日本の場合



 東亜の新秩序の建設が今事変の目的として掲げられてゐる。この新秩序は次第に一般に東亜協同体と呼ばれるやうになつた。かやうな新秩序の実現されるためには凡てのものが根柢から新しくならねばならぬのは当然である。
 東亜協同体といつても固より東亜の諸民族がただいはば会議的に作り得るものではない。その建設において日本民族は指導的な地位に立つてゐる。そのことは単に日本民族の権利であるのでなく、東亜の天地に未会有の歴史的行動を起した日本民族の義務でもある。しかしながら東亜協同体の建設において指導的であるといふことと征服的であるといふこととは決して同じではない。もし日本に征服の意図があれは、それは東亜協同体の理念と矛盾するのであつて、日本がみづから進んでかやうな理念を掲げることは不可能であらう。東亜協同体は云ふまでもなく東亜の諸民族の共存共栄を目的としてゐる。
 日本の指導のもとに建設される東亜の新秩序には、日本自身も協同的にその中へ入つてゆかねばならぬものである故に、日本の政治も経済も文化もすべてこの東亜協同体といふ一つの新しい全体の立場から改造されることが要求されてゐる。この新しい全体の見地に立つた国内改革を行はないでおいて、東亜の新秩序を建設することは不可能であり、その建設において日本が指導的であることはできないであらう。東亜協同体の建設に支那の根本的な改造が必要であることは勿論である。しかし同様の改造が日本にとつては必要でないかの如き錯覚に陥らないやうに十分に注意することが大切である。
 このことは特に日本の文化について考へられねばならぬ。日本の文化が旧来のままに止まる限り東亜協同体の建設は成就されないであらう。日本の文化も変化し発展してゆかなければならぬ。日本の保守主義によつては東亜協同体は建設されず、その保守主義はこの際日本の征服主義を意味するやうに誤解される危険をもつてゐる。偏狭な日本主義を満洲や支那に押つけるといふことは窮極において成功し得る可能性がないのみでなく、東亜協同体の精神に反することでもある。
 日本には日本独自の文化がなければならぬやうに、満洲にも満洲独自の文化の発達するのが当然であり、また支那に対しては支那文化の独自性が認められなければならぬ。もとより満洲の文化や支那の文化が日本の文化の刺戟によつて発達するといふことは望ましいことであり、それによつて日本は指導的地位を占めるのであるが、この関係は文化の場合決して圧制的なものであることができぬ。ただ一色に塗りつぶすことは協同の本質ではないであらう。
 東亜の新秩序の建設において指導者であることは日本の責任である。それは日本民族の光栄ある歴史的使命である。しかしそのことが日本の文化上における保守主義や圧制主義を意味することにならないやうに留意することが我々にとつて特に大切である。 

   (十一月三十日)