつてゐる放である。或る教授の学問に対する共鳴乃至尊敬からではなく−
ただ就職の便宜があるといふ理由で、その教授の研究室に入る者が多いと云はれる現状において、
大学の権威などは問題にならないであらう。かやうにして今日の学生には自分たちも大学の主餞
的要素であるといふ自費が次第に失はれつつあるやうに思はれる。就職が最大の関心となつたこ
とは、
 −
る。
統合的原因に基くのであるが、この現状において大学の権威が墜ちてゆくことは確かであ
 ここで大学の権威といふものが歪曲されないために附け加へておかねばならぬことは、我が国
の大学には他の所よりも恐らく一層多く封建的なものが残存してゐるといふことである。各大学
相互間の封建的な封鎖性、教授の徒節制度的採用法、親分乾分の関係、学閥〔学派ではない〕や
開閉、等々、その封建性は到る虞に認められるであらう。かやうな封建性が存在する以上、大学
の自由などといふことが叫ばれても、それがどれほど切賓な生命的な安求であるか疑問であるで
大学の権威
四五

四六
あらう。大学の自由は、何か事件が起つたときに、思ひ出したやうに叫ばれるのみで、いはゆる
日常闘箸通じて真剣に要求されるといふことがなく、その叫びも今日では墓に警なりつつ
あるではないか。外部に向つて自由を要求する大学は、先づ自己自身のうちにおいて大学の自由
といふものを晋現することに努力すべきであつて、この鮎では今日においても政治的権力と衝突
することなしに賓行し得る事柄が多いであらう。残存せ
る封建性は大学の特権階級意識の基礎と
なつてをり、そして注意を要すること
Iミ・1‡・一1I
は、この特植階級意識が大学の権威と思ひ誤られてゐるこ
との稀でないといふことである。
るのである。
大学の権威について我々がその公共性を強調したのもこれに依
   〓
時局の彩響を受けて大学の問題もいろいろ欒化して来`議的に云つて、最も前面へ現はれ
て雲間慧、大讐国家との関係である。大学が国家を無税してならぬことは云ふまでもない。
                       ヽ′ミ1.I
国家の費用で出来てゐる官実学のみでなく−私芙轡にしてもその鮎においては同様である。
しかしこの際いろいろ考ふべきこと・がある。
先づ、国家とその時々の政治とは同じでなからう。
国家は悠久であり、政治的風潮は時に徒つ
て攣化する。時流に追随すること必ずしも真に国家を愛する所以ではない。時流を批判する者が
愛国者でないといふことはあり得ない。むしろ国家の清爽を憂ふる故に現在の風潮に封して批判
的にならねばならぬといふことは生じ得る。もし凡ての者が無批判的に時流に迎合してゆくなら
、′、′11rI           盲− − 11一l一斉l       ■ 【..【
な或ひは局部的な見地にとらはれることなく、時間的にも一層廣い見地に立つて物を見てゆくと
ば、国家は却つて危いであらう。
                                         il一丁ll
物を客観的に見てゆくといふことが学問の態度である〇一時的
いふことが学問の態度である。大学はその生命とする学問の精神に徒つて時局の正しい認識を得
ることに努力すべきであつて、それは国家にとつて有益でこそあれ有害であるべき道理はない。
批判的精神を失ひ、徒らに時流に迎合するといふが如きことでは、大学の権威は疑はれねばなら
ぬであらう。
大学が国家に仕へるのはその学問によつてである。国家は、
                                                                                                                    .1 」l■
学問の進歩教達が国家に必要であ
ればこそ、大学を設立したのである。真理は個人や薫沃にとつて必ずしもつねに好都合なもので
はない。ところがそのために一部の者が大学の学問を自分に都合の好いやうに攣へようとするな
らば、それは学問の破壊であり、学問の進歩教達を必要として大学を設立した国家の意志に反す
大学の権威
四七

凶八
ることになるであらう。大学教授の場合、自分の弟子が自分の思想を批判するやうなことに出合
ふかも知れない。その時−この弟子の思想が自分に都合が悪いといふ理由で彼を排斥するならは、
その教授は真に学問に仕へる者と云ふことはできぬ○同じやうに政治家は、たとひ或る大学教授
の学問が自分には好ましくないものであつても、
国家といふ客観的なものの立場に立つて自己を
制御し、徒らに弾歴を行つてはならない筈である。大学の権威が維持されることは国家忙とつて
も大切である。大学の権威は
べきものではないであらう。
「真理への意志」
に基くのであつて、
国家の理想と真理とは矛盾す
ー瀦
すでに国家は学問の進歩教達のために大学の必要を認めた以上、大学がこの寄託され七任務を
遽行する上に必要な條件を大学に対して認めなけれはならぬ。かやうな條件のうち竺のものは
研究の自由である。
研究の自由は学問の進歩教達に必須の條件であり、
またそれは学問の公共性
のためにも要求されてゐる○大学自身としては研究の自由と協同とが決して矛盾するものでない
ことを示さなけれはならぬ。しかるに今日の大学においてはその賓が†分に示されてゐないので
はないか。そしてそのために研究の自由が外部から脅かされることを多くしてゐるのではないか。
そのうへ今日−研究の自由を要求すべき大学において却つて樅威主義の傾向が著しくなりつつあ
 廃墾
】届
るといふことがないであらうか。大学の権威と学問における権威主義とは厳に直別さるべきもの
であり、我々は後者を否定するだけ、それだけ多く前者を主張するのである。権威主義は事大主
義であり、学問に大切な批判的精神の喪失を意味してゐる。権威主義は官僚主義の一種であるが、
この官僚主義は、現在、官立大学においてのみでなく、元来は官僚主義に反封して起つた私立大
寧においても、次第に檜してゐるやうに思はれる。それは大学のギルド化や特権階級意識と結び
付くことは勿論、この時代の政治的風潮によつて助長されてゐる。大学の官僚化を防ぎ得る最も
有力な要素は学生大衆であるべき筈であるが、学生の間にすらこの頃では権威主義が見られるや
ぅである。権威は個人にあるのではなくて大学にあるのであり、学問と真理とを晋現するものと
しての大学にあるのである。
 研究の自由と遊んで大学の存在に必要な條件は、大学の自治である。大学の権威は大学の自治
なくしては推持され難い。とりわけ学問にとつて有害であるやうな政治化を防ぐために大学の自
治は必要である。教授の任免が政治家の都合によつて勝手に行はれる場合、教授は安んじて真理
の探求といふ自己の任務に従事し得ないであらう。今日各方面において唱へられてゐる大学制駿
の改革にしても、大学は自らそのイニシアチヴを取るべきであるに拘らず、その気塊に乏しいや
大学の権威
四九

五〇
、謹見受けられる。かやうな意力の誓は、大学は統合の1特等席」であきいつた夙の気持から
                                                              ミ
来るのであらう〜こでも大学のギルド化と特権階級意識とが改革の誓となつてゐる。但し改
革は時流に迎合するためのものであつてはなら計割酎針引引引
ミlJ一111i・T1.
ある〇一膿に、個人主義の排斥が叫はれてゐるこの時代に−大学においては真の協同の精神が乏
 ヽ′l
しいのはどうしたことであらう。嵐の中に立つ大学の運命を真剣に考へる者が管りにも少数なの
ではなからうか。自分の地位が安全でありさへすれば、自分の就職が確箸でありさへす簸、大
挙の権威なぞどうなつても好いのであらうか○国内相剋が戒められてゐる場合に、大学において
供輩排斥するといふが如きことがあつて好いのであらうか。
I銅
      三
ともかく時局の鰹カは容赦なく大学の↓にも加はつてゆく。大学はもはや組合の「特等席」で
あり得ない。嘉事欒に封して大学はこれまで超然主義といふものを彗てゐたが、今やこの超
然主義を排して時局に封して積極的に協力しなければならぬと云はれるやうになつて来たのであ
る。しかし超然主義といひ、積極的協力といふのは如何なることであらうか。
 事攣の首初インテリゲンチャは冷静であるとも冷淡であるとも云はれた。冷辞にせよ、冷淡に
せよ、そのことがともかく可能であつたのは、客観的に見れば、これまでのところ事攣の国内的
鬱響がそれほど現はれてゐなかつたためである。そして主膿的に見た場合人々は果して何等かの
確信があつて冷辞であり、乃至は冷淡であつたのであらうか。かやうな態度そのむのが青はオポ
チュニズムの一種に過ぎないと云へないであらうか。
ことばかり考へてゐるやうな学生が多くては心細い。
歴史のこの重大な時期に嘗つてなほ就職の
冷辞といふことが現音をできるだけ同避す
るための一つの口音であつては困る。真に冷辞であることは惑いことではないが、やがて何人も
冷坦肝であり得ない状態が来た場合にも、なほ且つ冷辞であり得るだけの確信があるであらうか。
その冷辞さには果して権威があるであらうか。消極的な態度、回避的な態度には勿論なんらの権
威も認めることができぬ。積極的な冷辞といふものがあるとすれば、それは現音に封してつねに
深く関心しながら、
しかも批判的精神を失ふことなしに、現晋の動きを理論的に把握してゆくと
音量−illl・llT一,l・li、壬.I
いふことであらう。
批判的精神と理論的把握とが政けてゐるところに真の冷辞は考へられない。
真の冷評はいはゆる超然主義と同じでない。現音に封して無関心な超然主義には積極性がなく、
徒つて権威がない。超然主義をもつて大学の権威であるかのやうに考へてゐるならば、大学は時
大学の権威
五一


                      五二
代から取残されてしまはねばならぬであらう。今日の時代は大学をいつまでも統合の「特等席†
としておくことを許さないのである。
 しかしながら、超然主義は排斥すべきであるにしても、時流に追随するといふが如きこともま
た慣しまなければならない。
追随や迎合に権威の存し得ないことは、すでに繰り返して述べて来
た。徒らに興奮することはなほさら危険である。
それでは大学が時局に封して積極的に協力する
 ヽ盲Ii
といふのは、いつたい何を意味するであらうか
ヽ一ミll_一l−iI
先づ注意すべきことは、大学は政府の政策を樹
てるための機関ではないといふことである○大学は企蓋院の如きものでないことは勿論、その他
                          −叫
何等か政府の設置する調査曾−審議曾、等々の如きものではない。大学においては学生がその
1市民」であるといふことによつて既に、大学は政府の政策樹立のための機関であることは不可
能である○大学をかやうな機関と考へょうとすることは、学生の存在を無税したことになるであ
  llIIJ11−皇IllIilllllll一・1111−1一・11・11■1・・一−一lllI
らう。尤も、大寧教授が何か政策を持つてゐるといふことはあり得ることであるし、また望まし
いことであるかも知れぬ。
ヽ宅〜1・I皇llI
けれどもそれは大学に対してその本来の任務として要求されてゐるこ
とではない。そのうへ、
大学教授は事青として政府の設置した学外の種々の調査官、審議合等に
席を有する場合が多い1蓋し除わに多い1のであるから、もし何か戯策したいことがあれば、
この機関を通じてすれば好いわけであつて、大学が大学として「時局に戯策」すべき必要は有し
ないやうに思はれる。この鮎について、このたび「百人†度の韓向」をしたと云はれる東大経済
学部の土方、本位田雨教授の談として侍へられることがもしその通りであるとすれば、認識に混
同がありはしないであらうか(十一月二十五日附東京朝日新開参照し。なほ進んで云へば、我が国の大
ヽ′蓄−ミ                      享i−
寧においては、政策を論じたがる学者が徐りに多く、反対に純理論家が少な過ぎるのである。こ
れは我が国の大学における恐らく重大な故障の一つであり、大学教授の懐く政策といふものがど
ヽ子
れほど倍値のあるのものかは知らないが、大学に権威が認められないのは、この、理論の欽乏と
いふことに関係がありはしないであらうか。新聞紙の云ふところに依れば、東大経済学部が「時
局に戯策」する申し合せをしたことは「嘗杜禽各方面に『頭脳の貧困』の叫ばれる折柄まさに一大
妙音」ともいふべきものであるとのことだが、今日の組合における「頭脳の貧困」は決していは
ゆる政策の貧困を意味しないであらう。政策を論じたがる者、政策を持つてゐると稲する者はあ
り徐るほどあるのである。現に例へば北支工作について如何に多くの政策が提唱されてゐること
き一一−与.ミ
であらう。その場合もし大学教授の懐く政策に何等かの権威があり得るとすれば、その理論的基
礎がしっかりしてゐるといふところになけれはならぬであらう。政策も大学においては理論でな
大学の権威
五三

五四
ければならぬ。今日の杜禽における1頭脳の貧困」はまさに文字通りの意味における頭脳の貧困
ヽ与
                    ミ11JIJ・1−1・−1il−・・−1音・11・1一1と・・、.」ul一
郎ち1理論の貧困」を意味してゐ驚大学は政府の政策の貧困に対して責任があるのでなく、理
論の貧困に封してこそ薯任があるのである。時流に封して批判的であるといふことは、それに野
 ヽf
 l
して真の理論的基礎を要求するといふことである。
今日の時局において理論が不要になつたわけ
ではないであらう。
むしろ益々必要とされてゐるのである。今日閏はれてゐるのは、大学は如何
なる政策を有するかといふことであるよりも、
大学は如何なる理論を有するかといふことセある。
これは単に今日さうであるのでなく、
つねにさうであるのである。理論は政策の基礎であつて、
やがて晋政令に出て活動する学生が大学において研究しなければならないのも主として理論であ
ヽ享
り、いはゆる政策といふが如きものではない。ところで理論を把握するには、時流のまにまに動
 ー 与・′I盲111・1竜一ー11皇ll
もしも現象と本質とが竺であるならば、一切の学問は無用であるであらう。知性者は現象に追
くといふことなく、
却つて時代の動きを冷辞に批判的に観察し検討するとい
ふことが必要である。
隠することを許されない○真の理論はもとより概念や論理の遊戯ではない。今日の人々が求めて
                   ヽ葺ll一.一11I
ゐる理論は切青な理論である○大学の構威は、時代と没交渉な概念の遊戯に得意気に革るといふ
l字          音・・・・篭1III∫11・一111I.1葺.11.
ことにあるのでないと同様、1政策的な、鎗りに政策的な」問題を得意気に談ずるといふことにあ
るのでもないのである。
 時局に封する積極的協力と稲せられるものと関聯して警戒しなければならぬものは、大学の政
治化である。文化の政治化によつて文化の破壊される危険の甚だ多い今日において、大学の政治
化も戒憤を要するものの一つである。勿論、学生にしても、教授にしても、政治的関心は持たね
ばならぬ。その必要は従来すでに繰り返し繰り返し云はれて来たことである。それは政治に封す
盲!一l一.I
る知性的な、理論的な関心を謂ふのである。ただ本能的な、衝動的な関心であるならば、現在の
やうな情勢において、誰が政治的関心を有しないであらうか。音際に大切なことは、
盲l■1一一音量l
の慌しさに心を奪はれて理論的な見方が失はれることのないやうにすることである。
現象の動き
何物にも驚
異しないことは自慢にならない、けれどもただ驚愕し、ただ興奮してゐるのでは知性の権威とい
ふものはないであらう。今後まだまだ激しい動きが来るかも知れないのである。政治的関心はつ
ねに活撥でなければならないのであるが、そのために学問が政治に屈服してしまつてはならぬ。
むしろ現在の情勢においては、政治的関心は学問を政治に屈服させてしまはないために要求され
るのである。学問を政治化するのでなく、却つて政治を学問的に、言ひ換へれば合理的にするた
めに、政治的関心が必要なのである。学問が政治に屈服してしまふやうでは、大学の権威は認め
大学の権威
五五

五六
られないであらう。かやうな屈服が晴獣の間に進行してゐるやうなことがないであらうか。最も
忌むべきことは、今日の時代の風潮に乗じ、これを利用して大学の政治化を企てょうとする老の
存在することである。大学は如何なる意味においても政治的でないといふのではなく、また政治
的であることが絶封に不可であるといふのでもない。只如何なる場合においてもその政治性は学
問的精神に反するやうなものであつてはならず、また大学は学問を擁護すべき立場にあることを
忘れてはならないのである。
 ギリシアの哲学者は、教育が国家に徒属すべきことを主張した。しかし彼等にとつて真の国家
とは単に権力的なものではなかつたのである○プラトンは法律篇の中で、真の教育を単なる職業
教育から障別して、真の教育とは1正義をもつて治めまた治められることを知れる完全な市民と
なる欲望と希求とを喚び起すところの徳への教育」
である、と云つてゐる。大学の国家への、撃
問の政治への従属が問題になつてゐる今日、この言葉は想起されるに値するであらう。教育の目
 − 1‡・        ≠11一Iミ1I!壱11−11−1′11・11盲111一l一
的は1完全な市民」を作ることであり、完全な市民とは1正義をもつて治めまた治められること
を知れるL老のことである。この場合、1正義」といふことの力説されてゐるのは勿論、「知れる」
といふこともプラトンの哲学の本層や鑑みて強調された意味に、即ち理性によつてその理由を認
肖t
匿掛敵野掛緑掛肘イ}鮎も簸けH多感火変掛弊j¥溺1′牢∴d・
ヨ州切W“項¶り句州瀾周づ州ヨ1川d」パヨルβヨョ】りヾ周ハ心当J一山頭nい」W→ョ箋。」憎」l NJJrトゥル当,。1し。′


                  亨一i.書
識してゐるといふ意味に解しなければならぬ。
大学の目的は完全な国民を作ることであるが、完
}一丁ll一l・,l一丁一,
仝な国民とは治める立場においては固より、
治められる立場においても正義に徒ふことを知れる
老のことである○アリストテレスもまた教育を国家に従属すべきものと考へたが、その際国家の
植カは理性と叡智とに基かねばならぬと述べてゐる。政治はその植力が理性に基くとき初めて権
威を有するのである。
政治が単に権力的なものでなく、真に権威を有するものであるならば、大
寧の精神である真理の意志とは矛盾しない筈である。政治をして権威を有するものたらしめるこ
ヽ.il
とが、政治に協力しようとする場合、大学の任務でなければならぬ。
大学の権威
五七